電子書籍
優雅で感傷的な日本野球
著者 高橋源一郎
一九八五年、阪神タイガースは本当に優勝したのだろうか――イチローも松井もいなかったあの時代、言葉と意味の彼方に新しいリリシズムの世界を切りひらいた第一回三島由紀夫賞受賞作が新装版で今甦る。
優雅で感傷的な日本野球
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2021/08/28 22:06
高橋源一郎氏の野球論だから話はとんでもない方向に
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
自然主義が高じて、AV監督になってしまう田山花袋や女子高校生と援助交際したあげくブルセラショップの店長になってしまう石川啄木が登場する作品(日本文学盛衰史)を書く作家のことだから「優雅で感傷的な日本野球」なぞとというタイトルに騙されないぞと読み始める。この短編集に収録されている小説のいくつかでは、「野球」については「過去にそういったスポーツがあったらしい」という認識しかされていないという設定になっている(最近の若い人たちには野球に全く興味がない人が増えているというからいつかはそうなるかも)、「野球ではインチキこそが一番大切なものだったんだ」と真面目に語りだす人がでてくる始末。最後の「日本野球の行方」では、1985年、阪神は優勝しなかったと語りだす人も出てくる、でも、私も本当は優勝しなかったかもと一瞬思ってしまった
2020/07/04 09:21
野球が死後となった世界で、野球を再現しようと試みる少年を描いた高橋源一郎氏の作品です!
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、小説家、文芸評論家と活躍されており、散文詩的な文体で言語を異化し、教養的なハイカルチャーからマンガ・テレビといった大衆文化までを幅広く引用した、パロディやパスティーシュを駆使する前衛的な作風でお馴染みのポストモダン文学を代表する作家の一人である高橋源一郎氏の三島由紀夫賞受賞作品です。同書は、雑誌『文藝』に連載された後、「新しい構想のもと」に大きく書き改められて1988年に出版されました。同書は、断片的な7つの章で構成されており、野球における言語論的転回がパロディやパスティーシュを駆使して軽やかに描かれている傑作です。内容は、野球が滅びて死語になった世界で、バースは野球に関する言葉を図書館の本から集めることによって野球を再現しようと試みます。ここでは野球=言葉であり、真の「野球」に迫ろうとする行為は言葉を探し求め、切り貼りすることにほかならないのです。野球はあらゆるところに見いだされ、すべてが野球に置き換えられます。一体、バースは野球を理解できるのでしょうか。続きは、ぜひ、同書をお読みください。
2012/04/20 12:05
理解できない...力不足です
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:のちもち - この投稿者のレビュー一覧を見る
この世代は、プロ野球ファン、ひいきの球団の熱狂的な信者、が多い。今のプロ野球はちょっとスマートでキレイすぎるんだけど、以前はもっと「男くさい」感じで、中華料理屋のテレビ中継が似合う感じだった。著者自身は、かつてはジャイアンツ、大人になってからはアンチジャイアンツ、とわりとフツー(?)なタイプかもしれない、というくらいの前知識。
野球に関する小説だと思っていました。三島由紀夫賞を受賞した作品ということで、ご多分にもれず「野球好き」な自分としては、野球に絡んだ「感動」を勝手に期待しておりました。が...
正直、よくわからない、というのが感想です。ストレートな野球の小説では、少なくともありません。既に読まれた方の書評によると、本書の「深さ」や「面白さ」を感じていらっしゃったり、「野球にカタチを借りた日本文学に関する内容だ」とか、さすが「読み解く」力が備わっている方は違うな...と思わせる書評が並んでいる。
...残念ながら自分はそこまで深読みはできませんでした。「ポストモダン文学の鬼才」とされる著者の表現力は理解するには高尚すぎました。著者が日本野球に対してもっている想い、或いは文学そのものの味わい、どちらも理解力を越えておりまして...
ただ。これは何とも不思議な現象なのですが、クエスチョンマークでいっぱいになったアタマですが、読んだ後に、「この世界観」に浸されていることに気が付いたのです。次の本を読み始めたのですが、それはノンフィクションの内容であるにも関わらず、この本に対する「理解しよう...できない...でも何とか感覚でもいいから...」という気持ちが抜けなくて、完全に引きずっております。これをどう表現してよいものやら分からないのですが...
一部「実名」でプロ野球選手を登場させている場面があります。当時だから許されたのか、タイガースだから許されたのか、実名で架空のキャラクターをかぶせる、という荒業。これをどうとらえるか、なのですが、自分にとっては、これがある意味印象的で、「後に引きずる」原因になったように思われます。
最後の方になってやっと、ちょっとだけ笑える「余裕」がでてきました。これが理解の入り口なのかも...分からなくても読んじゃう、ミステリアスな世界。
【ことば】 晴れた空。緑の芝生。試合が始まる直前の、胸がしめつけられる気持ち。スタンドを埋めた観衆がかれの名前を連呼する...ああ、野球がやりたい!
これが、人工芝、屋根付き球場でやる野球に対する批判なのか?わからないけれど、プロ野球だって「効率」だけではなく、フィールドで野球をする選手たちの「純粋な」子どものときに初めてキャッチボールをした時のような気持ちを感じることが、見る側にも楽しさを運んでくるもの、である気がします。