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7件
生命とは何か-物理的にみた生細胞
著者 シュレーディンガー著 , 岡小天訳
量子力学を創始し,原子物理学の基礎を築いた人が追究した生命の本質とは? 本書は分子生物学の生みの親となった20世紀の名著である.生物現象ことに遺伝のしくみと染色体行動における物質の構造と法則を物理学と化学で説明し,生物における意義を究明する.負のエントロピー論や終章の哲学観など今も議論を呼ぶ科学の古典.
生命とは何か-物理的にみた生細胞
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生命とは何か 物理的にみた生細胞
2009/04/23 01:41
物理学者の分野を横断した勇気ある講演
11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:simplegg - この投稿者のレビュー一覧を見る
量子力学の生みの親であるエルヴィン・シュレンディンガーの著作.理論物理学の視点で,生命を考察した一連の講演をまとめたものである.1944年に初版が出版された.
自分自身,大学1年でシュレディンガー方程式に悩まされた経験があるくらいで,量子力学もシュレディンガーについても特別知らない.材料系の友達で,「モノの究極は原子で,自分は世の中のものがすべて揺れて見える」と言ったやつがいたが,やつの気持ちもよくわからない.ただし,極限の世界,量子の世界に興奮してたことだけは確かだ.きっと,やつは,シュレディンガーの天才ぶりを,
身を持って感じることができるのだろう.自分は,それすら感じることのできない門外漢である.
さて,そんな自分がどうしてこのような本を手にとったかというと,やっぱり,タイトルと著者の組合せに惹かれたということに尽きる.シュレディンガーという物理学者がどのようにして物理と生物という分野を横断してみせるのか,そこが気になった.
この講演は,まず次の疑問により始まる.「生きている生物体の空間的境界の内部で起こる時間・空間的事象は,物理学と化学とによってどのように説明されるか?」これに対して,シュレディンガーは希望的観測ではなく,より積極的な意味で,物理学,化学が説明しうるという可能性を講演を通して主張する.物理学については可能性を,生物学に対しては物理法則を考える意義を与えた.
全体を通して,一般的な読者を意識したものとなっており,自分でも何とか読むことができた.解説を読むと,どうも厳密でないところや,一面的なところがあるらしいが,そこは生物学者ではないし,時代的にもしょうがないところはあるだろう.ただし,大枠としては誤っていないというところがすごいところ.
それに,自分にとってその記述が厳密であるかは判断できないし,
随分と古く,今では高校の教科書に載っている話もある.そんなことより,一番魅力的だったのは,シュレディンガーが自分の見方に立って(物理学の視点で)生物学という分野に堂々と踏み入れて見せたところである.自分の専門分野の知識を振り回すのでなく,物理学と生物学との中間で宙に迷っている基礎的な観念を,双方の学者に対して明らかにした.知性と勇気のある講演だったと思う.
生命とは何か 物理的にみた生細胞
2008/10/01 16:14
「生命は負のエントロピーを食べて生きている」の名言、「生命物質は非周期的な一個の巨大分子」という推測。DNA構造提唱にいたる直前の生命機構探求の勢いを感じる名著。
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
シュレディンガーといえば波動方程式、とまず思い浮かぶであろう。その物理学者が、物質としての生命体の機構に迫った一冊である。
この本の新書版を読んだのは、分子生物学の進展が明らかになり始めたころだった。わけのわからない部分もあるまま、遺伝物質を推測していく論理の押し進め方、「負のエントロピーを食べて生きている」と生物を物質法則の観点から表現した名言に感心したものである。
今度文庫となり、「この本も古典の仲間入り」と感慨も覚える。
本書は1943年の講演原稿を基に書かれたもの。ワトソンとクリックがDNA二重らせんの論文を発表したのが1953年だから、それに先立つこと10年という時期である。本文中(第四章)にもあるのだが、マクス・プランクの量子論の発見と、メンデルの法則の再発見はどちらも1900年。自然界の「粒子」的な側面に物理、生物両面から光があたった年が同じ年であった、ということは偶然なのだろうか、必然なのだろうか。今となっては当然の知識のように教えられている生命の機構も、100年前には推測の域からやっと実験・検証の手が伸ばせるところに来たという状態だったのだ。そしてそれから数十年、さまざまな研究が積み重なってきたころ、この本の基となった講演がなされた。いかに「生命の鍵を握る物質」への最後の道がつけられつつあったのか、その時期の研究者の勢いや熱気が、この本には感じられる。
専門的な部分もあるが、数式は少なく、現代の高校程度の科学知識があれば充分読めると思う。大して長くもないので、是非、「生命物質は非周期的な一個の巨大分子」という、今ならDNAとしてそこから教えられている物質に到達するまでの「科学の謎解き」を読んでみて欲しい。エピローグには自由意志(決定論)や意識、神といった問題にまで著者は踏み込んでいる。いまだに論議の盛んなこれらの問題をすでに的確に把握していた著者には敬服するほかない。
文庫版のあとがきは、翻訳者の「性科学」的な関心の部分が強すぎる気味もあるが、この名著を21世紀にどうつなげるかの著者の意見は一読の価値はあるだろう。「最近(2007年)出版された通俗科学書のベストセラーもの」(「生物と無生物の間」)も、シュレディンガーの「負のエントロピー」の解釈の例として引用されている。そちらを読んだ方も、関係する重要な原著として、この本も是非お読みになることをお薦めしたい。
繰り返しになってしまうが、「生命」を考えた名著であり、分子生物学を生み出した名著である。
生命とは何か 物理的にみた生細胞
2010/05/31 15:05
何かのために存在するということ
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』で紹介されていたのに興味をもち、手にとったこの書、分子生物学の黎明期である1944年代に出された生命の本質を論じた名著である。もともと本書は、一般向けの講演をもとに書かれたもので、しかも著者のシュレーディンガー自身は、生物学者ではなく物理学者である。だから、さほど難解ではあるまいと高をくくっていたが、実際に読んでみると、興味深くもなかなかに手ごわい内容で、少しでも専門的な話題になると飛ばしながら読んでしまった。
本書ではまず、エントロピーという概念が説明される。煙を密室内に、あるいは色のついた液体を水中に放置すると、やがてそれらは部屋や水槽中に充満する。これは自然法則であるかのごとくわれわれは考えるが、実際にはそこに法則はない。なぜなら、煙や色のついた液体の分子一つひとつは重力以外何ものによっても支配されることなく、偶然に任せて動き回るだけだから。そして、その偶然的運動の総和こそが部屋や水槽に一様に散らばったそれらの物質の状態なのである。気体や液体が空間に均一に広がるのは単に、そうなる可能性が高いから、つまり蓋然性にもとづいているにすぎず、水中に放置された液体がずっと一つの場所にいる可能性もある。このような蓋然性にもとづく物質の無秩序性の度合いがエントロピーである。
他方、物質には自然法則に従う側面もある。原子においては、原子核の周りを電子が回っているが、これは偶然ではなく、法則にもとづいた運動である。核分裂などの特殊な条件があたえられないかぎり、原子核と電子は常に同じ運動と位置関係を保っている。分子においても、水素原子2個と酸素原子1個が偶然ではなく、自然法則にもとづいて結合することにより水という分子ができあがる。
生命を構成する最小単位である細胞も、元はといえば炭素をもとに複雑な仕組みを自己のうちに作り上げた高分子化合物から発達した分子であり、やはりこれも一つの法則にもとづいて動いているというのが、シュレーディンガーの結論である。
この考えを推し進めれば、無数の細胞からなるさまざまな高等生物も巨大な分子の一種と見ることができる。かくして、人間存在―肉体も精神もふくんだ存在としての―もまた自然法則に従う存在であるというのが、本書の結論である。しかしそこでは常に大きな矛盾をはらんでいる。すなわち人間は自由意志というものをもち、それにより自然法則をも制御するが、その自由意志もまた自然法則に従うのだという矛盾が。
それを解決するためシュレーディンガーは、古代インドの「梵我一如」のような考えを持ち出し、次のように主張する。すなわち、われわれ人間はおのおの別々の身体をもっているために意識もその数に応じて複数存在すると思い込んでいるが、実は世界と自我とは同一であり、世界に存在するのは単一の意識にすぎないのだと。世界を支配する自然法則と、それをとらえる意識とが同一であるというこのような見解によって、彼は自然法則の結果としての人間存在とそれが有する意識とを調和させようと試みる。
この最後の議論は、科学というよりも生命に関する著者自身の哲学というべきもので、必ずしも賛同はできないが、生命を、無秩序で偶然的なエントロピー最大の状態(すなわち死)に陥らないよう、一つの方向・目的をもって行動する存在ととらえるシュレーディンガーの見解には、非常な魅力をおぼえた。それは卑近な言葉で、「生きるとは何かのために存在すること」と置きかえられるかもしれない。