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30件
春にして君を離れ
著者 アガサ・クリスティー (著) , 中村妙子 (訳)
優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバクダードからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる……女の愛の迷いを冷たく見すえ、繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス。
春にして君を離れ
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春にして君を離れ
2009/05/28 17:21
人間に巣食う自己満足、独占欲がもたらす罪
34人中、33人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ろこのすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
第二次世界大戦がはじまる少し前の話である。
主人公ジョーン・スカダモアは中年の美しい主婦。夫は弁護士。子ども三人を立派に育て上げ、自分たち夫婦ほど幸福な者はいないと思っていた。それはひとえに自分が夫や子どものためにがんばってきたおかげだと自負するのであった。
末娘の嫁ぎ先のバグダッドへ娘の病気見舞いに行き、ロンドンへと帰路につく途中、テル・アブ・ハミドの砂漠地帯で長雨のため足止めを食う。
足止めを食っている宿泊所で退屈な日々を過ごすうち、来し方のあれやこれやを思い起こす。自分がどれだけ理想の家庭を築いてきたか、夫のためにつくしてきたことや、子どもたちの為に良かれとしてきたことを邂逅するうち、徐々にそれらが本物だったのだろうかと疑念を抱く。
夫の愛情の真偽、子どもが自分に抱く感情にはじめて気がつくのだった。
自分の顔は自分で見ることが出来ない。
どんな概容をしているのかを知るためには鏡でみると分かる。では鏡を見ることが出来なかったらどうだろうか?家族や、友人、周囲の反応が如実に物語ってくれる。
しかし、彼らが発する言葉や態度を正しく読み取れず、自分の都合の良いように解釈したとしたら、「自分」を正しくみることはできない。
人は己を直視することは少ない。自分の醜さの部分ならば、さらに直視しようとはしないものだ。自分を正しいと思いこみ、他者の人生までも自分の思い通りにしようとする。しかも、それが愛するが故の強制であったなら思い通りにされた者の人生はどうなるのだろうか?しかも「愛」と思い込んでいたものは、実は自己満足以外の何ものでもなかったとしたら。
愛するがゆえに赦されないものは何だろう?
幸福とは何だろうか?自己満足と云う愚かしさ、独占欲がもたらす罪。
それらが織りなす物語。
虚構の世界ではあるけれど、現実にどこにでもあるあの人やこの人の人生がここにはある。いや、これは私のことかもしれないと思ったとたんぞっと過去を振り返るのだった。
そして何よりも一番怖かったのは最後に夫のロドニーがつぶやいた言葉である。
人間に巣食う自己満足や、独占欲、幸福のあやうさを、淡々としかし深遠にえぐってみせたメアリ・ウエストマコットの最高傑作である!
実は何を隠そうメアリ・ウエストマコット!というのはアガサ・クリスティーの別名である。
アガサ・クリスティーが殺人も、探偵も出てこない小説を6篇だけ書いた。
そのうちの一つがこの本。
アガサ・クリスティーは長い間アガサの名を隠してメアリ・ウエストマコットの名のままこの作品を出していた。
アガサ・クリスティーはこの本の構想を長年練ってきたそうだけれど、書き始めたら1週間で書き上げたのだった。そして完成したときは性も根も尽き果ててすぐベッドにもぐりこんで、一語も訂正せず、そのまま出版したという。
アガサの名をなぜ長い間秘して本書を出版したのか?その謎を推理してみるのも面白い。
言葉の泉
春にして君を離れ
2008/12/15 12:37
誰も死なない、そして何より恐ろしいミステリー
18人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:空蝉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
良妻賢母の主人公ジョーンが、単身旅行の帰り道、かつての学友と偶然会い、一抹の不安を掻き立てられたことからすべてのものがひっくり返っていく。自分の信じてきた夫、子供達、家庭、落ち度の無いはずの自分の人生・・・自分の築き上げてきた過去すべてが、だ。
だれも死なない、事件もおきないこの物語は、しかし殺人事件以上に恐ろしいミステリーである。
人は己が培ってきた経験や築き上げてきた人間関係、環境など様々な過去を土台に今を生きている。信じられないものが多いこの世界の中で唯一最も信じられるモノは何か。自分が今生きていて、生きてきた過去があるということだ。しかしこの唯一頼れる過去とその自分が、実は信じていたものではなかった、としたらどうか。
この作品の主人公ジョーンはまさにそういう恐怖に崩れ落ちていく。真実であると思い込んでいた過去が崩壊し、家族や友、ついには自分自身の『本当の』姿が次々と現れる。
根底から覆されるという恐怖がいかほどのものか、読者は知ることになるだろう。
最終的に彼女が選んだ道は・・・ラストを読んでもらえば判ること。ひとついえるのは、彼女はひとつの彼女を殺し、ひとつの彼女を選んだ。血を流すことの無い、殺人の起きないアガサ・クリスティの作品。しかし、ここにひとつの立派な殺人が、起こっていたのである。
春にして君を離れ
2009/05/03 23:43
主観と客観の大きなズレが生む恐怖
12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:カフェイン中毒 - この投稿者のレビュー一覧を見る
推理小説ではない、クリスティー作品です。
ところが並みの殺人事件よりも恐ろしい。
一人の平凡な主婦の独白が、次から次へと恐怖を提供してくれます。
結婚して遠方に住む娘の見舞いに出掛けたジョーン。
母親としての役目を無事に終えた充実感を胸に、帰路へつきます。
鉄道宿泊所の食堂で、学友の女性とばったり顔を合わせるのですが、
若さを保ち、品の良い弁護士夫人である自分とは対照的に、
落ち着きのない薄汚れた中年女になった友人の姿。
幸せになる努力もしないで、好き勝手に生きてきた彼女の自堕落さを、
憐みつつも、ジョーンは優越感にひたります。
その後、思うように運ばない陸路での旅で時間を持て余すジョーンは、
この学友の言葉に導かれるように、愛する夫や子供たちとの会話を、
じっくりと思い返すことになってしまいます。
いわゆる「何を言っても、聞く耳を持たない人」というのがいますが、
じつはジョーンがそうなのです。
それがどう家庭に、生き方に影響しているのか、薄皮を剥ぐように少しずつあきらかになっていきます。
彼女の回想は、かなりはっきりと客観的事実をこちらに伝えてくれます。
ここまで気づいているのなら、なぜ自分の家庭が順風満帆だと思えるのか、逆に不思議でたまらないくらいに。
そこにこの物語の、本当の恐ろしさがあると思うのです。
同じ事実を前にしたときの、ジョーンとそれ以外の人たち(読者も含む)のとらえ方のあまりの違い。
主婦として懸命に働き、家族のことに心を砕いて努力を怠らないで生きてきたと言い切るジョーン。
しかし彼女は、いちばん大切であるはずの「目の前の事実を受け入れる」ということに対して、
恐ろしいほどに怠惰だったのです。
ジョーンが、そして彼女に不満を持ちながらも逃げるか諦めるかしてやり過ごしてきた家族が、
気の毒ではなく恐ろしく感じる、そういう物語だと思います。
殺人も命を脅かす出来事も起こらないのに、終始ゾクゾクして一気に読んでしまいました。
ジョーンに救いはあるのか、未読ならばぜひ確かめてみてください。