小僧の神様 他十篇
著者 志賀直哉 (作)
志賀直哉(1883-1971)は,他人の文章を褒める時「目に見えるようだ」と表したという.作者が見た,屋台のすし屋に小僧が入って来て一度持ったすしを価をいわれまた置いて出...
小僧の神様 他十篇
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商品説明
志賀直哉(1883-1971)は,他人の文章を褒める時「目に見えるようだ」と表したという.作者が見た,屋台のすし屋に小僧が入って来て一度持ったすしを価をいわれまた置いて出て行った,という情景から生まれた「小僧の神様」をはじめ,すべて「目にみえるよう」に書かれた短篇11篇を収めた作者自選短篇集.(解説=紅野敏郎)
目次
- 目 次
- 小僧の神様
- 正 義 派
- 赤 西 蠣 太
- 母の死と新しい母
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体感湿度を下げる読書できます
2011/06/28 11:55
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:辰巳屋カルダモン - この投稿者のレビュー一覧を見る
明治45年(1912年)から大正9年(1920年)に発表された短編集だ。
ときに「小説の神様」が、まだ「新進作家」だったころである。
私小説・心境小説(自分を主人公に私生活をあからさまに描く)と客観小説(普通の創作)がほぼ半分ずつ。短編の代表作と言われるものがほぼ入っている。プロレタリア文学風あり、ユーモア時代小説ありと豊富なバラエティだ。
他人の家の中を覗き見るようで好みではない、と思っていた私小説だが、今回読み直して案外と楽しめた。
例えば『好人物の夫婦』である。
旅行に出たがる夫とその間の女性関係を心配する妻、妊娠したらしい女中の相手が夫ではないかと疑う妻、そして、その妻の気持ちを思いやる夫。ほとんど夫婦の会話で進行する。
ひとつ間違えれば暗い悲劇に進みそうな題材だが、意外にも、ほんわりした結末になるところが面白い。
『清兵衛と瓢箪』は三人称の客観小説だ。
著者と父親との確執がベースにあるらしいが、それは知らなくても(知らない方が?)楽しめる。
なぜか「瓢箪作り」という渋い趣味にハマった清兵衛少年は、勉学そっちのけでいくつも丹精するが父親は苦々しく見ている。授業中に瓢箪を磨いていたところを教師に見つかり、父親にもひどく叱られて、瓢箪趣味は続けられなくなる。教師は清兵衛の瓢箪を「捨てるように」学校の老小使にやるが、それを骨董屋が鑑定してみたら……。そして、清兵衛はもう瓢箪のことは忘れて、今は絵を描くのに夢中になっている……。
書かれていることは事実だけだが、行間や余白が雄弁に物語る。
共通するのは、乾いた短文でたたみかける作風と文法上の破綻がない整然としたところだ。
教科書や問題集、入試問題によく使われたのもうなずける。(今はどうなのだろう?)
文豪には嫌われるという記号類、( )や――、?、! が頻出するのは新鮮な印象だ。
「行間を読む」ということばがあるが、志賀直哉の作品は誰もがほぼ間違いなく行間を読めるようになっている。だが、幾通りもの解釈が可能なわけではない。想像が無限に膨らむものでもない。深読みは受け付けない、解釈はいつもただひとつ、だからこそ試験問題になリ得たのだろうが。
そこがいいのか、悪いのか、現代の読者には悩ましい。
志賀直哉、体感湿度が低いサッパリとドライな小気味よさが、梅雨時や蒸し暑い夏場の読書に向いている、と言えようか。
「好人物の夫婦」の何気ない夫婦の会話が好きだ
2019/01/26 00:11
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「好人物の夫婦」のような何気ない夫婦の日常を描いた作品の中で交わされるきれいで優しい会話が好きだ。何の気をてらうでもない穏やかな流れで物語は進行する。もちろん、どんでん返し(女中が身ごもったのは良人の子供だった!とか)もなく、終了するのがそれが好きだ。横光利一の「蠅」に代表されるような後味の悪い作品も好物なのだが、この終わり方も好きだ。「流行感冒」についての作者のあとがきを読んで親として辛く、切なくなった。主人公の極端すぎるとっも思われた言動も無理からぬものだと納得してしまった
さーて、来週のサザエさんは。
2006/05/11 13:41
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:松井高志 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この文庫本に収められた小説「赤西蠣太」は、志賀直哉の珍しい時代物であるが、ネタ元は講談本で、川口松太郎の「人情馬鹿物語」の重要人物でもある悟道軒圓玉という講談師(というより講談速記の作者)が書いたものである。
「伊達騒動」の悪玉・原田甲斐と伊達兵部の謀略の証拠を掴むために潜入したスパイの運命を描く脇筋があり、「赤西蠣太」はそれを上手く近代小説にアレンジしたものである。従って、伊達騒動とはなんぞや、が分かっていなければ全く面白くない。これは山本周五郎の「樅ノ木は残った」も同様で、「樅ノ木」が伊達騒動の正史であると考えている人がかなりいるとすれば、たとえそれがより虚説より史実に近いものであっても、これらの近代小説を読み誤ってしまう危険がある。これらの小説は芝居や浄瑠璃の「先代萩」や講釈の「伊達騒動」ものを通じて、「フィクションとして」近世・近代の大衆に浸透していた筋の上に成り立っているのだ。
志賀直哉は、この小説に出てくる小江(さざえ)という女性のキャラクターを意図的に圓玉のそれと極端に変えている(この文庫本のあとがきにもそう書いている)。講談によくあるただの「お彩り」としての女性キャラではない。また、登場人物の会話も、おそらく意図的に近代的である(登場人物が「おれ」「君」と呼び合う)。つまりこれはいわゆる「時代小説」ではないのである。作者がこの種の作品を他に残さなかった理由も、概ねこれで理解できる。作者にとっておそらく一種の寄り道であって、だからこそ、この作品は楽しいのである。
小説の神様
2023/07/08 12:17
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みみりん - この投稿者のレビュー一覧を見る
代表作「小僧の神様」をもじって、著者・志賀直哉は「小説の神様」と呼ばれています。
「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」「城の崎にて」は以前読んだことがある気がする。
志賀直哉の短編は無駄がなくて読みやすい。
長編にも挑戦してみようかな。
小僧寿しに敗北した「小僧の神様」
2006/05/12 10:17
19人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
かつて「お寿司」はご馳走だった。丸い「桶」に並べられた出前の寿司は平素みたことのない、来客時にのみ机上に載る「ハレ」の食べ物だった。「小僧の神様」は、一般の貧乏人にはお寿司が高嶺の花でなかなか手の届かないご馳走だった時代に書かれた小説である。これを読んで「ああ、お寿司が食べたいなあ。でも無理だよなあ」と思えるからこそ、見ず知らずの小僧にただで寿司を食べさせてくれるアカの他人が神様に昇格したわけである。今は違う。寿司なんてどこにでも売っている。そもそも電話一本でバイクで運んできてくれる。ブッシュ大統領と小泉首相が音頭を取った弱肉強食の自由貿易推進の恩恵で、世界中、トルコ、インド洋、オーストラリア、アフリカ沖から海老、蛸、マグロ、鯖が続々と空輸されてくるようになって、寿司の値段は劇的に下がった。いまや新宿のホームレスでも寿司を毎日のように食べて糖尿病になるご時勢なんである。こんな時代に寿司をおごってくれる人がどうして神様になろうか。なるわけがない。いまどきの子供は「小僧の神様」なんか読んでも共感なんか絶対にしない。そもそも感覚がずれすぎて意味がわからないだろう。まして「赤西蠣太」なんてどこが面白いのか私でさえ今の今までわからなかった。その時代、その時代で「常識」はまったくことなる。この小説がかかれた当時は「講談(いまで言えばテレビのバラエティ番組かお笑い番組に相当するもの?)を通じて馬鹿でもちょんでも知っていたことを今の馬鹿は知らない。いや、私のような読書する教養人でさえ知らない。つまり小説とは、かなりの部分時代の産物であり、消費財であって、何十年も経つと、その大部分は「ごみ」と化すのである。私が志賀直哉を読んだのは受験の教材として頻繁に取り上げられたからである。だからやむを得ず読んだ。私はまだお寿司がご馳走だった時代を辛うじて知っていたので、「小僧の神様」は、まあ楽しめた。でも「赤西蠣太」がちっとも面白くなかった。どこが面白いのかさっぱりわからず投げ捨てた。やたらにだらだら長い「暗夜行路」しかり。このどこが名作なんだと腹がたった。いまや志賀直哉なんか受験の教材になんかならない。なるのは重松清や伊集院静である。こうして志賀直哉は忘れ去られていくのである。思えば、寿司が安くいつでもどこでも食べられるようになったのは「小僧寿司」が登場してからであろう。そう、「小僧の神様」は「小僧寿司」によって成敗され駆逐されたのである。