1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:明け方 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「語り得ないものを語る」という意図のもとに書かれた本作は、
かなり晦渋な表現と、目のくらむような心理描写によって、
思春期の少年の内面を描いている。
いじめや少年愛など、「普通」の人間の感覚からすれば、
異常としか言いようのないことが起こるのだが、
「なぜそれを実行したのか」、「誰が悪いのか」という、
常人が考える普通の問いにも、答えは見つからない。
ただ思春期という混乱した時期に
そうしたことが日常と連続した
いつそちらへ傾くかもしれぬ身近な世界として
描かれているのが本作の現代にも通じる美点なのかもしれない。
いじめに興味がある方は
(何か教訓が得られるかは分からないが)
御一読されるとよいかと思う。
寄宿生テルレスの混乱
2016/11/07 13:27
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:によ - この投稿者のレビュー一覧を見る
これすごく雑に言ったら厨二病の一種なんだろうが、その孤独も戸惑いも恥ずかしさも全てが常に身近で、この混乱は生きているという状態なんだなぁ、と。
哲学って大混乱の汚泥の中からわずかに滲み出る一滴なんだろうな。
今回印象深かった箇所。
「テルレスを苦しめていたのは、言葉が機能しないことだった。」の一文とその前後。
「謎なんて知らないよ。なんでも起きる。それが、知恵のすべてだ」
それから解説の一文「なにかを物語に回収することによって、それ以外の大切なものが見過ごされたり、捨てられたりするのではないか。」辺り。
良かった。
投稿元:
レビューを見る
"というのも、大人になりかけの人間の最初の情熱とは、ひとりの女にたいする愛ではなく、みんなにたいする憎しみなのだから。自分が理解されていないと思うこと。そして世間を理解していないこと。そのふたつのことは、最初の情熱にくっついているものではなく、最初の情熱のたったひとつの、偶然ではない原因なのだ。"
"人間が生きる人生と、人間が感じ、予感し、遠くから見る人生とのあいだには、狭い門のように、目に見えない境界線がある。できごとのイメージが人間のなかに入っていくためには、その門で圧縮される必要がある。"
"思想が沈黙しているときに、ものごとを見ていると、ぼくのなかでなにかが生きているのだ、と。それは、ぼくのなかにある暗いものです。あらゆる思想のなかに隠れているけれども、思想では測れないものです。言葉では表現できない生ですが、ぼくの生なんです・・・この沈黙している生が、ぼくを暗い気持ちにさせ、ぼくのまわりに押し寄せてきたのです。"
寄宿生テルレスが、そこで起こる暴力や性にたいして、ものごとと魂の関係性にたいして、意味を見いだし、心の平安を持ちたいと願うが、混乱する一方。世界はデタラメだし、自分自身、清らかでありたいと同時に、暗いものに魅せられていく心から逃れられない。ものごとはものごとのままでもあるし、ものごとのままでもないし、他人は他人。ひとりひとりの人生に出来事やものごとなど、まったく予測し得ない形で突然現れては消えるもの。
心の混乱を混乱として描いた傑作。
投稿元:
レビューを見る
曖昧な代名詞にてこずった。
登場人物がことごとくいけ好かない奴らで、特に、生々しい欲望を理論で正当化しようとする態度が、気に食わない。
終始一貫、その不快感が纏わりついて、それでもなお読み進めた。
認められないことを受け入れられないのは少年期特有では、あるよね。
そういえば、テルレス少年と同様、ビートたけしさんも虚数の感覚について語っていた。
賢い人間は謎に興味を持って突き進むが、僕みたいな人間は、ぶち当たって挫折する。
妄想も勉強も、対する姿勢ってのは大事です。
投稿元:
レビューを見る
んー、かなり前に読んだけど、意味分かんない。
ドイツの学校って、なぜにBLみたいなのさ。
文体が、とても混乱しているのがすごい。
投稿元:
レビューを見る
ずっと興味があったけれど、はじめて手に取りました。
少年の混乱の、湿度や手触りまでそのまま伝わってくるような
文章ですごかったです。
でも、あまり好きではないかも。少し辟易したかもしれません。
投稿元:
レビューを見る
面白かった。
ムージルの他の著作にも言えることだけれど、最初はどうにも難解に思える。だけれど、読み進めていくうちに著者の語っていること(あるいは語っていないこと)がなんとなく見えてくる。
そして決して語り得ないことを必死で語ろうとするその姿勢に打たれる。
名作です。
投稿元:
レビューを見る
ドイツのBL。だから少々観念的、一筋縄ではいかない。本文にもあるが、「すべてのものがダブルミーニングになる」瞬間を刻々と描く。表と裏がひっくり返り、覆いを取れば内実がまた新しい覆いとなって現れる。セクシャリティに関することもそうで(ちなみにプルーストは『失われた時を求めて』でほとんどの登場人物のそれを物語の後半にひっくり返した)、テルレスがエクスタシーに達するのはそのような反転のインパクトによってである。
投稿元:
レビューを見る
★をどれくらい付ければいいのか分からないので無し・・
初めてムジールの作品を読んだ者の軽はずみな感想ですが・・
人物の台詞ひとつで2pにも及ぶ物は初めてだった
「一筋縄ではいかない」というレビューをあらかじめ見ていたので
覚悟はしていたが、私がせっかちなのもあってパラ読みしてしまった・・
でもあとがきで「速読するのが良い」とあったので結果オーライかな
テルレスみたいな友達が欲しいと思った。
喧嘩が起こっている中でついに無関心になってしまうような経験は私もあるし、彼のような、誰にもすがりついたりせず、けれど自分の考えはしっかり持っているような人は好きだ。その考え方が哲学的で大人にも理解してもらえなくとも。
でも例えテルレスに、金魚のフンのように追いかけても、
変な女だな、ぐらいにしか思われないんだろうな~w
そういえばこの話、映画化されているんだね!
でも実写版バジーニが「ジャガイモ」らしいので、観たくないっすね。
一回目はザッと速読したので次はゆっくり読んでみようかな。
投稿元:
レビューを見る
読み終わったこっちもなんだか混乱。ホント、混乱というタイトルそのものって感じ。まあでもこれも青春というものなんでしょ。
投稿元:
レビューを見る
思春期の少年が特定の(特殊な)環境に置かれることで
内面に生じる様々な「混乱」が描かれています。
だけど、これ、帯の売り文句がいただけないなぁ。
古典の新訳なので新たな読者層を獲得したいという意図は
理解できるんだけど、
「ボーイズラブの古典」という一言に喰いつく人と同じくらい、
逆に、そのフレーズにげんなりして
購入をためらう人も多くいるのでは?
――なんて、余計な心配をしたくなってしまった。
主人公たちは半人前の分際で娼館へ女を買いに通ったりしてて、
とても同性愛者とは思えない。
精神的な愛とは別に、性的な衝動が存在し、
年頃や特殊な環境のせいで、後者が暴力的に弾ける、
ってことなんじゃないのかと。
主人公はその暴力に消極的に加担しつつ、
結局嫌気が差して去っていくのでありました。
このラストにはホッとした。
映画も観てみたくなりました。
投稿元:
レビューを見る
「門なし」少年一代記?
ムージルの「寄宿生テルレスの混乱」を70ページくらい(3章まで)読んだ。
すばらしい宝の鉱脈を発見したと思っても、坑道から外に出てみると、もち帰ったのは、ただの石やガラスの破片にすぎない。にもかかわらず、闇のなかで宝はあいかわらず輝いている。
(p8)
これは序に挙げたメーテルリンクの言葉から。言葉によって出されると、やはり自分が見つけ出したと思ったものとは何か違和感を感じる。でも、それでもムージルが語ろうするのは、闇の中に輝いているものが忘れられないためだろう。
んで、「テルレス」とはドイツ語の「門」と英語の「~レス」との合成語で、いわば「門なし」という意味となる。日本語の名前に無理やりすると(順番変えて)「無門」さん?
その「門」が何を意味しているのかというと・・・
当時、性格と呼べるものがテルレスにはまったくなかったようだ。
(p22)
「門」=性格? では性格とは何? というか、皆さんは性格と呼べるものを持っていますか? 性格はキャラクターの訳語でもあることからしてわかるように、何らかの物語的要素、いってみれば人間が相対する他人(達)を理解しやすいように(また自分という「他者」をも理解しやすいように)配置する仕方、なのかもしれない。性格がなかった、と語るムージルは、そういう安易?な物語的要素を拒否したかったに違いない。また、なんとなく自伝的なこの小説、全寮制学校で起こるいじめ、同性愛などといういかにも濃そうな筋に反してのこの即物的な、なんかの実験報告(ムージルは実験心理学も学んでいる)みたいな書き方(それを活かした丘沢氏の訳含め)も注目。
でも、なんか「門」っていうのとは違うような・・・じゃ、こんなのは?
性的なものが、思いがけず、ちゃんとした脈絡もなしに、テルレスのなかに押しかけてきたのである。
(p40)
「なしに」って書いてあるから「門」=脈絡とも思えるけど(そうなると上の物語というのに近くなる)、ではなくて、何か押しかけてくるものを拒めない、何でも入り込んでくる、ゲートのない個人、境界のない個人、ということですか・・・「門」にだいぶ近づいてきた・・・普通は性的なものなんてのは個人内部に年齢とともに生成してくる、と考えがちですが、ムージルは違うらしい。これと関連するのが、屋敷の扉を閉めて歩く母親や、幼い頃の暗くなる森に取り残された体験など。自分という境界を持つ個人存在の危うさ。
ま、こんな小説?なので、クンデラがムージルを高く評価するのもわかる(ちなみに「特性のない男」(特性・・・まさにキャラクター!)になると、どんどん物語的要素はなくなり、クンデラの評価も上がる(笑))。さっきの即物的語り口合わせ、クンデラはムージルの後継者といってもいいのかも。この「寄宿生テルレス」は処女作ということで、クンデラの「生は彼方に」になんとなく似てる、かな。どっちも「入門」。「門」はないけど・・・
(2012 03/21)
預言の書?…いやいや…
えと、おはようございます。
前に書いたように3月中の読了目指して、「寄宿生テルレスの混乱」読んでます。えと…青年期の混乱を、混乱のままお茶の間?の皆様に届けようとするのが、作者ムージルの考えなので、こっちも混乱してきますが…そいえば「門」という言葉そのものが出てきたなあ…明るい世界と暴力や悪の暗い世界、その境界線の「門」。テルレスにはそれがない…というのは違うような…
で、標題ですが、テルレスの前に二人の不良?同級生が現れます。バイネベルクとライティング。バジーニというこれまた(美少年の)同級生の盗み事件を巡って、この二人の思想というかお喋りがテルレスの前で展開します。ライティングの方は革命、暴力を代表する。それを聞くテルレスは「もう革命の時代は終わったのに…」とたぶんフランス革命か1840年代を想定して思うのだが…1906年に出版されて間もなく革命の時代それに乗じて暴力の時代となったのは、言うまでもない。
一方のバイネベルクは、そういうライティングと他でもないバジーニが同性愛関係にあるのをみつけ、ライティングをはめようとする…らしいのだが、ライティングとの対比で注目すべきはバジーニに対する考え方。バジーニには生きている意味がないからどうなってもよい、とする思想(これはまだ形にはなっている?)、社会全体をなんらかの有機体のように見る見方は、ドイツ観念論に根を持ち、やがて全体主義に発展する、その幼い形を感じる。
というわけで、この「寄宿生テルレスの混乱」は預言の書でもある…戦争とファシズムの…でも、実際のムージルの周囲がどうだったかはともかく、こうした考え方、動き、というものは、ロシア革命やナチスに結実しなくとも、別の形でも常に存在しうる、そう考えた方が、この本の読み方としてはかなっているだろう。
(2012 03/26)
虚数
えと、おはようございます。
「寄宿生テルレスの混乱」も中盤に入ってきました。まずはこんな文章から。
晩秋の太陽がぼんやりとした記憶で草地や道をおおっている。
(p133)
「記憶」ってのが中に入ってくることで、なんか独特の空気に、ぽんと投げ込まれる。普段は結びつかないものが、そこでは結びつく。この小説には他にもこのような表現が多い。
一方では、発明者の力によって、たわいのない説明の言葉に縛りつけられたものでありながら、もう一方では、いまにもその言葉から逃れようとする完全なよそものであるのだから。
(p138)
ここは前々ページの青空を見て無限を感じたところからの引用でもいい。今のテルレスはその二つによって引き裂かれて「混乱」している。語り得ぬものには沈黙?
上記は今朝の最初に読んだところからだったけど、一方、今日読んだところの最後には虚数の話が出てくる。
それってさ、最初の橋脚と最後の橋脚しかない橋に似てない? そんな橋なのに、それ以外の橋脚が全部そろってるみたいな顔して、安心して渡るんだ。そんな計算って、ぼく、めまいがしそう。道の一部がどこ行くかわからないようなものだから。
(p162~163)
やられちゃいましたね…
自分が虚数習った時はこんなこと考えたことなかった…東京発大阪行きの飛行機に乗って、19世紀末のウィーンをかいまみてしまうような感覚?
さて、この2つの哲学的ページの間には、例のバジーニいじめの場面がはさまれている。この思索と筋がどんな小説上の関係にあるのかまだ自分にはわからない。でも、最初の引用文の異質なものも、どこかで重なるのだろう。平行線でさえ、どこかでは交わるそうなのだから…
(2012 03/28)
人間なんてあまりにも日常的な鳥かごのようなもの
えと、標題は「寄宿生テルレスの混乱」p204の文から、タイトル用に短くしたものです。
ということで、筋的にはテルレスはバジーニのことが気になって仕方がなく、まあそこから同性愛に発展していく…のですが、読みどころはその内容ではなく、テルレス少年あるいは青年が「自分」というものをどうやって「自然」的に考えていくか、そのプロセスにあります。
でもいま、ぼくの考えは雲みたいでね、ある場所に来ると、雲の裂け目みたいで、そこから遠くの漠然とした無限が見えるんだ。
(p180)
こういう雲とかいう表現みると、量子力学の電子雲連想してしまいます。で、そこに青空の無限…強烈なイメージ。
この会話をバイネベルクとした夜、カントと数学教師などの夢を見て、その後の夢うつつ状態で自分の官能について発見?し、「明日ノートに書こう」と考えます。このノートはゼーノにとってのタバコみたいなもの?完成することはなくいつも先延ばし…
で、翌日…
テルレスという有機体におおいかぶさる大波を解釈するためにテルレスが使えたのは、テルレスの感覚が大波から受けとめたイメージだけだったからだ。
(p201)
前ページの深い地底の地震というところを引用してもよかったのだけど…
ここでいう大波とはさっき言った官能とか感情とかいったもの。どうやらテルレス…或いはムージルは…官能とか感情を個人を越え出た全体的な波のようなもの、と捉えているようです。この後では「人間たちから逃げてきた感情」といった表現もみられます。もちろんテルレスが体験しているこうした波は彼由来ですが、回りのモノ、そして他人という個別性を越えたものを、テルレスは捉えようとしている。そこで、標題の表現につながるわけです。
丘沢氏の翻訳、その他
えと、今日読んだ「寄宿生テルレスの混乱」のその他…です。
今回は光文社古典新訳文庫の丘沢氏の訳で読んでいるのですが、さすが「今、息をしている言葉で」(だっけ?)をキャッチフレーズにしている文庫だけあって、今っぽくて読みやすいです。前にもムージル読んだけど、ここまですっとは入ってこなかった…今日読んだどこかに「粥のように」みたいな比喩があったけど、原文どうなっているのだろう?ちょっと気になります。
ムージルにしてもナボコフにしても、代表作の長編だけでなく、こうした若い頃の読みやすい作品も出してくれるのがこの文庫シリーズのいいところ。
19世紀の小説が、社会的・関係重視(バルザックとかゾラとか想定してます)だったのに対し、20世紀に入ってからの小説は、ジョイスにしてもプルーストにしても、それからこのムージル(チェコの家系らしい…チェコ風にいうとムシル)にしても、個人的・精神的な方向に進む。それはこの時代に精神病が���題となり精神分析的なものがシャルコーやフロイトらによって発展したのと恐らく同じ理由…
んで、21世紀には両者が交差した点に新たな小説の方向性が…ある?
(2012 03/29)
大人になったテルレス?
人間が生きる人生と、人間が感じ、予感し、遠くから見る人生とのあいだには、狭い門のように、目に見えない境界線がある。できごとのイメージが人間のなかに入っていくためには、その門で圧縮される必要がある。
(p239)
またしても、「門」。今度はまたなんか違って前に少し書いた量子力学的な比喩になっている。さっと、何かをかんじている漠然とした雲のようなものに当てる、光、思考、言葉・・・それらは明確な形で取り出すことはできても、圧縮や変形が必ず起こる。そんな「門」が「門」なしテルレスにはない?・・・ことはないのだろうけれど・・・門がないのはテルレス個人の問題というより、この時期の少年の特有の精神なのかも。
テルレスはどの感情の名前も知らなかった。どの感情についても、なにをはらんでいるか知らなかった。けれどもそうだからこそ、陶酔に誘う力があるのだ。
(p251)
続いて、テルレスもバジーニと性的交渉(の前段階みたいなもの?)に至るけど、それでいてバジーニ自体は軽蔑してたり、それよりもっと他のものを切望していると書かれたり、なかなか複雑なものらしい。この辺に知性と魂のバランス関係論が出てくる。
放蕩者が馬鹿だからだ。知性に対抗してバランスをたもつ魂の力がたりないからだ。
(p253)
この知性対魂という構図はよく(主に前期の)トーマス・マンに現れていたものだ。でも、構図は逆になっている? マンでは魂の方に芸術的・退廃的な力を見出し、ムージルでは知性に芸術・繊細なるものへの道を見出している。この辺りは単に訳語の問題か、自分の読解不足か、それとも二人の重要な差異なのか? 詳しく調べてみなくては・・・ムージルにとってこの小説の一番のキモにさしかかったみたいなこの辺で、いきなり大人となったテルレスの回顧話というのが出てくる。テルレスはカストルプ(マン「魔の山」の主人公)と違って長生きしたみたい。今までそんな素振りも見せずに、即物的な書き方だけど丁寧にテルレス少年に付き添ってきたのに、唐突な大人テルレスの乱入?に少し戸惑う。
20章(この文庫版での章分け方)まで読んだ。後、50ページ・・・
3月駆け込み読了「寄宿生テルレスの混乱」
えと、無理やり最後まで読んでしまいました・・・
灰色の、醒めた失望の海が自分とテルレスのあいだに割りこんできたように感じた・・・。
(p280)
ここで何の前振りもなく視点がバジーニになっているのも注目点だけど、ここでも感情というものが個人の枠を越えた海というか靄というか渦というか、そういうものとして描かれている。小説最後の先生達を前にしたテルレスの「演説」も、こういう感情の海みたいなものについて言っていたと思うけど、その時にはこうした渦を半ば客観的に見ることができるようになっていた、ようだった。この辺はも少し再考の余地有りか?
最後は、テルレス・・・というかムージルの制作姿勢そのもの���ようなこんな印象深い引用で締めましょう。
自分の魂が黒い土地のように思えた。地中では芽がもう動いているのだが、それがどんなふうに芽を吹くのかわからない。庭師の姿がしきりに浮かんできた。毎朝、苗床に水をやっている。むらのない、じっと待ちつづける友情をもって。その庭師の姿がテルレスの心を離れない。
(p292)
テルレスの虚数の話、橋脚の間の虚無の話から、到達する2つの地点。p274−275のバイネベルクの跳び石と、ここでの黒い土地。どっちが正しいか・・・ではなく、2つの側面と考えよう。一人の人間の発達で通過する、あるいは(ひょっとしたら)ある民族の、社会の思想史で見せる、2つの側面。
(2012 03/31)
投稿元:
レビューを見る
物語の構造の分析だとか、メタファーを勘ぐるだとかっていうのをしたくない小説。
センテンスが美しい。
それぞれ”魂”が知識、経験、本能、知性でできた土壌に根付く過程は人それぞれ違うのだから、構造や、個人個人の表面的な人格が気にくわないというのは、読み方としてちょっと違うような。
投稿元:
レビューを見る
これすごく雑に言ったら厨二病の一種なんだろうが、その孤独も戸惑いも恥ずかしさも全てが常に身近で、この混乱は生きているという状態なんだなぁ、と。哲学って大混乱の汚泥の中からわずかに滲み出る一滴なんだろうな。今回印象深かった箇所。「テルレスを苦しめていたのは、言葉が機能しないことだった。」の一文とその前後。「謎なんて知らないよ。なんでも起きる。それが、知恵のすべてだ」それから解説の一文「なにかを物語に回収することによって、それ以外の大切なものが見過ごされたり、捨てられたりするのではないか。」辺り。良かった。
投稿元:
レビューを見る
おおお混乱してんな。乱暴にいえば厨ニ病(そういえばタイトルもラノベっぽ略)。題名のとおり寄宿生テルレスが混乱する話。特に後半。ものすごい。
大人から見たら「そんなの」って鼻で笑われるようなことが、僕らにとっては世界そのものだったのです――とでも言うべきか。
♪ちょっと違うかもしれないが「Aoi(サカナクション)」が合う。気がする。疾走する思考的な。
P.S.:よくよく考えると、寄宿学校(クローズした空間)を舞台に繰り広げられるいじめいびりと同性愛……これなんてじゃぱにーーーず。