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投稿者:おどおどさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
給食調理員をしているので、これは大変興味深い本である。
給食の歴史は本当に知りたいし、現在抱えている問題や食育について、いろいろ知りたいし、何か仕事の参考にもしたい。
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
「給食は未来を構想する魅力的な舞台」だと筆者の藤原さんは本書に記している。
まえがきには自身の経験を織り交ぜながら、給食が強制の側面を持つ一方、学校の時間に潤いをもたらしもする、と述べている。
栄養バランスや安さが優先され、給食は美味しくない、というイメージがあるが、栄養にとどまらぬ可能性があるということなのだろう。なかなか面白かった。
給食はこれからどこへ・・・
2021/05/24 15:51
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投稿者:想井兼人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
だれもが給食を食して大きくなったものだろう。
しかし、安心安全が貫かれているとは限らないのが学校給食の常か。
何らかの金属片が混入するのは年中行事のようになってきた。
しょぼしょぼの給食問題もある。
食べる側の費用の未納問題もある。
コロナ禍では衛生的な問題も気になるところである。
ならば給食を一から知っておいたほうがよいかと本書を紐解いた。
本書は、給食の歴史を、「貧困」、「災害」、「運動」、「教育」、「世界」という視野から踏み込んでいる。
給食をそのまま続けるか、それとも見直すかということを、自分なりに考えるためにも、本書の役割は大きい。
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2018年12月読了。
前著「トラクターの世界史」が大変興味深い内容だったので、本屋で平積みされているのを見かけて迷うことなく購入した。
給食に対してどうやって予算や労働力を確保し、どのような内容のものを、どれだけの範囲の人に提供するか、このことから時の政権が自国民をどのように捉えているかが見えてくる。
この本ではその時々の給食施策に異議を唱えて自分たちで食材や調理法を研究する積極的な主体(栄養士や教員等)がよく出てくる。彼らの地道な活動によって問題が明るみになったり、改善されたりということを繰り返して今日の給食がある。
今でこそ「食育」と言われるようになったが、その一方で欠食児童の問題があり、国による福祉で賄いきれない子供の食事を「母親の愛情」の問題にすり替えて誤魔化しているところもある。
学校給食そのものとは離れて久しいが、食と子供の食の安全について考えるキッカケになった。
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給食を通して、戦争、福祉、行革、経済、
占領、様々なテーマ史が、浮かび上がる。
食に対する強制の側面もある給食だが、
格差が拡大していく一方の現代日本では
スティグマ防止のための役割は拡大中。
歴史的な経緯も踏まえた議論が
重要だと感じた。
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調査量、論理立て、思想、全てにおいてハイクオリティの内容だった。
給食のいう一つのシステムから近代日本の流れを見通すことができ、現在の社会問題まで把握することができる。
戦後の給食が、アメリカの(ある種占領的な)思惑で動いていたこと。無料給食に対しての議論の中で、ジェンダー論にいきつくこと。などなど知的好奇心をそそられる記述が満載だ。
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学校給食は子供達を飢餓から救うことから始まった。
今でも「学校給食が唯一栄養バランスの取れた食事」である子は存在する。給食費の未納を給食の停止につなげて、子供に大きなしわ寄せが行くことはあってはならない。
センター方式では給食の品質が劣化する。自校方式では人件費がかかるが、食べる人と作る人、互いのの顔が見える。それが調理員のやりがいにつながる。子供達も残しては申し訳ないという気持ちになる。
中学校の給食提供率が低いこと。
給食のもたらす意義は大きい。給食は母親の怠慢ではない。弁当では格差が浮き彫りになり子供同士が気まずい思いをする。家庭だけに食育を押し付けることは限界がある。みんなで同じ物を食べることで家では食べられないものが食べられたり、栄養バランスの取れた食事の目安を知ることができる。
税金はこういう部分に使われるべきだ。子供も大人も、今一度、食の持つ力を見直し、大切にするべきだと思った。疎かにしてしまいがち。
そんなことを思わせてくれた一冊。
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給食と……
戦争
災害
貧困
占領
共産主義
新自由主義
スティグマ
愛情
既得権益
マナー
強制
味覚の政治
などなど、様々な日本の近代の問題があぶり出されてくる。壮大なパースペクティブと、身近な卓上の問題とか交錯する、社会史の好著。
私は建築関係の仕事なので、校舎と給食という領域に、まだまだスペースがあるな、と感じた。
すべての政治家と教育関係者が、共通理解の常識としておくべき内容。高校も無償化されたのだから、給食にすべきだと思うが、未だ中学さえすべては給食できていないという現実がある。
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「給食」を
明治以降の世相史として
読み解いていく好著
その時代の
その時の政府の
その時に置かれた子供たちの状況の
背景も丹念に考察されておられる
確かに面白き一冊である
ただ
「給食」がどこで食べられているか
という問題には触れられていない
ことが残念
ほとんどの学校園では
普段の「教室」が
そのまま、教室の場として
使われている
それは 当たり前といわてしまえば 当たり前
なのでしょうが
ほんとうに
それは 当たり前のことなのだろうか?
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学校給食というとどんな思い出があるだろう。
学校で一番楽しい時間だった人もいれば、嫌いなものを食べなくてはならなくて苦痛だった人もいるだろう。人気のおかずが余るとお代わりに皆が殺到したり、牛乳の早飲みをする猛者がいたり。
それは授業とはまた違う、けれどもやはり学校という環境でなくては経験しえない時間であったはずだ。
「学校で」「皆で」「同じものを」食べる。
本書はそのことの意味を、その歴史を通じて見直していく1冊である。
給食成立の背景には、貧困や災害があった。
戦後の困窮期には、アジアへ向けたアメリカからの支援物資の利用があり、その影響は長く残った。
学校給食は必要なのかとの議論もあった。
自校方式でなくセンター方式が広まるにつれ、安全性への疑問や効率重視の弊害も叫ばれた。
「食育」の観点から給食をもっと魅力的にしようと努力してきた人々もいた。
一口に給食というが、その背後にはさまざまな事情があり、経緯があった。
日本で本格的な学校給食が開始されたのは1919年のことである。背景には、不作や貧困で子供たちが十分な栄養が取れていなかったことがある。そうした中で、全校児童に同じものを提供するのは、スティグマ(烙印)を避けるためという意味合いが強かった。弁当の場合、明らかな貧富の差が出たり、そもそも持ってこれない者がいた。子供はそうした差に敏感だ。貧しいものにだけ給食を出せば、「明らかにあの家は貧しい」ということになる。給食実施の当初から、その点には注意が払われてきた。
戦後の食糧難の時代には、GHQの放出物資や民間慈善団体の支援物資が入ってきた。脱脂粉乳やスープの素、缶詰等、さまざまな物資が送られてきた。
パイナップルなどの物珍しい材料もある中、教師と父母が一緒になって調理をした学校もあったという。
復興が進むにつれて、学校で給食を出す必要があるのかという議論も生じていく。
1950年代はアメリカでも共産主義に対する警戒感が高まっていた頃だが、こうした流れで、児童皆に同じものを食べさせるのは共産主義的ではないのかという主張もあったのである。
一方で、戦後、アメリカからの物資が入ってきたことは、その後の日本の食に大きな影響を及ぼした。
そもそもGHQの担当官サムスは米食に批判的だった。給食にパン食を進めたのは、栄養的にそれが正しいという信念があってのことだったようだが、その後、日本の食生活が洋食よりへと大きく変化していくのに、そのことがある程度の役割を果たしたことはおそらく間違いないだろう。それにつれ、アメリカからの肉や野菜など、パン食に合う食材の輸入が増した面も否めないだろう。
子供時代の食生活はそれだけ大きな影響を持ちうるともいえるのだ。
経費削減の観点から、学校で作る自校方式から、より合理的なセンター方式に移行する流れが出てきた。しかし大規模に、機械的になるにつれて、食材の切り方や調理法などでよりきめ細かい対応ができなくなる例も出た。配送に時間が掛かるため、調理の時間が削られたり、温かいまま提供したりすることが不���能になったりもした。
何より大きかったのは、ひとたび食中毒などの問題が出た場合に、影響が広域にわたることである。
センター方式だけでなく、経費を削ることと子供の食の安心・安全の問題は常に裏表の関係にあった。こうした中から、食品安全に関する運動も生まれた。
現在に至るまで、紆余曲折を経て発展・変遷してきた給食である。
皆で一緒にご飯を食べるというのはやはり楽しいことであるはずである。偏食がちの子でも、新しいメニューに触れることで食べられるようになることもあるだろう。マナーを学ぶ面もあるだろう。何より、ともに食事をすることには、どこか心の垣根を払う面もある。
給食の時間をより楽しい、実りあるものにするために、さまざまな試みもなされている。
教育と福祉の狭間で、その道のりは平坦でも穏やかでもないけれども、それでもなお、給食には大きな可能性があるのではないか。
そんなことを思わせる労作である。
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「給食」というものが生まれた背景と、現代まで続いてきた中での変遷。
日本でも戦前から給食はあった。農村地帯などで、貧困のため弁当を持たせてもらえない家庭の児童を救うためだ。
それが敗戦後には全国規模で展開されることになる。そこには日本の食習慣を米食からパン食にシフトさせる事で、自国で余っている麦の売り先を確保しようとするアメリカの国家戦略も見え隠れする。
またそもそも給食が導入される最初から、弁当は内容に家庭の事情による差が出て、児童自身が謂れのない恥ずかしさを感じてしまうのに比べて、給食は貧困家庭の児童が家庭事情の恥ずかしさから解放される事を目指しており、そのためにも無償支給を目指していた(無償支給は社会主義につながるというアメリカの方針に反対していた)という。
そういうところから始まって、給食制度の普及、各学校で給食を調理する自校式と、別に設けられた給食センターで何校分もの給食を調理し配送するセンター方式などの変遷、米食の導入、果ては給食の献立を考え、調理を行う栄養士と教職員の対立の話まで、給食の歴史は様々な紆余曲折がある。
今また経済的な理由などにより満足な食事が取れていない子どもの問題がクローズアップされてきている。給食を巡る問題は、根っこのところでは変わっていないという気がする。
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主に日本の学校給食を、その歴史を追いながらその役割と意義の変遷を追った一冊。黎明期における世界の給食との比較、給食の成長を支えた多くの人々の求めた理想と現実の乖離、戦後に子供たちを飢えから救う為にアメリカと共に進めた給食復興と善意の裏にあった冷徹な戦略・・・。
給食とは学校で提供される昼食に留まらない、社会の鏡といえる一面を持っている事が丁寧に綴られている。栄養士諸兄にはぜひ読んでもらいたい。たとえ学校給食の現場で働いていなかったとしても。
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●→引用
●第三に、給食は食品関連企業の市場であること。1988年の段階で「給食は、人件費と食費をあわせて年間1兆400億円のお金の動く大事業」と述べている。ここには、アメリカを代表とする農業大国や、多くの食品産業、食品卸業、農家の利益が直接絡んでくる。調理器具も、食器も、冷凍食品も、小麦も、牛乳も、公的な給食は大企業に、場合によっては地域の小さな八百屋や魚屋や肉屋に支えられている。
●つまり、占領を円滑に進めるために、具体的には、日本で病気が蔓延して占領軍やスタッフの健康が脅かされず、占領軍の統治を安定させるために、日本の子どもたちへの給食計画を断行すべし、という意味である。すでに述べたように、食糧メーデーやデモなど餓えに苦しむ民衆の怒りは沸騰し、それをGHQは「暴動」と認定し、沈静化をはかった。共産党の勢力伸長にも警戒せねばならない。こういった給食の持つ治安維持の機能をGHQが考えていたことは、当時の日本の官僚たちはもちろん、従来の給食の研究でもあまり意識されてこなかったように思える。給食は、民衆の統治技法の観点からも有意義な政策であり、警察の任務とも近接する、すぐれて政治的課題なのである。
●占領後、MSA協定からPL480にいたるまでの日米外交は、給食の意味合いを大きく変えた。目の前の外貨獲得、経済復興、飢えからの解放という喫緊の課題の裏で、アメリカは日本を食糧輸出先としてお得意先にし、あわせて共産主義の防壁にしようとした。
●「この脱脂ミルク給食に反対する先生がクラス担任をおろされたり、左遷されたり、また学校給食栄養士さんが仕事からはずされたり、ビラマキのお母さんが警察にひぱられたり、改善のたたかいをおこしてみると脱脂ミルク給食の権力的性格も」明らかになった。また、「教育委員会や校長のなかには、教師をつかって学童に給食ミルクをのむよう強力な指導をしたところ」もあったが、「そのさい勤務評定体制が物をいった」。(略)もちろん、給食だけが「勤務評定」の対象ではなかったにせよ、これ以降、給食運動に関わろうとする教師は勤務評定を意識せずにはいられなくなる。
●一方で、独立後の日本は、対共産主義の防波堤として位置づけ直されることで、アメリカの置土産の代償を払い続けることになる。再軍備および給食とアメリカの余剰農作物の市場開拓はセットであった。
●ソフト麺は、正式には「ソフト・スパゲティ式麺」という。1965年頃から給食に使われだしている。硬質小麦の粉、つまり強力粉が使用され、ビタミンB1やB2が栄養素として添加されているものだった。パンだけではアメリカの余剰農作物は解消されなかったので、パン以外にソフト麺が登場した、という言い方もできる。
●だが、現在、子どもたちが給食で空腹を満たしている現状、民間業者に払われる委託料の値上がりに自治体が苦しんでいる現状、そして「子どもの貧困」が新自由主義の一つの帰結である現状を鑑みても、子どもの生命がかかっている部門だけにコスト削減一辺倒の給食改革は思慮不足・構想稚拙という批判は免れないだろう。
●そして、香川、木村双方とも、いまが飽食の時代であることを前提に考えていることに���目したい。貧困は、ずっと隠されていたのであり、その少なからぬ部分を給食が守ってきたという点を、香川さえ主張できていない。歴史を振り返れば、給食廃止や給食民営化によって何が真っ先に失われるか、明らかであろう。
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日本の給食の歴史がよくまとまっている。
給食は、教育政策、貧困政策、災害政策、健康政策、
食料自給、地域の発展、地域の活性化と関連がある。
新型コロナで突然休校になり、保護者や給食関連企業は困っている。
給食は廃止して弁当にすればいいと思っていたが、安心でおいしい給食の提供を続けていくことの必要性を認識した。
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大学の感想レポートに。
とてもいい意味でタイトル通り。
牛乳が嫌いで苦痛だったなあという単純な動機とは裏腹に、事細かく書かれていて面白い。