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投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書では、タイトル通り「貨幣」を主題とした考察が展開されていくのだが、今村のねらいは「経済学的貨幣論ではない貨幣論の道を開拓すること」(あとがき)にあるという。だから、たとえば岩井克人のような議論をここに期待するのは間違っているし、現代思想に関わってきた著者らしく、言語と貨幣のアナロジーが議論されていくのでもない。本書がこだわるのは、貨幣を「貨幣形式」と名づけて捉え直し、人間、さらには人間の死と不可分のものとして、そのはたらきを具体的に検証していくことにある。
従って、というべきだろう、考察の素材には、ジッドをはじめとした文学作品が用いられ、19/20世紀をまたいだ「貨幣形式」のドラスティックな変容と、文芸の変容との類比関係を、「金本位制=リアリズム」を軸に説得的に論じて、J・J・グー『言語の金使い』を彷彿とさせる。
ただし、それでもなお本書の議論は独自なものであり、それは第五章「文字と貨幣」に拠るところが大きい。今村は、文字/書字(J・デリダ)という鍵概念を用いて、「貨幣形式」の本質(と氏が考えるもの)を明らかにしていく。ともするとにわかには承諾しがたい議論も含まれるが、その判断は、刺激的な本書を批判的に読んでからでも遅くはないだろう。
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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
貨幣がもんなものか経済学的に述べたり貨幣の歴史を述べたりするのではなく貨幣とは何かを哲学で述べた本。
「金属的想像力」と「fromsouptonuts」──個人的な感想
2001/01/20 22:36
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
少し前から「金属的想像力」と「from soup to nuts 」という二つの言葉が気になっていた。
前者は『サイアス』(2000年4月号)に「ここでは金属を、金属結合という様式で原子が結合している物質である、と定義する。金属結合は、イオン化した原子が「自由電子の海」の中に浸っているような状態である。理想的な金属結合は方向性がなく、電子は自由に物質の中を移動できる」(増子昇・千葉工大教授)と書かかれていたのを読んで、バシュラールの物質的想像力が扱ったテトラ・ソミアに「金属」を加えるならば(これでは五行説になってしまう?)何かしらまことしやかな議論を展開することができはしまいかとふと思いついたもの。
後者は、茂木健一郎氏との対談『意識は科学で解き明かせるか』で天外氏が「素粒子というのは、…粒子と波動の両方の性質を持っている。これは豆を煮て作ったスープのようなものだと考えるとわかりやすい。豆を煮てスープを作ると、もう豆は見えなくてドロドロのスープの状態になる。素粒子は普段はスープの状態なわけですが、それを観察すると煮る前の豆に戻ってしまう。…つまり、観測をすると豆になる。観測をしないときにはスープの状態です。これが素粒子の非常に不可解な現象です」と語っているの読んで、この言葉── from soup to nuts ──を手がかりにすれば、たとえば中世普遍論争の意味を解き明かすことができはしまいかと突然閃いたもの。
前置きがアンバランスなほどに長くなってしまったけれど、貨幣経済に関する書物をまとめ読みしようと思ってまず手に取った本書がはからずもこの二つの言葉にリンクを張っていた。
まず著者がここで論じているのは素材としての貨幣ではなく形式(媒介形式)としての貨幣(=墓=供犠=文字)なのだが、ここでいう素材の典型はいうまでもなく、十九世紀の金本位制から二十世紀の管理通貨制度へ、というときの「金」属のことだ。
そしてジンメルの『貨幣の哲学』に準拠しつつ著者が示す「関係の結晶化」の定式(「無媒介なもの=渾沌」〜「媒介形式=境界」〜「差異関係=社会関係」)はまさに‘ from soup to nuts ’でもって表現できるものなのではないだろうか。
これ以外にもジッドの『贋物つくり』の分析(貨幣小説論)など、本書は私の現在の関心事とあまりに合致しすぎていて、うっかりすると思考を決定的に規定されてしまいそうになる。こういう時は要注意。(それでなくとも本書の論述は少しできすぎているように思った。)
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投稿者:だらに - この投稿者のレビュー一覧を見る
あまり注目されていなかったゲオルグ・ジンメルの『貨幣の哲学』に焦点を当てながら、「貨幣とは何か」という根本的な問いに答えようとする。
「法と知性と貨幣の三つはすべて、個人的特徴に関する無関心によって特徴づけられる。」
貨幣は、法や言語と同様に、空虚な形式だからこそ、社会関係の秩序を構成する原動力となる。精神分析的な知見や構造主義によって明らかにされつつあるこうした三者の類似性をはやジンメルは予言していた、ということになるであろうか。
ジンメルを分析の柱に据えて展開するという構造自体は新しく面白い試みであるといえるが、しかし、新書という性格上しかたないのかもしれないが、この本で三者の類似性がしっかり理論的に基礎づけられたとはいえない。むしろすでに指摘されている類似性の上に連想ゲームをしてみました、というだけのようにも読めてしまう。どうせやるならもっと根本的にやってほしかった。
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高校生の頃、
現代文の過去問演習で出題されていました。
問題用に抜粋されている箇所がすごくおもしろくて
そのまま図書館に行って借りて、
受験勉強そっちのけで読みふけっていました。
久しぶりに読んでみようかな。
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[ 内容 ]
貨幣を経済学の封じこめから解き放ち、人間の根源的なあり方の条件から光をあてて考察する貨幣の社会哲学。
世界の名作を“貨幣小説”として読むなど冒険的試みに満ちたスリリングな論考。
貨幣を人間関係の結晶化と見、自由と秩序をつくりだす媒介者としての重要性を説く。
貨幣なき空間は死とカオスと暴力の世界に変貌するからだ。
貨幣への新たな視線を獲得することを学ぶための必読の書。
人間の根源的なあり方の条件から光をあてて考察する貨幣の社会哲学。
世界の名作を「貨幣小説」と読むなど貨幣への新たな視線を獲得するための冒険的論考。
[ 目次 ]
第1章 貨幣と死の表象
第2章 関係の結晶化-ジンメルの『貨幣の哲学』
第3章 貨幣と犠牲-ゲーテの『親和力』
第4章 ほんものとにせもの-ジッドの『贋金つくり』
第5章 文字と貨幣
エピローグ-人間にとって貨幣とは何か
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
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読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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媒介形式としての貨幣、特に「死」(近代以降、文明社会から追放された観念)を制度化するものとしての貨幣について、ジンメルの思想、ゲーテやジッドの小説を例にとりながら、丁寧に分析。そのうえで貨幣のない世界が生み出すカオスを照射する。
ちなみに、ジッドの『贋金づくり』について論じているが、そこで言われていることは、ジャン=ジョゼフ・グー(『言語の金使いたち』)のまるパクリ。参考文献に掲げてないのはどういうことだろう。
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関係の結晶としての貨幣。これは現実には物体にその性質を託しているので、貨幣自身も他の物体と関係を持つことができる。この関係の二重化の事を貨幣形式と言っている。ところで、われわれ人間は生きていることも認識できるし、死ということも認識できる。いわば生と死の関係の間に立つことができる。他の動物ではこれができない。死については、人間がその象徴である墓を作れることがその証拠となっているわけだが、墓は生命を持たない死物からなる。ここにも先と同様の二重化がある。そして墓は、生物の生と死を取り結ぶ関係でもある。
そして肝心なのは、私は上記のようなことを文字を、距離をとってしか説明することができないということである。つまり、直接的にあなたに向かって働きかけることができない。関係について考えることも、それを対象化し、自分との間に距離をとる事が出来るという「関係」がまずなければ、出来ない。この事を、筆者は人間にとって交通(直接働きかけること)は原理的に不可能だと表現したんだと思われる。
(お薦め本レビュー応募作品2012★読書の秋賞/理工学群4年)
▼附属図書館の所蔵情報はこちら
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1143993&lang=ja&charset=utf8
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去年からずぅ~と気になっていたことが何となくわかりかけてきた。
わたしのお金に対する異常な怨みと恐怖。その謎が解けそうである。
今村さんによれば「貨幣は人間存在の根本条件である死の観念から発生する。」そうだ。この本では詳しい論証がないのであるが、そう言われれば何となく分かるような気がする。わたしが気になっていたのも経済学上の貨幣ではなくて、人間存在の本質に関わる貨幣だったからだ。
貨幣は物の交換における媒介形式(間をとりもつもの)であり、法律や道徳的掟は市民生活の媒介形式である。人間の社会関係は、これらの制度になった媒介形式がなければ円滑には進行しない。もしもそれらを無視したり傷つけたりした時は神話的世界が現出し人間は運命の波に翻弄され、罪を犯し、犠牲を要求される。
わたしたちは一見なんの不思議もないように日々の暮らしをおくっているのだが、こういった制度を引き剥がしたと人間の根本を覗きこむと実はとても恐ろしくおぞましいものがあったりするのかもしれない。
例えば、わたしは暑い日中に歩き疲れてビールが飲みたくなって、目についたコンビニに入る。あまりの暑さに頭がおかしくなっていて貨幣という制度をまったく忘れてしまっている。冷蔵庫をあけてビールを掴み飲もうとする。当然店員さんがそれを止めようとする。金を払えと。ところがわたしは暑さのあまりデモーニッシュな力に取り憑かれているので欲望のまま店員さんを振り切り自己の満足を目指そうとする。そして、力ずくでわたしの行為を阻止しようとした店員さんをたまたま持っていたナイフで刺し殺して、わたしは満足気にビールを飲むのである。
このように法や倫理や貨幣などの媒介形式のない神話的な世界は暴力と死に満ち溢れる結果となる。「なんでもあり。」なんてことはない。もし、そうすれば累々とした屍の山が築かれることになるだろう。
Mahalo
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Fri, 27 Nov 2009
貨幣とは何か? という問題を「経済学」とは関係のないところから
論じようという本.
現代思想ですな.
実はこの本,僕の出身高校,京都のR高校(南じゃない方)にあって,何の因果か読んだ本だったのだ.
そのときは,とにかく「こんなわかりにくい本があるのか!?」というコトが衝撃だった.
本書は貨幣の社会哲学を標榜する.
貨幣の社会哲学では,貨幣の経済的機能をろんじるのではなくて,人間にとっての貨幣の意味を考える.それは,貨幣を人間存在の根本条件から考察する.人間の根本条件とは死観念である.こうして貨幣と死の関係が問題になる.
と言う.
現代思想は嫌いじゃないし,特に構造主義は好きな方だ.
読んでいくと,基本的には構造主義をベースにしつつ,モースの贈与論とからめているコトがよく分かる.
あと,ジンメルという名前が良く出てくる.
高校時代から一〇年以上たち,私の文系読書のスキルやベース知識も相当ついた今となっては,わかりにくさも,その質がちがってきた.
本書では,貨幣の素材ではなく,貨幣形式を大切にする.
貨幣が何で出来ているかは問題では無いという.
それはそうだ. もはや貨幣が制度であること,そして信用というモノにより,価値がつけられていることは,むしろ経済学的な事実であろう.
多分,著者はそれ以上のコトが言いたいのだ.
狙いはモースの贈与論と絡ませる中で,贈与と死,そこに潜まれる情念を貨幣の中にねじこみ,さらに,人間にしかないものとしての 墓,贈与,貨幣,権力と死の概念を結びつけたかったのだろうが,
その論理展開は,意外と不十分だ.
むしろ,はじめから死の概念と貨幣の結合を前提として,そこの論理に時間を割いていない.
中,二つの文学作品が「貨幣小説だ」として解説されるが,
あまり本質を語るのに適確な内容とも思えなかった.
面白い点も多かったので,あるが・・,
五章は面白い.
社会主義や共産主義的な左翼思想にみられる,貨幣淘汰主義を
批判している.
貨幣形式を廃してしまうと,貨幣による人間の支配はなくなるが,
原理的には,人間を人間によって支配,管理するしかなくなり,
直接的暴力へと発展してしまうのだ.
その実現が,ソ連,中国の文化大革命などであると考えると,繋がる点もある.
なぜ,左翼が暴力的になってしまうのか.
理性・合理的計画というのが,直接的で退廃的な暴力に結びつきやすいところを,本書は解いているように思う.
やはり,言語と貨幣は人間知能の生み出した二大シンボルシステムであろうと思う.
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◆貨幣を経済的意味から解き放ち、非経済的な面、特に人に不可避な「死の観念」と結びついた人間関係の媒介物と解釈し、貨幣の意味の史的変遷、現代のそれを開陳せしめんと試みる。ただこれが奏効しているかは…◆
1994年刊。
著者は東京経済大学教授(社会哲学・社会思想史)。
◆社会関係の構築が人間の本質であることを前提に、その関係性の媒介物は不可欠であって、人間関係・社会関係の媒介者として貨幣を措定しつつ、そんな貨幣は置換可能な道具を超えた存在と解釈する。
これを➀先行研究、➁神話を含めた3つの作品に依拠し、文芸評論の手法を通じて一般化する書である。
しかしながら、➁はあくまでもメタファーないし比喩でしかなく、ファクトの証明方法の手順には則っていない(逆に、新奇な文芸評論という側面が強い。もっとも先の「貨幣論」を殊更用いなくても説明できそうとは思う)。
そもそもチンパンジーなどにも個体間の結合と個体間の優劣を基軸とする社会関係が存在するが、貨幣は使わない。あるいは貨幣様の観念も想定できない。
貨幣が関係性の媒介物とならない社会関係もあるにもかかわらず、それを等閑視している議論の進め方に、どうにも座りの悪さを感じずにはいられない。
つまり、道具性を超えたとの部分はそのまま納得できなかった。
さらに「死の観念」が社会関係を不可避と化してしまう人間という種において、社会関係と不即不離で結合する貨幣と「死の観念」が結び付く、とまで言うのは行き過ぎでは。
なるほど「死の観念」は人間に不可避ではあろう。
しかし、人間関係がそれだけを基軸としているというのは言いすぎであり、「死…」は人間において不可避とされる、数多のものの中の一つに過ぎないのではないか。
もとより、人間のみに妥当する、数多ある特質の中の一という限定された範囲で、「死の観念」が、人間関係の媒介物たる貨幣との結びつきがあり得るのだというレベルであれば、得心しないわけではないが…。
また、そもそもここで展開される論法として、比喩を根拠としているように見えるが、それは論が逆ではないか。むしろ、文学作品の分析は、理由の提示ではなく、論の判り易い説明以上のものではないとの感を強くした。
もっとも、個人的には、貨幣が経済活動の道具に限定するのではなく、物の交換の場面以上に意味を持つ道具である(道具であった)ことは否定しない(実際、歴史的事実としても、威信財、呪術や信仰の対象であったことは確かである。日本最古の富本銭がその例)。
そういう意味で、文字と貨幣の比較・類似性の検討を行っている記述は、なかなか面白いなとは思う。
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本書のはじめに、著者は「とりあえずは、論証ぬきで「貨幣は人間存在の根本条件である死の観念から発生する」という命題を前提にして話をすすめる」と述べています。ここでいわれる「死の観念」とは、著者が『排除の構造』(ちくま学芸文庫)で論じた事柄が踏まえられており、本書はその応用編というべき内容になっています。
媒介形式としての貨幣が「死の観念」をうちにかかえ込んでいることを明らかにしたのは、マリノフスキーやモース以降の人類学でした。著者は彼らの議論にもとづいて、贈与されたものを破壊する慣習に、原初的な経済的・宗教的現象にひそむ「死の表象」を見てとります。そのうえで、一見したところ近代の貨幣経済にはこうした「死の観念」は存在しないように思えるものの、やはりそこには「第三項排除」という「死の観念」がひそんでいると考えます。
本書はこうした観点から、貨幣についての社会哲学的考察をおこなったジンメルの議論を読み解き、ゲーテの『親和力』とジッドの『贋金づくり』を「貨幣小説」としてとらえなおします。そのうえで、「死の観念」が刻印された貨幣を、デリダのエクリチュール論になぞらえる試みがおこわれます。プラトンからルソーを経て現代の超越論的純粋主義の哲学的立場にいたるまで、哲学者は媒介のない理想的関係を夢見てきました。これに対してデリダは、生き生きしたパロールではなく「死んでいる」エクリチュールの根源性を説きます。著者は、こうしたデリダのエクリチュール論を媒介一般に拡大することで、貨幣によって動かされる社会秩序を批判的に認識する視座を構築する可能性を見いだそうとしています。
本書にかいま見ることのできる著者の思想は、『交易する人間―贈与と交換の人間学』(講談社学術文庫)でより全面的なしかたで展開されており、著者の思索の道筋のなかで重要な位置を占める著作のひとつではないかと思います。