日本宗教史
著者 末木文美士
『記・紀』にみる神々の記述には仏教が影を落とし,中世には神仏習合から独特な神話が生まれる.近世におけるキリスト教との出会い,国家と個の葛藤する近代を経て,現代新宗教の出現...
日本宗教史
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商品説明
『記・紀』にみる神々の記述には仏教が影を落とし,中世には神仏習合から独特な神話が生まれる.近世におけるキリスト教との出会い,国家と個の葛藤する近代を経て,現代新宗教の出現に至るまでを,精神の〈古層〉が形成され,「発見」されるダイナミックな過程としてとらえ,世俗倫理,権力との関係をも視野に入れた,大胆な通史の試み.
目次
- 目次 はじめに 日本宗教史をどう見るか
- I 仏教の浸透と神々〔古代〕
- 一 神々の世界
- 1 記紀神話の構造
- 2 記紀の時代
- 二 神と仏
- 1 仏教伝来と神々
- 2 神仏習合の諸相
- 三 複合的信仰の進展
- 1 仏教思想の基底
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書店員レビュー
従来の日本宗教史では...
ジュンク堂書店新潟店さん
従来の日本宗教史では、仏教・神道・キリスト教がそれぞれ別々の章で扱われることが多かったが、歴史的に単独で発展したわけではない。
日本書紀などに出てくる日本古来の神々も仏教の伝来による影響を受け、中世には神仏習合から独特な神話が生まれる。中世にキリスト教が広がったことについても、たとえば浄土真宗での弥陀一仏をひたすら信じるというような仏教の一神教化ともいうべき状況や、神道の根源神の探求が、キリシタン受容の精神的基盤を用意したともいえる。またキリシタン禁制後の仏教もキリスト教というそれまでとは違う宗教に接したことで変容を迫られる。
仏教を中心に神道やキリスト教・儒教の相互の関係に注目して、現在の我々を制約する「古層」が歴史的にいかに形成されてきたかを問う仏教研究の第一人者による意欲作。
新書の範囲で古代から近代までを網羅しているので、やや物足りないのは残念だが、各宗教間や権力・世俗の関係の展開から今までとは異なる日本宗教史を見せてくれる。
店長 藤井
スタンダードであることがラジカルであることの証明のような名著
2006/08/16 01:15
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:伊豆川余網 - この投稿者のレビュー一覧を見る
たいへん面白く読んだ。
入手しやすく手軽に読める新書という形式による概論・概史は、常に諸刃の刃を含んでいる。手軽さは浅薄な読物に変じ易いし、概論は概して折衷と項目の羅列に堕し易い。
ところが、本書は、極めて読みやすいわりに中身は濃く、倦んだりしない程度に実例を挙げて広い目配りを怠らないばかりか、さまざまなことを考えさせてくれる。
日本において宗教とは“神と仏”である。たとえば、古代における仏教の受容に関して、「それまで必ずしも明確でなかった神々の個性が次第に明確化されるとともに、寺院の影響で神を祀る固定した神社がつくられるようになっていった」のはもはや自明であり、その後の「神仏習合」についての解説も、同じ著者の10年前の『日本仏教史』(新潮文庫)と変わらない。だが、続いて「神仏習合こそ、日本の宗教のもっとも「古層」に属する形態と言うことができる」と論じるとき、我々は、日本的な支配被支配のモデルを想起する。
著者が語る“日本の宗教の歴史”を、今なお日本社会の基軸となっている象徴と実体、もしくは、すべからく「何か」に包み込まれつつも、常に一体化を拒む二重構造、すなわち「同化とその拒絶」というアナロジーで読んでしまうのは、危険なのかも知れない。
だが、神仏習合について、著者はこうも語るのだ。
「日本の神は仏教によって滅ぼされたのではない。神は仏の支配下に立ち、変貌しつつも、完全に混合し一体化してしまうわけではない」
これは、無宗教を標榜しつつも、個人と世間に共依存を繰り返すまさに現代の我々自身の分析そのものではないだろうか。いや、著者のいう「古層」(この用語について、著者は「はじめに」で丸山真男のそれであることを紹介し、その評判を真摯に伝えた上で、慎重に用いることをためらっていない。あたかも鋭利な古刀を手にした達人のように)とは、やはり、我々の拠って立つ日本社会そのものではないのだろうか。
いっぽう、クリスマスではしゃぎ、神社へ初詣でに出かけ、仏式で葬礼することに違和感をもたない我々の先祖たちの信仰については、次のように述べている。
「さまざまな信仰は雑然としているようであるが、必ずしも無秩序というわけではなく、今日と同様にある程度の分業がなされていたと考えられている。すなわち、死に関する儀礼は仏教の独占するところであり、それに対して、現世利益的な面は、仏教・神祇信仰・陰陽道が併せ用いられる。現世利益のうち、積極的な子孫繁栄や立身出世は神祇に祈り、疫病の除去などの消極面には陰陽道が用いられ、仏教はそのいずれにも関係した。」
そして、明治政府による「神仏分離」だ。形式的には“神と仏”の分化を促し、その結果、「国家神道」が誕生したという“近代”の逆説の叙述は、最も興味深い箇所である(「神仏補完」という用語もまことに当を得た表現)。極めてデリケートなテーマであるので、詳細については、ぜひ読んで頂きたいとしか申し上げられない
。特に『日本仏教史』の読者であるならば、この最終章(近代化と宗教)を読むだけでも意味があると思う。と同時に、この一章があるゆえに、本書はいわゆる凡庸な宗教概説の域を超えているのである。
著者は最後に「どのように『古層』が呼び出され、また、新たな『古層』が形成されてゆくのか。長い歴史の蓄積を振り返りながら、今日の宗教状況をも見定めていくことが、宗教史研究のもっとも大きな課題といえるであろう」と結んでいるが、これは謙譲である。“神と仏”つまり、日本人の信仰対象についての論述は、そのままあらゆる場面における今日的課題を、強く呼び覚まさずにはおかないからだ。
入門書に最適
2018/08/25 22:12
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:つかも - この投稿者のレビュー一覧を見る
宗教史を学問対象にする人も、教養として読む人にもちょうど手ごろな本。
知的刺激に富む宗教史
2008/03/31 17:17
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:YOMUひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、日本の宗教に関する通史であるが、平板な教科書的記述ではなく、重要な点については踏み込むメリハリのある宗教史になっている。説明は明快で、教えられるところが多い。
まず、読んで気がつくのは、日本の宗教における神仏習合の強さである。仏教が伝来した直後から、今日まで、それは神道が優勢になった幕末から明治初期の一時期を除いて、一貫して持続的に民衆の生活に根を下ろしてきたといって過言ではない。しかしそれは荒唐無稽なものでなく、今日の日本人が正月は神社にお参りし、お葬式に関わることは仏教式に行うことがまだ多いことを考えれば、一脈通じていると言えなくもないであろう。
日本固有の原宗教として神道を考えることは、本書にいう通り、かなり無理があるかもしれない。インドのヒンディ教や中国の道教の場合と同様、仏教の伝来がむしろ神道形成の契機になったと考える方が、文献的証拠から見ても確かに説得力があるであろう。
しかし、伝来した仏教が、「山岳修行を取り込むなど、変質していく」なら、わが国古来の山岳宗教が存在したことは否定できない。それはどのようなものであったのだろうか。それはどの程度日本固有のもので、世界の他の地域の山岳宗教との関連はどうなのであろうか。
また、柳田国男の「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まつて、さう遠方へは行つてしまはないといふ信仰」という日本人の意識の「古層」(著者は否定するが)と、山岳宗教との関係はどうなのであろうか。
神道についても、その起源や他の宗教との関連、そして幕末に突然ブームになった背景など、さらに疑問は深まる。
オウム事件は、日本人にとっても、宗教というもののマイナス・エネルギーの底知れぬ怖さを思い知らせたが、これによっても日本人が世界を席巻している宗教原理主義と無縁ではないことを知るのである。この事件も十分に解明されたとは思われない。
読後にさらに探求すべき多くの疑問が促されるのも本書がもつ力の一つであろう。
分り易い我国の宗教の歴史
2016/01/18 18:36
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:シエル - この投稿者のレビュー一覧を見る
文章も分り易いし、出て来る人物や宗教などについても名前は高校の教科書に出て来るものに少し専門的になった程度。
それ自体、取上げて論ずる程のものでもないような気もするのだが本書を取上げたのは一点。
223頁の中ほどから、その部分を引用すると-
オウム真理教とその起こした事件は複雑な要因を含み、これから解明されなければならないことが多い。それ故、それ自体について今は立ち入ることができないが、それをきっかけに、宗教が危険視されるようになったことは注目される。世界的にも、社会主義の消滅は、かえって各地の宗教間の戦争を際立たせることになった。とりわけ、2001年に全世界を震撼させた9・11事件はイスラム過激派の犯行とされ、それに対してキリスト教保守派を基盤とするアメリカのブッシュ大統領による報復戦争は、あたかも世界規模の宗教戦争の様相を呈するようになった。かつては平和主義を標榜してそれなりの共感を集めて来た宗教は、今や戦争と殺人へ人を駆り立てる悪魔の手先のように見なされるようになった。
と、これこそが筆者の最も言いたかったことであろう。
折しもこの本が上梓されてから約10年、今年もフランスを中心にテロが横行している。
今まで民族対立や宗教間の対立も前世紀ではイデオローグの問題に変換され、そこに人々を駆り立ててきた。
これからの21世紀を考えれば各国の主導者は揃って「テロを許さない」「テロと対決する」と勇ましい言葉を並びたてているが、果してテロを起こす側・テロリストと呼ばれる側の人間は何と感じているのか、伝わって来ないモノがある。
彼らにも彼らなりの理屈があっての行動であろうし、殺戮や戦争に準ずるような行為が正しい、或いは聖戦などと称するのは詭弁だと言うこと自体、よくよく分ってのことに違いない。
それを安易に認めることはできないけれどだからと言って、目には目を式の或いはそれ以上のテロリズムの一掃のようなもの言いは余計に彼らを煽りたてるだけになりはしないか。
この連鎖は最後の一人になるまで続いてしまうものだし、それ以前に現代の我々は大量殺りく兵器を幾つも抱えて、それを抑止力などと称している。
幾ら叩いてもゴキブリは毎年出て来るし、野良ネズミを駆逐することは不可能に近い。
人間はもっと賢い動物であるように思うし、自分はそう思いたい。