幻世の祈り―家族狩り 第一部―(新潮文庫)
著者 天童荒太
高校教師・巣藤浚介は、恋人と家庭をつくることに強い抵抗を感じていた。馬見原光毅刑事は、ある母子との旅の終わりに、心の疼きを抱いた。児童心理に携わる氷崎游子は、虐待される女...
幻世の祈り―家族狩り 第一部―(新潮文庫)
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商品説明
高校教師・巣藤浚介は、恋人と家庭をつくることに強い抵抗を感じていた。馬見原光毅刑事は、ある母子との旅の終わりに、心の疼きを抱いた。児童心理に携わる氷崎游子は、虐待される女児に胸を痛めていた。女子高生による傷害事件が運命の出会いを生み、悲劇の奥底につづく長き階段が姿を現す。山本賞受賞作の構想をもとに、歳月をかけて書き下ろされた入魂の巨編が、いま幕を開ける。
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既成の家族像の崩壊
2004/08/05 01:25
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:むし - この投稿者のレビュー一覧を見る
普通の家族という幻想を持つことは悪いことではないと思う。ただ、その幻想が、えてして自らの家族の現実から目を背けさせ、外の形ばかりが幻想に近づき、結局のところその幻想が家庭を押しつぶしてしまう。
この物語はそんな既成の家族像による家族の崩壊を描いている。かつて実際に起きた「失敗作」の子供を「作者」たる親が殺す事件。または「失敗作」がその「作者」を殺す事件。いくつかあったその種の事件を多角的に描いているのがこの作品といえよう。
殺す側がいればもちろん殺される側がいて、そのどちらも幸福な家庭を求めていたはずなのだが、それは少しずつ少しずつずれていって。最後には片方が片方を殺すといった結末を迎える。
このような事件の背景には核家族化や地域社会の崩壊、個人主義の台頭、受験戦争など様々な理由があるとされてきた。
しかし本当の問題はそこにあるのだろうか。「普通の家族」あるいは「幸福な家族」といった幻想にばかり目を向けていて、目の前にいる自らの家族が求めているものに気づかなかった、そこにこそ悲劇の本質はあるのではないだろうか。
現実がここまで酷い人間ばかり、っていうのは、ニューヨークは殺人犯ばかり、ローマは盗人ばかりというのと同じで、少しもリアリティを感じないんです、わたし
2005/07/26 19:21
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
『家族狩り』のリメイク版文庫で、原稿用紙にして2200枚と原作を900枚増え、全面改稿したそうです。当然、前作とは別物とみたほうがいいようでしょう。
私のように、『家族狩り』を出版当時に読んでしまった人は、もう10年経っているわけですから、記憶も薄れ同じ本を出されても案外新鮮に読んでしまうかもしれません。でも、あくまで本作品について書きます。
核になるのは麻生家の事件で、少年が両親と祖父を殺害したらしいというものです。で、それを発見した女子高の美術教師・巣藤浚介、或はその学校の生徒・芳沢亜衣、生徒の引き起こした事件で少女に事情を聞いた氷崎游子、彼女に娘・玲子を奪われたと逆恨みする駒田、或は事件を担当することになった警察官・馬見原光毅、その妻・佐和子、或は不倫の相手と様々な人間が細い糸で繋がっていきます。
よくある本格ミステリのように、一見バラバラな人間関係が最後に纏まる、といった感じではなく、問題を抱えた様々な家族の模様が、時に縺れ、捩れ、切れ、あるいは離れと、多分、天童の意図をすら無視してダイナミックに動いていく、それを読む本とでもいうのでしょうか。
それにしてもです、よくもまあ、不幸というフィルターで世の中をみるものだと感心してしまいます。まず、健全(この定義も問題ですが)な家庭というものが一つとして出てきません。人間は等しく病根を心に抱え、うめき、もだえ、戸惑い、疑います。もう、ここまで来ますとリアルではなく、ただただ作り物だなあと思ってしまいます。
しかも、出てくる男すべてが、駄目男です。まず、女とみれば色香に迷い、いつも責任逃ればかりしながら、説くところは世界のあるべき姿という、学生から総スカンの巣藤がいます。そして、彼をこうまでした父親がいます。事件を起こした亜衣の父親、これがまた全てを母親任せで、二言目には俺には仕事がある、です。それは游子の父親も変わりません。しかも、女性に頼りながら、偉ぶり、陰で苛めをやる。
もう、玲子の父親の駒田になってしまうと、単に人間の屑です。それにヤクザのがいます。これがまた、酷い。家庭をかえりみない、どころが全責任を奥さんにおっつけて、仕事に逃げ込んでいる典型がもうひとりいます。警察官の馬見原です。わかるんですね、そういう人間の存在と、それが持つ意味。でも、実際はそれだけじゃあないです。でも、それには目を瞑る。ないものとして扱う。
これでは、殺人事件や人身事故ばかりを報道して、現在の日本は病んでいるとする現在のワイドショーがもたらすものと変わるところがありません。真実を求める、それ自体が事件全体を物凄い速さで風化させていきます。そして、結局は、現状は改善されないままに、命の軽さだけが浮き上がる。けっしてマスコミも作家もそんなことは意図していないのに、です。
先日、角田光代『いつも旅のなか』で、イタリアについて、あまりに盗難などが多いと雑誌などで騒がれるものだから戦々恐々とし、友人知人にもそういわれ、心の準備をしてでかけたフィレンツェの人々のあまりの普通さに、自分の心配を恥じるところがあります。情報は、その意図にかかわらず一人歩きをします。
天童の意図が、現代の家庭こそすべてという風潮に対する抗議するというものなので、全体に極めて不自然なバイアスがかかっています。こういった如何にも世の中を考えていますといった作品では、そのことをいつも心しておかないと、結局、ツケはすべて読者に降りかかってしまう気がしてなりません。それは『永遠の仔』にも言えます。
ごく当たり前の家庭風景を描くことも大切ではないでしょうか。
「家族」とは何なのだろう?「家族」というものを有耶無耶にしている我々への試練のような作品。
2004/12/16 11:20
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:エルフ - この投稿者のレビュー一覧を見る
1995年に新潮ミステリー倶楽部から出版された「家族狩り」は残念ながら私は感動できなかった。
感情移入できる人物がいなかった為、ただのホラーミステリーとしか思えなかったからである。
そして今年1995年度を元にしながら違う作品として、天童氏は我々に家族とは何なのか、生きる意味とは何なのかを真っ直ぐにぶつけてきたのがこの「幻世の祈り」から始る家族狩り5部である。
私達が生きていくうえで一番小さな社会は「家族」である。
そこは本来癒され守られる場所でなければならないのだが、現実はどうだろうか? 毎日のように暗いニュースが流れている。おそらく一歩歯車が狂えば砂で作った家よりも脆く壊れるのが「家族」なのだろう。
その崩壊する様を生々しく描くのが彼の作品なのだが、その生々しさが他の作家と違うのは救いようがないところではないだろうか。
現実の世界で、一般の本のように一度壊れながらも皆の愛で再生していくなんて甘いし無理な話だ。
中途半端に壊れていくものを元に戻すよりもいっそのこと全壊してしまった方が楽だと人は感じるからだ。
この本の中で人々はまず自分の心の中の汚く醜い部分を出している。
でもこれが私達本来の姿だ。だから思わず目を背けたくなる。
そしてまた登場人物の誰もが救いを求めながら足掻き苦しんでいて彼らの叫びが本から直に伝わり思わず本を閉じたくなる。
第一部は運命のように彼らが出会うまでだ。
今から濁流に呑まれるかのように彼らは悪夢の川へと流されていく、第二部からも彼らの叫びに手で耳を塞ぎたくなりながらも目が離せなくなるのだろう。
「家族」というものを有耶無耶にしてしまっている現代の我々に試練を与えている作品のように感じるのは私だけだろうか。
重松清の作品は“リアル”だが、天童荒太の作品は“生々しい”!
2004/06/06 03:36
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:トラキチ - この投稿者のレビュー一覧を見る
今年の最大の話題作と言って過言ではない“新・家族狩りシリーズ”の第1巻を手にとって見た。
オリジナル版(1995年刊行)は読んでないので比較出来ないのは残念であるが、物語の圧倒的な吸引力に読者も度肝を抜かれる事は間違いないかなと思う。
家族小説作家としては直木賞作家の重松清が有名であるが、重松清と天童荒太の作風は一線を画する。
例えて言えば、重松清の作品は“現実を直視しなければならない!”が、天童荒太の作品は“人間を直視しなければならない!”
この差はどういうことかと言えば、重松作品は“身近というか生きて行く上で避けて通れないもの”を題材として読者に対して“応援歌”的な意味合いで語りかけているのであるが、天童荒太の作品は読者にもっと厳しい。
題材的にもすべての人が身近と考えられないものが多くて息苦しく感じられるかもしれない。
ただ、天童荒太のいい点はいっさい妥協をしていないところである。
重松清が“今に生きる日本人の家族”を描くのが秀逸なのと同様、天童荒太は“人間というか人類(普遍的なものとしての)”を描くのが秀逸である。
そこに“視野の広さ”を見出せた読者はきっと大きなプレゼントを得たこととなるであろう。
物語は予想通りと言うか予想以上に重い。
登場人物は高校教師・巣藤浚介、刑事・馬見原光毅、児童相談センター所員の氷崎游子の3人がの中心。
物語はまだまだ序盤、平凡な女子高生・亜矢の障害事件によって上記の魅力的な登場人物が交錯したところである。
天童荒太の描く魅力的な人物ってそれぞれが“心に傷”を持っている他ならない。
それはきっとより“人間らしさ”を表してくれているのだろう。
第1部では馬見原刑事の過去のいきさつが1番丹念に書かれている。
多少なりとも馬見原刑事の心に潜んだ部分が読者に受け入れられた気がする。
ラストの家族の変死体がとっても印象的かつ象徴的だ。
きっと物語り全体を支配して行くに違いない。
これからどんな悲劇が待ち受けているのであろうか?
でも最後まで読んで少しでも成長できたらと思いつつページをめくれる幸せを噛みしめてレビューを書いている私がここにいることは書き記しておきたい。
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