紙の本
彼女の鋭すぎる考察
2022/01/18 21:55
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
平安時代の女官・セイ(清少納言)とフィンランド人の私(ミア)、二人の物語。ミアは清少納言についての本を出版したいと、日本にやってくる、そして吉田神社の近くのゲストハウスに下宿することとなる、その間に東北大震災が起こって、一時、タイへ避難するなどの紆余曲折をへて、無事、本は出版されることとなった。フィンランドの、しかも日本語も片言しか話せない人が清少納言なんか理解できるのかと侮りながら読み進んだのだが、それは大間違い。彼女の紫式部が清少納言を芳しく彼女の日記に書かなかったことも、清少納言が道隆の死や定子の晩年の苦境を枕草子に描かず、宮廷の華やかな様子の描写に終始したので、すべて依頼者からの要望があったからという指摘は鋭すぎる、これが正解のような気がしてきた
紙の本
憧れを自分の手に。
2021/12/24 16:30
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投稿者:名取の姫小松 - この投稿者のレビュー一覧を見る
職場での環境が変わる。そんな時著者はフィンランドの長期休暇制度を利用して、日本へ行こうと思い立った。『枕草子』の作者清少納言について詳しく知りたい、そしてその結果を本にできないかと、故郷を飛び立った。
著者は日本語ができないし、『枕草子』は英訳で読んだ。それでも焦がれる気持ちは行動に移さずにいられなかった。
紫式部より知名度が低い、英語にされた文献が少ない。世界文学での『枕草子』の知名度にぶつかりながら、セイを求める旅が綴られる。
電子書籍
なぜフィンランドから?
2023/09/06 00:17
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
それが、はじめの疑問でした。でも読み進めるにつれて、ミアさんすごい。本当に清少納言に魅せられて、日本にはるばる渡って来られたのね~。愛にあふれてます。
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日本人は、清少納言を「セイショウ・ナゴン」っ発声してる人が多いと思う。氏が清少、名が納言、みたいに。明らかに間違っている。本来は「清・少納言」。本書では清少納言に「セイ」って友達みたいに呼びかけているので、本当は「セイ・少納言」であることに気付かせてくれる。そして当然、「セイ」というのも本名ではない。少納言も本人の官位ではない。清少納言や紫式部にてい学校の歴史や国語の教科書で古典とし学んだだけの日本人には、フィランドから送られた本書でいろんなことが学べ、平安時代がぐっと身近に感じられること請け合いだ。
本書は独身のアラフォー・フィンランド人女性が、遠い日本、しかも1000年も昔、藤原氏の支配する平安時代の女性作家・清少納言に恋し、清少納言を追い求め、1年間、京都や東京、ロンドン、タイを行き来して記録された日記風エッセイ。時代は2010年から2011年と言うことで、2011年の3月にやってきた2回目の日本滞在ではいきなり3.11の東北大震災・福島原発事故にも遭遇。何という巡り合わせ。
著者が京都で滞在した地域や訪問地が、よく知っている場所だったので読みながら風景が思い浮かべて個人的にも楽しめた。そして、自分の京都滞在時代には京都のことを何もしらずに時間を過ごしたことを思い知らされた。またいずれ、京都を楽しむために腰を据えて暮らしてみたくなった。
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もうこれは、星5つではとても足りない。10くらいつけたい。
読了後、あまりに感動して号泣してしまった。そんな本はめったにない。
年が明けて早々こんなに素晴らしい本に出会えて幸せ。今年は良い本に出会う運が良いのは間違いない。
まず、フィンランドの現代女性が清少納言に、「枕草子」に共感してのめりこめるということ。文学の持つ力に恐れ入る。
ミアさんの、編集者として、物書きとしてのアプローチの仕方、情熱のかけ方のすごさ。1年の休暇を取って京都にやってきて、一度フィンランドに戻り、ヴァージニアウルフが「源氏物語」について「ヴォーグ」に書いているとの情報を得てそれを調べにロンドン→再び京都へという足跡。その後3.11の震災があり、タイへ逃避行するもまた京都に戻る。
ちなみに彼女はわたしと同世代で、本好きで編集の仕事に携わっていた。そして2010~2011年はまだ独身だった。
そしてこれは何という偶然かと驚いたのだけど、2011年の3月11日、わたしもまた、京都にいた。福岡の友人と京都で落ち合い、京都一泊旅行を楽しんでいたその日に大震災のニュースを聞いた。わたしたちは、すぐそばにいた!
本書の中でミアさんは、終始、「セイ(清少納言)、〇〇だったの?」と質問したり語りかけたりするのだけど、最後に、セイはコピーライターだった! と発見する。
P460
「あなたは広告編集者、つまり、商品の聞こえをよくする、嘘はついていないけれど、どこかを強調したり、省いたりして、手にとる人たちが「をかし」と声を上げて買ってしまうような、実際よりもよく聞こえるようにすら書くコピーライターだった! セイ、あなたは大文字で、定子のサロンは「素敵!」と更新するのよ。」
P465
「つまり、あなたは若い定子に仕えるために宮中に上がった。あなたは定子をひどく敬愛し、定子はあなたに憧れていた。あなたたちは親しくなった。定子の父親が亡くなり、叔父が権力を握ろうとしはじめ、すべてが変わった。叔父は天皇と12歳にも満たない自分の娘である彰子を結婚させた。彰子の入内の支度はこれ見よがしに豪奢だった。徐々に皆が彰子につくようになる。あきらかに権力が交代した。誰だって負け組に残りたくなかったから。定子は内裏の外で過ごす時間が多くなり、ますますふさぎ込むようになった。あなたはサーカスの猿のようにその場飲ん雰囲気を保とうとし、渡り廊下でジョークを飛ばしたり、聞こえるように笑ったり、殿上人たちを惹きつけたり、すべてがどんなに素敵ですばらしい――をかし――か熱く語った。とりわけ、自分や他の人たちの恋人たちについてたくさん書いているのも、愛が、愛こそが余計なことを忘れさせてくれるから! テンションを上げて、暗くならないように、あなたはベストを尽くした。そして定子は亡くなった。あなたができたことは、定子の栄華を書き尽くすことだけ。あなたの本の「誠実な」印象の最後の仕上げは、あなたの秘密の日記を人の目にさらすつもりはなかったと断言することだった。抜かりはなかった。
セイ、あなたは中宮の宮廷道化師だった。シェイクスピアの道化師たちのように心配なさそうにみえて��そのくせ見にふりかかった悲劇についていつもいちばんよく知っている道化師。セイ、あなたは守護道化師だったのよ。命を賭けて書き、弾丸を受けるために中宮定子の前に身を投げる守護道化師。定子の守護者、それがあなただった。」
そしてミアさんは、実際に12単衣を1枚づつ着せてもらいながら(京都にある12単衣フォト体験のようなものだと思う)、セイに人生の選択肢の可能性を訊ねながら、彼女の人生と自分の人生を重ねていく。
ここはこの本のハイライトでありクライマックスだと思う。
そう、この本はドキュメンタリーでありノンフィクションだけど、ミアさんの物語になっている。そこもまた感動ポイントのひとつ。
これについて、訳者の末延さんはあとがきで、「生きるために」必要な「自分の物語」だと書かれています。
そうだ、だからこそわたしはこんなにも感動したのだ。「ダンサーインザダーク」でビョークの演じたセルマが工場の機械音を音楽として感じることで辛い状況を生き、「ライフイズビューティフル」でユダヤ人として迫害を受けるなか、父親が子どもに「これは楽しいゲームなんだよ」を嘘をつき通したように。
セイの「枕草子」もそうだし、この本も、生きるために必要な自分の物語だった。
だからこそフィンランドで多くのメディアに取り上げられ、多くの人に勇気を与えたのだろう。書評ブログには、「人生を変える勇気をくれた」「物を書きはじめた」「これまでしようと思っていたことを実行することに決めた」といった感想であふれたそう。
わたしもまたその一人。
号泣するほど感動したのはなぜなのか、自分でもよくわからないけど、魂を大きく揺さぶられたことは確か。
「春はあけぼの…」中学で初めて暗唱したあの文章。美しくて、着眼点が鋭くて、生まれて初めて出会った古文に感動しつつ得意げに暗唱してたっけ。
それがフィンランドの女性の心に響き、ここまでの物語を書かせた。
やっぱり涙がこぼれてしまうよ。ミアさん、ありがとう。
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2009年フィンランド、ヘルシンキ。出版社で働く38歳のミアは、日本に行くため長期休暇を取ろうと決意する。目的は清少納言について調べること。枕草子の英訳版を長年愛読し、イマジナリーフレンドの清少納言を「セイ」と呼ぶミアは、翌年ついに彼女が生きた地に降り立つ。言葉の通じない京都でゴキブリだらけのアパートの仲間たちと支え合いながら、はるか昔を生きたセイの実像に迫ろうともがくうち、ミア自身の生き方も変化しはじめる。学ぶ楽しさと“千年前の親友を持つこと”の素晴らしさを教えてくれる、フィンランド女性の日本滞在エッセイ。
めちゃくちゃ面白くて一気読み!まずヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』と枕草子を結びつけるエピグラフからグッと心を掴まれてしまった。
清少納言に「セイ」と呼びかけ、断章のあいだに枕草子の引用をガンガン挟んでいくスタイルはケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』を思いだす。あれはモダニズム文学者の妻たちに“チャネリング”して怒りをぶちまけながら、「ミューズ」の一言で括られ作家としては語られてこなかった女性たちに正しい居場所を与えようとする傑作フェミニズム文学エッセイだった。この手のエッセイだと笙野頼子『幽界森娘異聞』もある(ミアは森茉莉も気にいると思う、英訳さえあれば!)。
ザンブレノや笙野頼子のようにミアは清少納言に“チャネリング”し、現代の京都を歩きながらセイの姿を幻視しようとする。ミアの原動力は「なぜ千年前の日本で枕草子を書くことが可能だったのか」という問いとはち切れそうな好奇心で、異国でいつもより大胆になっていく自分を俯瞰視点で眺める語り口はコミカル。38歳でキャリアもある人ならではの余裕がある。
ミアはヘルシンキで生花を習っていて、日本の古典も英訳で一通り(一般的な日本人より全然たくさん)読んでいるのでとても日本文化の造詣が深い。日本語はあまり話せないけど、どんなことをすると失礼にあたるかをいつも気にしていて、リスペクトを感じるしちょっと申し訳ない気持ちになる。それから、2010年当時の日本って外国人観光客が多い京都でもこんなに英語を併記する施設が少なかったのかと、見えていたはずなのに見えていなかった世界に驚かされる。京大の図書館には行ってみなかったのかな。
一時帰国を利用してミアはロンドンへも行く。枕草子の英訳者アーサー・ウェイリーと親しかったヴァージニア・ウルフが、同じくウェイリーが訳した源氏物語の書評をヴォーグに書いたという事実を確かめるためである。エピグラフからもわかるようにミアはウルフとセイを繋げようとしているので、「ウルフは枕草子を読まなかったのか、読んだけれど感想を言うに値しないと感じたのか」と思い悩む。そのまま勢いでロンドンまで行ってしまえるのが羨ましい。結果、ウェイリー版は訳者の独断で多くの章が省かれているため、もしウルフが読んだとしても枕草子のフェミニズム的な先駆性に気づけなかったのではないかとミアは考える。
枕草子がいつもいつも源氏物語と比較して語られるもどかしさは、きっと枕草子ファンならみな感じるものだろう。私も中関白家が好きなので枕草子は定子周辺の幸福なメモワールとして楽しんでるし、派閥の代表作家に紫式部を選んだ道長より、清少納言を選んだ道隆と定子のほうがイケてると思う。それでも生きたセイに近づくためには紫式部日記に頼るしかなくて、そこに書かれた清少納言像が後世に圧倒的な影響力を持ってしまった。ミアが読んでるのは主に外国人が書いた平安文学の本なので、清少納言が謙遜しない自慢屋のいけすかない女扱いを受けてるのは国文学の世界だけじゃないらしい。
だからこそ、ミアが「広告編集者」という自分とセイの共通項を見つけだし、溢れる言葉で新しい清少納言像を綴るくだりには本当に胸を打たれた。政治のど真ん中にいながらきわめて個性的な文章を書き残した女性をどう評価すべきか。セイに語りかけ続けた“親友”だからこそ辿り着けたリアルかつポジティブな清少納言の姿で、とてもフレッシュだった。
アパートで知り合った国も年齢もバラバラな仲間たちとのエピソードもよいのだが、私はやはりミアの学びたいという気持ちの強さと、対象へのリスペクトが本来は引っ込み思案なところもあるミアを変容させていくところに心が揺さぶられた。ミアの情熱は東日本大震災ですら阻みきれない。そんな彼女の姿を追ううち、ミアにとってのセイのように私もミアに話しかけながら読んでいた。ミア、海老蔵はカリスマだけどどうかしてる奴なんだよ。能は日本人もみんな寝ているよ。日本のご飯楽しんでて嬉しいけど食費が9万超えはヤバすぎて声だして笑っちゃったよ、ミア。
古典を読むのは時を超えた親友をもつということなんだと、はるか遠いフィンランドからきたミアに改めて教えられた。そんで親友のことを知るための勉強ってめっちゃ楽しいじゃん!という熱い気持ちがミアから私にも伝染してきた。この人絶対カレン・ブリクセンも好きなんだろうな〜と思ったら、本書(デビュー作)の次作はまさにブリクセンに関するものだという。今すぐ読みたい!
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著者のカンキマキさんは40代のフィンランド人女性、どういうわけだか清少納言のことが好きで好きで、研究助成金をとり、日本にやってくる。しかし本人は日本語が話せない、読めない、当然「枕草子」も日本語で読めない。そこで英語やフィンランド語で書かれた「枕草子」や研究書を読んで清少納言に迫る。本の中では清少納言は何度も「セイ!」と呼びかけられている。そのやって清少納言の追っかけのような生活をしているうちに、清少納言の言いたかったことがわかる。それは中宮定子が天皇に見染められなかったけど、教育係として清少納言がいかに素晴らしい日々を送っていたかの記録であり、ある意味、広告文であったということだ。
素晴らしい日々であったので編年体ではなく、日々の思い出、しかし過去形ではなく現在形での記述。政治的な出来事については言及しない。その当時支配的だった形容詞「あわれ」は使わず「をかし」は多用。
そう、私達の日々は素晴らしかったという宣伝文だったのだろうということにカンキマキは気づく。そう考えると紫式部が清少納言のことをあまりよく書かなかったのも長徳元年に定子が落飾した以降のことと思うと納得できる。負け犬を褒めても得るところがなかったからであろう。一方、約300年後世の吉田兼好などはそういった政争とは最早無縁であったので、清少納言の文章を手放しで誉めている。
また今より1000年も前に女性がこのような随筆を書き、それがいまでも読めるというのが日本のその当時の文化の成熟度を示すものである。20世紀初頭のイギリスの小説家ヴァージニア・ウルフは源氏物語に感動していたそうである。
この本をよんで清少納言の人となりについて理解が深まった。
枕草子は英訳するとPillow Bookになり、エロチックな本という印象になってしまう。映画化されてもエロチックになっちるし、この本でも春画と誤解されるくだりもあった。源氏物語のほうがよっぽど濡れ場があるのにあちらはど言う言うわけが高尚という扱い。なんせ長編小小説ですからねーっ。負けちゃうんです。いろんな側面で。
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フィンランドの人の名前は面白い。カウリスマキとか。カウリスマキの映画の、ちょっとわかりにくい不思議なユーモアとこの本も、なんとなく繋がる気がする。
「組織改革や業務効率化についていくのに年々嫌気が差してきた」著者が一年の長期休暇を取り(労働者の権利として認められている)、助成金を申請して日本へ行き、清少納言についてのノンフィクションを書くという計画を実行する。
彼女の京都での下宿先は、僕も馴染みがある地域、職場の近所である。タクシーを降りる目印として描かれているコンビニで、あのあたりか、と分かる。
外国人の住処となっている安宿があのへんにもあるのだな。
清少納言は紫式部に比して研究書も少なく、晩年をどう暮らしたかなどもよく分かっていないと、僕は知らなかった。
清少納言に常に「セイ」と呼びかけ、「ものリスト」を書き続けるさまは楽しく、京都に暮らす外国人の紀行文としても、とても読み応えがある。
3.11の震災に在日の外国人として遭遇した様子も描かれている。彼女は迷った末タイに退避した。清少納言を追っているうちにタイのリゾートに。なんというか、ドラマチックな話である。そしてこの章を読んで当時のことを思い出した。人間どんなことでもすぐ忘れてしまう。だからこういう記録は書かれないといけないのだ。
「この国に関しては、人々はいろんなこだわりをもつものだ」という場所で過ごす一年でおそらく彼女の人生は大きく変わっただろう。その後の歩みを読んでみたい。
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「私は、あなたに話しかけられた世界中で唯一の人間だと思ってきた。自分は選ばれた人間で、他の人には見えていないものが見えていると思ってきた。私だけが少なくとも霊的な通信ができる、だからあなたについて他の誰にもわからないことがわかるんだ」
これこそ『枕草子』に魅了された人がみな抱いてしまう思い込みだと嬉しくなってしまった。1000年の時代の隔たりを前にしては現代の日本と現代のフィンランドなどその隔たりはほとんど誤差のようなもので、作品の読者同士は時代や地理や言語の壁をこえてたがいに精神的に結びつくのが読書のすばらしさ。
あるかなきかの手がかりほしさにすがるように京都に向かい、セイ・少納言が生きていた証を探そうとしてへとへとになる。そうしてとうとう彼女はほとんど書写されてきたテクストの中にしかいないこと、そしてテクストこそ彼女が確実に生きていた証だったことにぐるりとまわって気づくのだ。『枕草子』というのはそういう古典である。
付け足すと、この作品は京都という被災地からは比較的離れた場所とはいえ、東日本大震災を体験した外国人の記録という側面もある。
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おもしろかった。シンパシーからここまで行動をおこせるのってすごいなぁ。
資料を読みあさるよりも、同じところに行って同じものを見聞きすることが理解につながることがあるってことを忘れないでいたい。
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長期休暇を取り、清少納言について調べるために京都へやってきたカンキマキさん。フィンランド語に訳された枕草子を読んで、清少納言について知りたいと思いたち、日本語はできないものの、夏の京都ヘやったてきた。その滞在記が本書。
清少納言にセイと呼びかけながら、セイを真似た書き方をしたり、セイの言葉を挟んだり。はじめのうちは、なかなか清少納言研究にならず、普通の日本滞在記かしらと思わせるが、徐々にカンキマキが理解したセイについてを自由に描いていく。日本でもよく知られていない清少納言という人物を、親しみを込めてまとめている。そして、カンキマキ自身の新しいチャレンジとなったようだ。
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タイトルを見て、「おぉ、これは絶対おもしろいやつだ」と感じた。紫式部や『源氏物語』ならまだしも(それでも驚きだが)、清少納言を求めて、はるばるフィンランドからとは!
本書は著者ミア・カンキマキさんのセルフドキュメンタリー。40代独身で、子どももおらず、自宅と職場を行き来するだけの生活に嫌気がさした広告編集者の「私」は、一年間の長期休暇制度を利用して、憧れの日本に滞在することを決める。目的は「清少納言、『枕草子』を研究して本にまとめること」。折よく助成金まで取得でき、いざ京都へ!
そこからは京都での暮らし、交友録、日本文化への関心、たまに(?)している研究が日記風に記載されていく。そう、これは「心に触れたことを書いていく」清少納言に倣った、著者による『枕草子』なのである。『枕草子』のおもしろさはリストアップにあると見る著者の清少納言への理解はとても深い。著者は清少納言を「セイ」と呼び、まるでメンターであるかのように問いかける。途中途中で挟まれる『枕草子』の引用も効果的だ。
著者のカンキマキさんは、次第に清少納言を自分に重ねていく。訳者の末延さんは、『枕草子』を直接引用するのではなく、著者のカンキマキさんがフィンランド語に訳したものを現代日本語にバックトランスレーションした。その結果、清少納言の感性が1000年以上経った今も古びておらず、現代女性にも深く共鳴するものであることが浮かび上がっている。確かにカンキマキさんの言うように、もしヴァージニア・ウルフが清少納言を知ったら、きっと大いに喜んだことだろう。
日本でも『枕草子』は一般にはほとんど読まれていないだろう。海外は言わずもがなで、清少納言が紫式部と混同されたり、『枕草子』の英訳Pillow Bookが、春画のpillow booksと同じであることから、殊更に性愛と結びつけられ、清少納言を娼婦と解説する専門家もいるらしい。
実のところ、私は清少納言が好きである。賢く、機転がきき、ひたすらに定子を愛した清少納言。たとえ末は没落していたとしても、きっと強く、幸せに生きたに違いないと思っている。おそらくは田辺聖子さんの『むかし・あけぼの』がそのイメージ形成に一役をかっている。紫式部が日記の中で、「したり顔」で「さかしだち」してるのが気に食わないと清少納言を批判したのを知ったときも、むしろ紫式部に腹が立った。
最後にカンキマキさんは、清少納言が『枕草子』を書いたのは何故かという問いに、ある回答を出す。それが文学者の山本淳子さんが著書『枕草子のたくらみ』で出した結論に近いものであったことに驚いた。無性に旅をして、文章を書きたくなる一冊。
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タイトルの通り、清少納言を調査するために来日した著者によるエッセイ。
枕草子のような書き方を意識した構成、“セイ”と語り合う道中、発見があったときの鮮烈な驚きが伝わる一冊。
著者の目を通して清少納言に出会う。
読みやすいし、おもしろいのに、ゆっくり読んでしまう…なぜだろう。著者の経験から感じたことが濃密というか、鮮やかに感じる瞬間が多くて、それをじっくり楽しんでいると自然とゆっくり読んでしまう。
洋の東西を問わず、時の隔たりも問わず、つながれる瞬間が確かにある。
清少納言にひとりの女性として対峙する…いや隣に立つ、著者の視点でフィンランドを感じ、京都の千年前を思っていたところに2011年3月11日の震災の体験が語られ、それまでは物語の中のようだと思っていたことが、現実の出来事として実感できるようになる。
著者が驚いた際の文章がリアルタイムのように感じられて引き込まれた。
「枕草子」の原本が残っていないことに驚いた著者、言われてみれば原本が無いのに作品が残っているのは驚くべきことだと気付かされた。
愛読しているペンギンブックスの『枕草子』の表紙が「源氏物語絵巻」から取られていたことに気付いたときの脱力するような発見は、こちらもなんだか不思議なおかしさを覚える。
また、「枕草子」について書かれた本はいくつかあっても、西洋の言語で“清少納言について”書かれている本が無いと気付いたときの未開の地に踏み入れたような高揚感には思わず唸った。
クライマックスに十二単を重ねていく、脱いでいく、これを山場にできる構成力がすごい。
旅について、誰かを思うことについて、気持ちの良い一冊。
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すごくよくできている。清少納言に関する海外の数少ない研究を、著者自身の京都滞在の経験と突き合わせながら、清少納言の実際の姿を描き出そうとする。しかもそれを、軽やかな京都滞在記に巧みに織り込み、読者を飽きさせない。この本を読むと、枕草子だけでなく源氏物語や徒然草も読んでみたくなるし、京都にもしばらく住んでみたくなる。歌舞伎も見たくなるし、大英図書館にも興味がわくし、プーケットにも行ってみたくなる。何か興味のあることを研究してみたくもなる。この本は、より自由に楽しく生きるための誘いに満ちている。また読むかもしれない。
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清少納言を慕い研究するフィンランド女性の日本滞在記。
吉田山近くの外人ハウスを拠点に京都を巡り歩き、千年前の都に想いを馳せる。ただ資料探しに行って「文章も展示も、その大部分が日本語でしか書かれていない」ことに落胆する。
清少納言に対する低い評価を、中宮定子の父藤原道隆と彰子の父道長の政治的確執の影響とする資料に驚き、ヴァージニア・ウルフが源氏物語に夢中になりながら、清少納言を読んでいないことを悔しがる。過小評価される清少納言を友人として「セイ」と語りかけ、和書の英訳を含む英文資料を駆使して擁護しようとする著者の清少納言に対する思慕の深さは、現代と平安京の時の隔たりを忘れさせる。
「セイ、 あなたの時代ではあなたは注目の的だった。あなたの声は宮廷サロンに圧倒的に、揺るぎなく、他を押しのけて響き渡っていた。ところが、今日、スポットライトを浴びているのは誰? ムラサキ、ムラサキだけなのよ。 道長さん、もしこれがあなたの狙いだったとしたら、お祝いするしかないわね。 軍配はあなたのチームに上がったのだから。」
また、枕草子に倣い感興の赴くままに綴られた「もの」リストも楽しく共感を覚える。
「愛さずにはいられないもの」
竹林。竹の滑らかさ、涼やかさ、軽やかさ、爽やかな青々しさ、まっすぐさ。見上げるほど高いのに軽い感じ。竹林は精霊たちが活動している場所みたいだ。当然、身軽に空を飛ぶ僧侶たちのことも想像した。隠れた庭園の緑の苔の絨毯と松の雲のような葉群。それを誰も見ていないときにゆっくりと撫ることができること。竹林を見ながらいただく一碗の抹茶と菓子。