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イタリアの戦中、戦後って興味深い
2020/08/02 21:48
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
パヴェーゼという人はイタリアの人で、最後は服毒自殺を図っている。前から読みたい読みたいと思っていた作品だった。主人公は私生児として生まれて、孤児院で育って、養育費目当てにパトリーノに引き取られた。農夫、兵隊、地下組織、アメリカでの彷徨、そして成功者、彼はそんな自分を見せびらかすために故郷に帰ってきたのか(私はそう思っている)。パトリーノ一家の代わってパヴェーゼが暮らしていた家に住んでいたヴァリーノ一家のチントは印象深い少年で、主人公も私も主人公の少年時代を思い出させる。そして、彼はある事件から本当に主人公のように孤児になってしまう。それにしてもファシスト、パルチザン、共和制、イタリアの戦中、戦後の歴史は興味深い
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故郷を持たなければ孤独は癒されないのか
2015/06/05 22:06
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投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
イタリア北部の貧しい農村に主人公は育つ。旱魃が起きると農地を手放して村から離れたり、小作の立場となる農家が現れる。孤児を引き取ると補助金がもらえるので、それ目当てで引き取られた主人公の家も、ある年に離散の運命に遭い、主人公の少年は親戚の大農場で雇われ者になる。そこで仕事を覚えて青年となり、町へ出てさまざまな職業を経験し、やがてアメリカにまで行って、いつしかそこそこの財産持ちになって、ふと故郷の村に立ち寄って数日間の滞在をしたのがこの物語になる。
故郷と言っても生まれた場所ではないし、家族がいるわけでもない。それでもいくらかの歓待をもって迎えられ、居心地がいいようで悪いようでいる。古い友人を通して、知人の消息を聞いても、親身に思いを馳せるには感情はほど遠い。そして村の周囲の森には、パルチザンやファシストの死体がまだまだ埋まっていて、住民達の心もささくれたままでいる。
だが彼は、一人の片足が不自由な少年に目が止まる。おそらくは家族からの期待も少ないひ弱げな少年に、かつて孤児だった自分の影を見る。村を出て経験を積むことで、自分と同じように、まったく違う未来を得ることができるのではないかという期待だ。そこには、自分と同じ境遇の者の存在に、係累の者のいる故郷というものを求める心の動きに見える。しかし前近代的とはいえ先の見える生活を捨てて、誰も成功するとは限らないせちがない都市の競争社会を選ぶのは、とても分がいいとは言えない賭けでもある。
そして彼には、松明をかざして進む祭の賑やかさ、月が昇るのを見てため息をつくのにも共感することはできず、いつまでもここではよそ者のままだ。
町に戻れば成功者としての地位をもって迎え入れられるはずだのに、自分が何者で、いったいどこに行こうとしているのかは、永遠に分からず仕舞いになりそうな予感が、静かに彼を満たしていく。ひと時の感慨、土地のもたらしたメランコリーなのかもしれないが、ここにある孤独は永遠にも感じられる。戦争の傷もファシズムの恐怖も表面的にしか感じられない素朴な人たち、それがこの田舎の村だけの存在でないとしたら。
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パヴェーゼ最後の長篇小説。
本作の他にも岩波文庫から出ているものは読んだが、自然描写、特に田舎の村の景色を描いたところがとても美しい。その中で生きる登場人物は決して善人ばかりだとは言えないが、そこもまた魅力と言える。
しかし『月と篝火』という邦題は何とも言えず美しいね。
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一切が回帰する世界のなかで、物語は象徴に導かれながらすすみ、やがて始まりに到達する。すでに決められた世界から飛躍し、別の物語へと繋がるためには、神話と時代が必要なのだ。
パヴェーゼが目指したのは神々がまだ人間、動物と平等だった時代の共産主義的ユートピアなのだろうか。とすれば、死すべき者は常に不死である神々なのだ。
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先日読んだスーザン・ソンタグが取り上げていた、パヴェーゼの最後の長編小説。
40歳になった主人公が、生まれ育った故郷の村を訪れる。その村でかつて起きたさまざまなこと、現在のさまざまな様子、あるいは別の土地(アメリカ)で体験したさまざまなことが綴られる。
これもまた、「場所」に関する小説である。時系列が少々入れ替わっており、通時的な「歴史」というよりも、すべての事象が共時態的に「止まった時」のなかに漂うような、そんな場所=時間が描出されている。
この場所に登場する人物が多く、どの名前がどんな人物を指しているのか、ちょっと混乱させられた。
背景として、両大戦にまたがって、ファシスト党のムッソリーニが権力をふるい、それに対抗するパルチザンが活躍し、やがてファシストが滅びる、という暗く陰惨な、激動の時代がある。この小さな村も、そうした歴史性に完全に巻き込まれており、決して独立したユートピアを形成しているのではない。
この小説を読みながら、小説的な言語ということを考えていた。イデオロギーの言語は、人びとを絶えず争闘のなかにたたき込むということを、日頃目にしている。イデオロギー的な言語とは、否定し、排斥し、攻撃するパワーそのものであり、人びとはむしろ、そんな争闘のパワーに操られているだけのようにも見える。(ただし哲学の言語はまた別だ。)
小説の言語とは、それとは全く異なるものだ。それは誰をも攻撃しない。否定するよりもひたすらに肯定し続ける。そうして、構築された言語は象徴的なイメージを結実し、そこにポエジーを生成する。このポエジーは「語り得ぬもの」であるがゆえに、小説の言語を別の言語に交換することは出来ない。
かけがえのないポエジーが、確かにこの小説にも宿っている。
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「故郷は要るのだ、たとえ立ち去る喜びのためだけにせよ。」
すべてが“私生児だから”というのが理由になるだろうか?
月は憧れ、篝火は最期の象徴。
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残酷さも貧しさも全ては美しい過去となり郷愁の中に葬られる。
地続きの今がその先にあるとしても。
篝火はすぐに焚けないけれど、外に出れば今夜も綺麗な月が浮かんでいます。
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主人公にとってこの村は血の繋がった家族はいなくても様々な繋がりがあり確かな故郷と言える
それが失われていくそんなストーリーだと感じた
時代の変化だとか、主人公の成長、戦争とか様々な形での喪失を味わうことになる
ただ、孤児など弱者に対する容赦のなさは変わらないことを痛感した
暗いストーリーと美しい描写がよかった
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p84. どうやって人に説明できただろう。ぼくが求めているのは、かつて見たことがあるものを、ふたたび見たいだけだ、などと?
初パヴェーゼ。作者も作品も知らなかったたので、「ぼく」の背景を知らず、この主人公の行動や人々の会話が何を意味するか分からず、最初は読んでいるだけだった。そのうち、イタリアの寒村の風景、「私生児」アングィッラの暮らしと、戦争で変わってしまった人々と村、祭りや労働の記憶などの味わいを感じた。ヌートのクラリネット、篝火、玉蜀黍の皮、孤児院と小作人、荒家と山羊と榛の茂み、葡萄とポレンタ、チントヴァリーノ老婆、マッテーオ旦那と2人の娘、司祭とパルチザン。貧しさの記憶と故郷パドリーノの家での季節の移り変わり。
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内容は三分の一くらいしか把握できなかった。主人公、ヌート、チント以外の登場人物が誰が誰なのかわからなかったくらい、自分には難解だった。カラマーゾフの兄弟の方が登場人物が整理しやすい。この本の文字の小ささに慣れたら、大体の小説は読みやすいと思えると思う。
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主人公の「僕」は大聖堂の石段の上に置き去りにされていた。そして孤児院にいたのを貧農のパドリーノ一家に引き取られた。養育費銀貨一枚のために。私生児と呼び囃されながら「僕」はガミネッラの丘で幼年時代を送り、養育費が支払われなくなると今度は平地の農場へと売り渡されていく。主人公の生涯を追いながら描かれるのは農村の激しい貧困、戦争の惨禍、人々の愛憎劇。残酷な現実と悲哀の中に月光のように静かに輝くのは、貧しさに喘ぎながらもその地で生きようとする人々の姿だ。様々な感情、思惑を抱きながらも、誰かを愛し、催される祭の時は賑やかに、精一杯楽しみ、そうしてまた日々の労働に身を砕く。人の生き様を、困難な時代に翻弄された人々を淡々とだけれど美しい筆で描いた本作は胸が痛むけれど、感動的な物語。「故郷は要るのだ、たとえ立ち去る喜びのためだけにせよ。故郷は人が孤独でないことを告げる。村人たちのなかに、植物のなかに、大地のなかに、おまえの何かが存在しおまえがいないときにもそれが待ちつづけていることを知らせる。」この一節が本作の全てを言い表しているように思えます。
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あるとき書店で見かけて以来、中身をほとんど読みもせず、これを読むまでは死ぬまい、と心に決めた本である。それを読んでしまったのだが、やっぱり、自分の直感に誤りはなかったと思う。内容についてここであらためて語ることは野暮でしかないので、語らない。まあ、これはどんな話にも共通しているけれど。気になったら読めばいいと思うし、気にならなければ読まなくてもよい。ただ、気になったのなら必ず読んだほうがよい。そんな話。
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私生児の「ぼく」が成長し、知恵をつけて独立し、アメリカで資産を得て故郷に戻ってくる話だが、時が行ったり来たりするのと登場人物が多くて整理しきれなかった。
解説を読んで、たくさんの象徴が用いられているのがわかった。
月は死と復活の象徴であり、篝火も夏至の夜、聖ジョヴァンニの祭りに焚かれて再生と豊穣を祈るものである。
最後に、ファシストと通じていた美しいサンティーナが銃殺されて葡萄の枝と燃やされ、その痕が篝火の痕のように残っていた、という描写があるが、それは祭りの供物であり、戦争の供物であったという解説になるほどなと思った。かつての「ぼく」の主人の3人の娘たちは、サンティーナをはじめ、それぞれ男に振り回されて悲惨な死に方をした。一方、孤児院からの月一の入金を目当てに養父に引き取られたようなぼくは、私生児と揶揄され、入金がなくなってからは養家に置いていかれながらも強く生き抜き、戦争と搾取でボロボロになったガミネッラの丘に資産家として帰ってくる。アングィッラ(うなぎ)と呼ばれたそのあだ名が彼の生き方を象徴していると思う。彼の親友で賢いヌートが共産主義的な考え方をするように、戦争やファシズムだけではなくて、金持ちが貧乏人を搾取するあり方への批判も感じられた。
が、難しい。ちゃんと読めてない気がする。