人生を楽しむために
2025/01/22 19:34
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投稿者:ごみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
哲学者スピノザの専門家 國分先生の新刊が出たので読んでみました。
スピノザのエチカの解説も分かり易かったので、今回カントの批判哲学3部作をもとにした「楽しむこと」の哲学について学ぼうと思いました。
私自身「楽しむ」ことは人生の本質と思っていたので、どんな展開になるかワクワクしました。
先生は、嗜好品をネタのカントの哲学的思考を展開して、快に関して4つの分類に辿りつきます。
■人間の高次の合目的性のあるもの
1)美しいもの(美)、崇高なもの(崇高)
2)端的に善いもの(善)
■低次の合目的性のあるもの
3)間接的に善いもの(目的ー手段)
4)快適なもの(享受の快)
1)2)は人間のあるべき姿として、人はなぜかわからないけど持っているようです。確かに…
4)は人がそれぞれの経験の中で味わう楽しみの得たもので趣味、嗜むものだと。確かに…
しかし、3)は、何らかの目的のために得る満足であって、快ではないというのです。
それぞれの特徴、分類をいろんな例をもとに分かり易く、現代風に解説してくれます。
18世紀にこんなことを考えていたなんてビックリしましたが、とても合点がいきました。
特に3)の問題は、4)享受の快を手段として満足を得るもので、依存症になりやすい。だから「手段からの解放」なんだ…
健康、ワイン、タバコ、ドラッグ等を例に紐解いてくれます。
更に、20世紀のマスマーケティングの情報による、3)が促進されたとの警告も提言されています。
こうした哲学的思索を、今後の人生において「楽しみ」方の参考にしたいと思いました。
特に、4)享受の快の大切さを実践しようと思いました。
また、2)と3)が結びついたネットでの炎上現象や、1)として神と3)が結びついた新興宗教の問題とも捉えられるように思いました。
とても学ぶ事が多かった。
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本書は、カントの提唱する快の四分類(快適なもの、美しいもの、崇高なもの、善いもの)を丁寧に解説することから始まる。
- 快適なもの:感官的な快であり、個人的な好みに依存する。目的や合目的性を持たない、純粋な享受の対象。
- 美しいもの:反省の快であり、主観的ながら普遍性を要求する。目的はないが、合目的的に感じられるもの。
- 崇高なもの:理性的観照の快であり、人間の想像力を超える強大なものに対する畏敬の念から生じる。
- (端的に)善いもの:道徳法則に従うことによって得られる快であり、理性の実践的な働きによる。目的そのものであり、自律的な意志によって実現される。
美しいものや崇高なものが、それ自体として価値を持ち、我々に直接的な喜びや感動を与えるように、快適なものもまた、手段性を超越した純粋な享受として捉えられるべきだと著者は主張する。直接的な満足を与える三つの領域と、目的達成という手段に依存する「間接的に善いもの」との明確な区別は、我々が普段何気なく享受している快の中に潜む構造を明らかにする。
また、『暇と退屈の倫理学』でも論じられていた「浪費」と「消費」の対比、嗜好品が排除される傾向、そして依存症の問題についても、具体的な例を挙げながら議論が展開される。特に、あらゆるものが目的のための手段とされる全体主義社会における享受の否定(「チェスのためのチェス」は許されない)というアーレントの指摘は、現代社会が陥りつつあるかもしれない危険な兆候を示唆し、読者に強い警鐘を鳴らす。「アーレントは全体主義社会を目的の概念から分析する過程で、ナチの政治家ハインリッヒ・ヒムラーが全体主義社会の理想とする人間を定義して述べた言葉、「それ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間」を引いています」という箇所にはドキッとさせられる。会社勤めの人間であれば、誰しも際限のない業績向上と株式市場の期待への応答を求められる毎日に疑問を禁じ得ないが、アーレントの指摘は過度な効率化や目的至上主義がもたらす心の貧しさを浮き彫りにする。
いま、私たちが何か一つでも自分にとって快適だと感じられるものがあり、それを享受しているのであれば、決してそれに目的を持たせてはいけない。それが目的への抵抗、すなわち合目的性からの逃走線であり、まさに幸福なのだから。
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前半は3割ほど、後半は7割ほどの理解だろうか。「楽しむことは大切である」ということはよくよく分かる。僕もずっと「学ぶことは楽しい」と言ってきた。「楽しいことは伝染する」と言ったのは森毅だったか。ところが、楽しいから一気に嗜好品へと話が移っていく。酒、タバコ。タバコは嫌悪しているので論外だが、酒は嫌いではない。酒自体を楽しめるかというと、おいしい日本酒を頂いたときなどは心がうきうきすることはある。しかし何よりも酒の席では話がはずんだり、場が和んだりすることが楽しいのであって、酒自体が楽しいのではないようにも思う。安酒でも楽しむことはできる。議論をきちんと受け取れていないような気もするのだが、何かのためにではなく、そのもの自体を楽しむ姿勢が大事なのだと受け取っている。コンサマトリーと言われるものだろうか。だから、将来のためにとか、受験で合格するためにとかではなく、純粋に楽しいから学ぶというようになるのが理想だと思う。楽しいことは続けることができる。話は大きく変わるが、快ということについて、ドラッグの話が出て来る。アルコール、ドラッグと来れば、次はセックスであろうか。ロックンロールについては置いておくとして、セックス(性的なこと全般を指すことにする)自体を楽しむのは第四象限で、生殖のためのセックスは第三象限に入るのか。哲学者はセックスについて議論するのだろうか。依存症の話が出て来るのなら、性的倒錯はどうなのか。同性愛などは倒錯でなくなっているのだろうが、小児性愛であったり、窃視だったり、痴漢だったり、盗撮だったり、こういうことに快を感じるというのはどうなのか。などなどと、いろいろ考えてしまった。もう一つ、井奥陽子「近代美学入門」を少し前に読んでいたこともあり、山の崇高さなどにも興味がわいた。風景ということについては、ちょうど柄谷行人の「日本近代文学の起源」を並行して読んでいたので、何かのつながりを感じた。
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現代社会では、ものそれ自体を楽しむことが難しくなってるよね、ということをカントの哲学を紐解きながら論じて行く本。
現代人は「目的-手段」の視点でしか、物事を見れなくなっているという主張にはっとさせられた。スポーツでも勉強でも、何のためにこれをやっているのかという「目的」を考えて行動することが多かった私にとって、何かを楽しむということに対しても、そのような視点を向けてしまっていた。
食事でも、お酒でも、スポーツでも、読書でも、それ自体が楽しいものであるはずなのに、何でもかんでも「目的-手段」の視点で見ていたら、きっと人生は豊かなものにならないと思う。資本主義社会においては、「目的-手段」で物事を捉えることへの圧力が強いため、気づいたらそのような視点になってしまいがちであるが、物事それ自体を楽しむという視点を忘れないようにしたい。
以下、内容を簡単にまとめたものです。
現代人は、目的と手段の関係性で物事を見てしまい、それ自体を楽しむことが難しくなっている。例えば、ワインを飲むことを例に挙げると、ワインの味それ自体を楽しむのではなく、ワインを「酔うため」、「社交のため」と目的に奉仕するための手段として利用してしまうのだ。
これの何が問題なのか。
第一に、何でもかんでも、目的-手段の関係で物事を見てしまい、それ自体を楽しむということが出来なくなってしまうこと。アルコールやタバコといった嗜好品がその最たる例である。アルコールに至っては、手段化が進んでしまうとアルコール依存症という、アルコールを楽しめず、そこから抜け出すことが難しい状態に陥ってしまう。
第二に、何かを楽しむという行為それ自体を消費社会にコントロールされてしまうこと。そもそもそれ自体を楽しむためには、それなりの訓練が必要であり、時間を要するものである。例えば、ワインを楽しむためには、ワインを味わえるだけの味覚を身につける必要がある。にも関わらず、消費社会ではメディアやSNSが、「これが楽しいですよ」、「これが流行ってますよ」といってさらなる消費を促すように、個人の嗜好をコントロールしようとしてくる。
第三に、目的-手段の関係で物事を見てしまうと、どんな手段であっても目的の前ではそれが正当化されてしまうこと。
このように「目的-手段」の関係でしか、物事を見れなくなってしまうと、主体的に物事を「楽しむ」ことが困難になってしまう。現代社会では、「楽しむ」ことがどんどん難しい環境になってしまっているため、個人個人がその物自体を楽しむような意識を常に持つことが大切である。
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國分さんのシリーズ哲学講話の2冊目。
1冊目の「目的への抵抗」が面白かったので、次を楽しみに待っていたところ。
タイトルからして、前作の議論の続きであることが分かる。つまり、全てが目的とそれを達成するための手段になってしまっている今の世の中の苦しさから抜け出ること、自由といったことがテーマになっている。
といっても、そうしたテーマに直接的に切り込むのではなく、過去の哲学者がどう考えていたのかを再解釈しながら、アプローチしていくところが彼の議論の面白いところ。
今回のアプローチの起点は、「嗜好品」、つまり、タバコやアルコールなどのもたらす「快」という一見些細なこと。これを何とカントの議論を参照しながら、進めていくうちに、実践理性批判、判断力批判というカントの三大批判の2つと絡めながら、「嗜好品」というささやかな人間の楽しみといったものまでが「目的」を達成するための「手段」という構図に巻き込まれていることを導き出す。
現代社会というか、消費社会というか、資本主義というかが、全てを「目的と手段の関係」に巻き込んでいっているというのは何となく思っていたことなのだが(特にシリーズ前作の「目的への抵抗」以来)、身近な嗜好ということでこれを示されると、何だかその議論のリアリティが身に染みてくる。
國分さんの本は、一見、過去の哲学者の解釈について細かい議論をしているように見えて、実はその解釈の先に彼独自の哲学世界がある。つまり、哲学者について研究しているのではなくて、哲学をしているというのが伝わってくる。
今回の本では、國分さんとしては初めてカントに言及するようで、これまでの長い研究史があるところで、遠慮がちではあるが、これが面白い。
カントによると、人間の認知能力には構想力、悟性、理性、感性があるということになっているらしいのだが、國分さんは、この4つの能力が、それぞれが独立したキャラで、人間の中でこれらのキャラが議論したり、せめぎあっているようなイメージで説明していく。
この辺りが、何だかドゥルーズ的で面白い。國分さんは、ドゥルーズの「カントの批判哲学 」を訳しているので、そのあたりの影響もあるのかな?
國分さんは、アーレントに対して批判的なコメントもしばしばしているのだが、著書ではアーレントの問題提起から刺激を受けているところもしばしば語られる。
この本でも、アーレントの「エルサレムのアイヒマン」に触れて、アイヒマンがカントの実践理性批判の「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法に基づいて行動することを心がけていたという驚くべき発言を取り上げている。ここから、國分さんは、カントの定言命法が実行が難しいだけでなく、場合によっては、それを実行することがとてつもない全体主義の悪を生み出してしまう可能性があることを指摘している。
たしかに、その可能性はあるかもしれないと思ったし、もう少し考えてみたいテーマではあるが、アーレントの言っていることの解釈としてはやや無理がある気がした。
アイヒマンの発言は、定言命法を正しく理解してそれに基づいて行動しようとしたのだが、ナチスの時代においては、「普遍的な立法の原理」を「ヒトラーだったらどう考えるか」に置き換えて行動していたという趣旨である。
そして、この「定言命法」の解釈は、アイヒマンの独自解釈ではなく、ナチス時代の法学者の理解に沿うもので、おそらくはナチのエリートが共有していた考えである。アーレントはそこまで含めて、このエピソードを紹介していたのだと思う。
つまりアイヒマンは「定言命法」ぽくみえる「仮言命法」(目的達成のための手段的な行為)に基づいて行動していたということで、どちらかというとある種の「仮言命法」の危険性の問題ではないだろうか?
ということは、全体の中で小さな話しではあるが、ちょっと気になったので、書いてみた。
全体として、とても思考を刺激する本だと思う。
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前作の深掘りで、享楽を手段化することで物事を楽しめなくなるということを哲学的に捉えた本。何かしら趣味や生活習慣を高尚なものか・役に立つかを考えてしまっていることは誰でもあると思うので、難解なカントの哲学を用いていても平易な説明も相まってスッキリと入ってきた。
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「酔うために飲む。酒を楽しむ行為そのものは目的からも手段からも自由であるのに、それが酔うという目的のための手段にされてしまう。」
これは國分の言葉を抜粋したものだ。ドキッとした人も多いように感じる。私は酒を飲まないが、楽しむ行為が何かの目的の手段になっていないかと思うことはある。目的や手段から解放された「楽しみ」が私にはちゃんとあるのだろうか。そんなことを考えてしまう。なんとなく日常であまり楽しみがないなと思ってしまった人は是非とも本書を読みもう一度自分と向き合ってほしい。國分の哲学はいつも日常に即していて尚且つ理解しやすく書かれている。次回作も楽しみだ。
あと國分に手段から解放された楽しみはなんなのかと聞いてみたいな。
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著者の暇と退屈から読了し本書を読みました。感覚的に捉えている目的のなく楽しむ≒趣味≒嗜好をカント哲学から迫り言語化されるのは面白い。抽象的な美や善、崇高を具体化しながら、嗜好品とは?を追い込み、現在の目的志向主義を批判的にとらえ、人間を見つめ直す。
この方の著者が面白く、ただただ好きです。目的もなく読了。
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(著者にとっても意外かもしれないが)間違いなく、かつてなく四半期の数字目標が厳しく喧伝される現代ビジネスの中で、マーケターはじめ、ブランドづくりに関わるすべての人間にとって、必読の一冊だった。
凝り固まった思考の根本OSを、一発ガツンと、叩きのめして、UPDATEしてくれる。
目的ー手段の関係が当たり前のように叩き込まれる商売人の思考回路において、自らが作るモノやコトを、手段から解き放つのは非常に難しい。
でもそれこそが、現代社会が抱える病理に、いやそんな小難しい話を抜きにしても、シンプルに、「よりよいものづくりに勤しむ」ためにこそ、欠かせないはずだという直観に、出会えたような気がする一冊。
この本はじめ、『暇と退屈の倫理学』以降、國分先生の議論には感動を覚え、勉強しているものの、憎き存在として描かれる文化産業こそ、まさに私の本業。ぼくら商売人は、どう生きるべきか?非常に難しい難題。この本でも、やっぱり文化産業は悪役。でも、悪役にだって、抗い方はあるんではないか?
むしろ、作り手として、楽しむ心を促す方向で、腕を振るうことができるのではないか?そんな予感を得られた。國分哲学、もっと恥肉にしていきたい。
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嗜好品とは何なのか。そうした疑問へのヒントを得るために、今回はカントの哲学の深淵に迫る。
カントはその認識論で有名であるが、今回は、カントの著作をもとに、享受の解を探る。
途中の理屈付けはやや納得できない、理解が難しいところもあったが、カントは何かの目的のために行うことを低次の欲求能力を満たすものと位置付けた。定言命法によって理屈付けられる、つまりそれ自体が目的となるような(目的なき合目的性)事象は崇高や美とされるが、なんらかの目的があるからそれを行う、接種するというような事象はレベルの低い欲求とされる。
本書を読んで、個人的に腹落ちした部分としては、『健康経営』というコンセプトへの生理的な忌避感が言語化できたところであった。本書でも、健康はそれ自体が快適なものであるが、何らかの目的のために健康であるという、健康の手段化が行われてしまうと、それは低いレベルの欲求を満たすことになってしまう。
健康経営は経産省発信のコンセプトで、健康な労働力が生産性を向上させ、結果として健康に取り組む会社は業績が良くなるので、株価が高くなるという情報発信である。
個人的には、過酷な職場やメンタルヘルスに悩む友人等を見るに、企業が健康経営に取り組むことは9割は納得しているが、1割だけもやもやとした感情があった。それは、私たちは生産性を上げるために健康であるのではなく、ただ単に健康そのものが快適であるから健康を目指すという視点が抜け落ちており、まさに我々の健康というものが資本を増やすための手段に置き換わってしまうことの違和感である。これはある種の疎外であり、その違和感があった。
会社は健康な社員を臨むが、その単純な目的と手段の関係性ではなく、本来どの人間にもあるはずの、健康そのものへの快適さやを、個人の裁量で追求する、享受するという観点が必要なのではないかと感じた。
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この人の本は読む、と決めている人のひとり
手段や目的に囚われない受動的な享楽の大事さ。
ただ嗜好品以外にも楽しむことへ切り込んで欲しかったし、「暇と退屈の倫理学」での"消費ではなく浪費"からの発展はあまり無い気がした
読みが足りんのかもしれんけど
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目的があることだけが善いことではない。楽しいからやる。快適だからやる。善だからやる。美しいから見る。
目的に連関する、目的を達成するために行う手段が個人の生と社会を覆い尽くしている。
という内容。
目的志向みたいなものの虚しさと限界を感じていたがそれをある視点から言語化してくれた本。
とは思いつつ、目的に連関しないことに価値を感じられるか、喜びを感じられるか?と考えてしまう自分が、もう既に目的志向に汚染されているのだろう。
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「はじめに」にあるように第1章と第2章で同じような内容になっている。論文が読みやすいか、講話形式の文が読みやすいかでどちらを先に読んでも良さそう。
「楽しむ」とは何か、「嗜好品」を手掛かりに4つの快についての考察を経ていく、「快」と「快適なもの」の違いや、「善」について。4つの象限と特に重要だと思われる3(間接的に良いもの、目的を手段の連関)と4(享受の快)の関係性。「享受の快」は人を成長させないがそれは人にとってはなくてはならないものであると同時に依存症との関係性もある。結論としては「享受の快」は剥奪にあってはいけないということ。資本主義社会がそれを推し進めてしまっているのではないかという懸念。特に「おわりに」の内容が印象に残った。
実はうっかり前作の『目的への抵抗』を読んでいないので、これも読んでおこうと思います。
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哲学の思索の過程を覗き見している感じがした。自分がビジネス書が好みではない理由が書かれていた。本筋の主張以外にも面白いアイデアがあり、考えを巡らせたくなる。
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現代社会の風潮が、手段に支配されつつあるという感覚は、確かに感じる。楽しいてなんだろう。なぜ趣味が思い浮かばないのか?趣味も手段化しているのではないのか?例えば、子供の頃は泳ぐのが楽しかったのに、大人になると健康維持の為の手段となっているように感じる。睡眠も、仕事のパフォーマンスを上げる手段になっている。資本主義というOSが知らず知らずに自らをそのように仕向けているのかなと、読みながら思い当たった。