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中二階 (白水Uブックス 海外小説の誘惑)
中二階のオフィスに戻る途中のサラリーマンがめぐらす超ミクロ的考察。靴紐はなぜ左右同時期に切れるのか、なぜミシン目の発明者を讃える日がないのか…。誰も書かなかった、前代未聞...
中二階 (白水Uブックス 海外小説の誘惑)
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商品説明
中二階のオフィスに戻る途中のサラリーマンがめぐらす超ミクロ的考察。靴紐はなぜ左右同時期に切れるのか、なぜミシン目の発明者を讃える日がないのか…。誰も書かなかった、前代未聞の注付き小説。再刊。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
ニコルソン・ベイカー
- 略歴
- 〈ニコルソン・ベイカー〉1957年生まれ。ニューヨーク州で育ちイーストマン音楽学校とハヴァフォード大学で学ぶ。著書に「もしもし」「フェルマータ」がある。
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紙の本
生きることを愛するために
2004/01/10 17:57
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
この新奇にして愛すべき小説にはただ、好きだという感想を言うしかないだろう。ここにあるのは日常の些事への偏執的なまでの愛着、こだわりであり、日常を形づくる無数の単純(?)作業の一つ一つを見つめ、日々更新していくことによって、生きることそのものの愉しみを生きる男の視界なのだ。
中二階にある自分のオフィスへ向かうため、エスカレーターに乗ろうとするところから、昇りきって中二階にたどり着くまでのあいだに浮かぶ想念の束を、脱線する思考とさらに脱線する思考を註釈によって描き出す特異な方法で書かれた小説である。じっさいは、数年後にこの瞬間を再構成しようとして一ヶ月の間熟慮していたということが作中で語られるように、この小説は再構成することを自然なこととして提示しているのではなく、人為的に物語を構築するように、日常の一瞬を構築しようとしているのである。作者はその点意識的で、これが書かれた(構成された)ものであることを隠さない。
そうまでして構築されたこの極小スケールの世界には、靴ひもの結び目が切れるのはひもを結び直すからなのか、日々の歩行がひもに与える力のせいなのかについての省察や、牛乳瓶の配達がだんだんと消えていく光景や、トイレットペーパーのミシン目への熱烈な賛辞、熱風乾燥機がエコロジーに貢献しているか否かということへの思考など、日々、誰もが一度は目にしたりちらりと考えるものの、本格的には考察したりしないような些細な事柄をこだわり抜いて考えることによって満たされている。
これは、家事の思想ともいえる。
作中にも掃除することの楽しさが語られているが、汚れた部屋をどうやって綺麗にするかという方法をそのたびに考え、ほうきの掃き方、ちりとりにどうやってゴミを残さず掃き取るか、といったようなことをより上手くやることを愉しむのである。このことは末尾に出てくるレジ打ちの手際の良さに感嘆する様子にも現れている。
効率的に物事を動かしていくことの楽しさ。これはまた、メカニズムにおもしろさを見ることでもある。エスカレーターやエレベーターの動きに対する注視。
ここらへんはミルハウザーにも通じるような稚気が満ちている。両者は共にメカニズムへの偏愛が目立つ作家だと思う。しかし、ミルハウザーは少年期へのロマンチックな没入、もしくは夢想を偏愛するが、ベイカーは少年期の記憶と共にセンチメンタリズムが侵入することを何よりも嫌う。ともに機械運動−何かが動き、運動し、ある行動が何かの作用をもたらすということへの単純な感動への、稚気あふれるこだわりを示していながら、少年期というものへの見方がこれほどに違うのは面白い。
その点は、ミルハウザーが物語への志向を捨てないのに対して、ベイカーは徹底して現在、瞬間ということを小説の対象に選ぶという差異があるからかも知れない。ベイカーは生きるということそのものを形づくる小さな事柄の蓄積、連鎖に最大の関心を払うのである。数十秒を実時間として持つ「中二階」に顕著な、対象の限定ぶりはそのことの何よりの証拠だろう。
小説というものの形式は、ものの見方そのものでもある。徹底して政治性、物語性、感傷性を排除し、現在への、メカニズムへの、そして生活することへのこだわりは、生きることを愛するために選び取られた方法だ。腕時計を盗まれたこと、自分の両親が離婚していることをとりあえず書きこんでおきながら、そこへ筆をむけることを完全に拒んでいるのは、そのことの態度表明ではないか。
ここで丹生谷貴志の何かの本で読んだ感動的な言葉を思い出す。手元にその本がないのでおぼろげなのだが、それはたしか、こんな言葉だったと思う。
「明日もまた、今日と同じようにやることがたくさんあるのだ!」
わたしたちもまた、今日も明日もやることがたくさんあるのだ!
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エスカレーターに乗ってさすらう男
2003/04/11 15:08
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぼこにゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
人はどこまで己の精神活動を意識し得るものだろう。この小説は主人公のサラリーマンが昼食後オフィスへと向かう場面から始まり、オフィスへ至る手前で終わる。すなわち全編のほとんどが(オフィスのある)中二階までのエスカレーターの上で展開する主人公の思索に費やされている。
その思索というのがまた表面的というか即物的というか、具体的にはペーパータオルへの礼賛とか洗濯物の畳み方とか靴紐の傷み方とか、プルーストやナボコフに代表される大陸的な重厚さとはきっぱり無縁な瑣末なことばかりなのだが、そのどれひとつをもなおざりにせず微細な考察により綿密に解きほぐして行く強靭な気力にはまったく舌を巻くよりほかはない。
主人公に関する情報の少なさもこの小説の特色といえよう(なにしろマニアックなほどの唯物主義が全体を貫いているのだ)。彼は読者と体験を共にする水先案内人というよりは、終始一貫して淡々とした遠景のように希薄に存在し続ける。しかしながら、アメリカ文学の味わい豊かな平易かつ都会的で湿度の低い文章に引き込まれて読み進むうち、読み手はこの影の薄い主人公に名状し難い親しみを抱いていることに気付くだろう。
それもそのはずで、我々が対人関係において他者を認識し、あるいは判断するに際し、その根拠となるのは実に些細な材料の総和に過ぎないのだ。会話中の言葉の選び方、服装や着こなし、道具の扱い方、身のこなし、顔付き、癖や習慣。人間とはつまるところ、これらの細かな破片を積み重ねたモザイクなのかもしれない。
我々は時に微視的に、時には巨視的に相手や自分を観測し、その折々で変化する印象に基づいて手前勝手な法則を導き、更に『本当の彼(彼女)』やら『本来の私』といった架空的なタペストリーを胸の内に織り上げてしまうのだ。アインシュタイン風味のエスカレーターに乗って、重力から解き放たれ混沌の宇宙を自由に飛び回る主人公は、そのまま現実世界に籍を置く自分自身の姿と重なる。
『もしもし』や『フェルマータ』でベイカーが見せたひとつのテーマ(セックスにまつわる様々な要素)に対するひたむきな情熱や探求心とはまた別物の、静かで密やかな(そして執拗な)洞察の勝利がここにある。これまで翻訳された作品を読む限りベイカーの最高傑作であり、恐らくは今後もそうであり続けるだろう。いつかこの予測が裏切られる日を願いつつ。
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読むのに時間がかかってうれしい
2021/12/22 13:07
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:きなこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
注釈がとにかく多い。ので、一見読みにくい気がするのですが、その一つ一つが愛を込められて慈しんで書かれているのでだんだん注釈に対して愛着がでてくる。本文→注釈→本文…と交互に読むと他の本より読むのに時間がかかってなかなか読みす進められないが、内容が癖がありつつも面白い視点から書かれていて読み終わるのが惜しいので読むのに時間がかかってうれしい。
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秀逸な作品。
2015/12/26 17:54
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:紗螺 - この投稿者のレビュー一覧を見る
とにかく細かい観察で身の回りの事物を掘り下げる、掘り下げる。ベイカーの作品は今までも読んでおもしろかったが、これが一番私の好みに合う。大体、脚注のほうが本文より長い勢いでついてるって何事、と思いながら、そういうところがすごくいいと思ってしまう。
ストローの話などその典型で、どうもアメリカではプラスチックのストローを使う前は紙のストローだったらしいのだが、両者を比較し、重さと密度のちがい、液体がしみこむか、泡がふちゃくするかetc.etc.まあなんて細かいことを(そしてどうでもいいことを!)分析するのだろうと感心してしまう。どうでもいいことこそが、この本の中ではおもしろい。作者の(語り手の、だろうが、語り手と作者はかなりオーバーラップする)観察や分析には、厭味なところもなければわざとらしいところもなく、ただ吹き出してしまいそうな意表をついたおもしろさがある。