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  • カテゴリ:一般
  • 発売日:2002/09/12
  • 出版社: 新潮社
  • サイズ:20cm/397p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:4-10-353413-3

紙の本

海辺のカフカ 上

著者 村上 春樹 (著)

【世界幻想文学大賞】15歳の誕生日、少年は家を出た。一方、ネコ探しの老人・ナカタさんも、西へと向かう。暴力と喪失の影を抜け、世界と世界が結びあうはずの場所を求めて−。長篇...

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海辺のカフカ 上

税込 1,980 18pt

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商品説明

【世界幻想文学大賞】15歳の誕生日、少年は家を出た。一方、ネコ探しの老人・ナカタさんも、西へと向かう。暴力と喪失の影を抜け、世界と世界が結びあうはずの場所を求めて−。長篇書下ろし。【「TRC MARC」の商品解説】

著者紹介

村上 春樹

略歴
〈村上春樹〉1949年京都府生まれ。早稲田大学卒業。小説家。著書に「ねじまき鳥クロニクル」「アンダーグラウンド」「うずまき猫のみつけかた」「レキシントンの幽霊」など。

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みんなのレビュー257件

みんなの評価4.0

評価内訳

紙の本

こんなに笑ったなんて、何年ぶりだろう。それも大声を出して

2002/11/18 20:53

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

笑った。こんなに愉快な本を読んだのは何時のことだろう。最近では泣く本には当たるけれど、声をあげて笑ったのは、中島らも『寝ずの番』以来だろうか。大分前なら井上ひさし『表裏源内蛙合戦』、小林信彦『ちはやふる奥の細道』、『O・ヘンリー傑作集』、山田風太郎『天国荘奇譚』、いやいや海渡英祐の吉田警部補シリーズかもしれない。外国ものならフロストだろうか。そんなことを友人に言ったら、彼女は小林信彦『唐獅子株式会社』と浅田次郎『巣鴨プリズン』をあげた。そんな彼女も、カフカには笑ったという。そう、極上のユーモア小説。

主人公は二人、一人は作品の中で自分のことを田村カフカと呼ぶ15歳の少年。彼が誕生日に家出するというのが、とても自然。小中学校と孤立して生きる事を選んだというのも現代的。少年が考えた末に、家出先に選んだのが暖かい四国。そこに向かうバスで知り合ったのが、さくらさん。少年のビジネスホテル暮らしが始まる。午前中は公営の体育館で汗をながす。それから私設の甲村記念図書館に出かけて、読み残していたバートン版『戦や一夜物語』や『漱石全集』などに閉館まで目を通す。館員らしからぬ大島さんや、清楚な佐伯さんとも顔見知りとなって穏やかに過ごす日々。それが8日目におきた事件で終わりを告げる。

もう一人はナカタサトル。1944年の11月、引率されて行ったきのこ狩りの野外実習で起きた、16人の子供たちが相次いで倒れ意識を失う事件。その中で9歳のナカタだけが記憶を完全に失う。現在は、知事から補助を受けながら中野区を出ることも無く暢気に暮らしている。彼の好物はうなぎ、特技は猫と話ができること。気になるのは知事からの補助が打ち切られること。いま、彼が探しているのがゴマという三毛猫。ゴマを知るカワムラさんと名付けた猫との珍問答、ミミというシャム猫登場と、彼女の恐ろしいまでに冷酷な訊問。

カフカと大島さんとの対話、哲学的な話もだが、シューベルトのピアノソナタを巡る会話は奥が深い。喫茶店でベートーヴェン/大公トリオを巡る話や、ハイドン、そしてチェリストのフルニエについての話も、クラシック・ファンの心を擽る。それから図書館で繰り広げられるフェミニズム論争の緊張感もいい。笑えるのがナカタさんとカワムラとの噛み合わない会話。そしてミミが繰り出すビンタ攻撃。

しかし、圧倒的に楽しんだのは下巻。星野さんが登場するに及んで、どちらかと言うと静的だった話が、大きく動き出す。彼とカーネル・サンダースとの深夜の会話には、思わず吹き出してしまい、そばで勉強していた娘に「そんなに面白い?」と聞かれてしまった。それからも何度も笑ったのだから、かなりのものである。ギリシア悲劇にも似た憬れの女性との関係も、幽明の世界での出来事のようで、甘美。

スキャンダラスな事件小説では味わえない貴重な体験。娘の通う女子中学で、かなりの数の生徒がこの本を読んでいるという。ここには、金にまみれてしまった日本人の心を大きく転換させるであろう何かがある。それが大江健三郎の小説でも重要な四国を舞台にしているというのも面白い。戦争や音楽が小説に影を落とすところもだが、ナカタさんの会話を読むと、どうしても大江の小説を連想してしまう。

浮遊したようなニュートラルな世界。優しい言葉遣い。性的な幻想。奇妙な人間たち。壮大な神話世界の投射。実在の都市すら仮想であるかのように描かれるのに、他のどんな小説よりも、そこにいる人々の息遣いが間近に聴こえてくる確かな世界。「海辺のカフカ」を一緒に聴いてみませんか。

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紙の本

荒唐無稽な幻想譚「オチ」のない詐偽小説!

2002/10/31 22:15

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:安原顕 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 子供騙しの小説で呆れた。思いつきによる謎(のようなもの)が多数ちりばめられてはいるが「落とし前」は一切なく、ただ無意味に長いだけだからだ。
 読者は「謎」に釣られて読み進むが、最後に解決がなければ何のために読んだのかと、不快な徒労感だけが残るだけである。
『海辺のカフカ』は『ねじまき鳥クロニクル』同様、ひでえ詐欺小説と言っていい。とはいえたちまちベストセラー、おそらく書評も「絶賛の嵐」だろうから(『朝日新聞』9月20日夕刊で、小山内伸記者も激賞した)、一つくらい酷評があってもいいだろう、「いや、春樹はいまや裸王様だからして、断固書いておくべきだ」との気分にもなった。
 ぼくは、短篇集『TVピープル』以降の彼の作品、数篇の短篇以外、感心したことがない。中でも『ねじまき鳥クロニクル』のあまりの手抜き、才能の枯渇ぶりには呆れ、見限ることにした。
 ならばなぜ『海辺のカフカ』を読んだのか。「ひょっとすると今回は傑作かもしれぬ」と思ったからだ。藁を掴む気持とでも言おうか、昨今は内外ともに、それほど面白い小説が少ないのだ。
 いつもならここで粗筋を紹介するところだが、あまりに阿呆らしいストーリー(と言えるのか)ゆえ、その気がしないので、今回は『海辺のカフカ』が駄目な理由に付き幾つか指摘するに止めておこう。
 一、まず主人公の15歳の少年田村カフカが最大のネックと言っていい。15歳が駄目というのではなく、この少年、単なる馬鹿で、人間的魅力にも乏しいからだ。
 作者も、このままでは持たぬと無意識裡に思ったのか、『オイディプス王』の枠組を借りたり、田村少年に哲学的言辞を弄させもするが、根が馬鹿ゆえ、滑稽の上乗せでしかない。
 また四国の高松(なぜ高松なのかの説明もむろん一切ない)の甲村図書館受付の青年大島も主要人物として出てくる。そして後に実は「女」と分かるのだが、これまた小説上、何の意味もない。
 さらには図書館長佐伯さん(52歳の女)の存在及び彼女の長い長い因果話も、不自然かつ陳腐であり、その後の田村カフカとの交情に至っては、ほとんど噴飯ものと言っていい。
 ラストの結末については書かぬが、まともな読者なら読了後、必ずや怒り爆発になる筈だ。
 田村カフカが突然失踪しても、父親も学校の教師も心配して捜索願いも出さぬとは、一体どういうことなのだろう。
 二、田村カフカよりさらに失敗なのは副主人公ナカタの存在だろう。彼は「猫探しの名人」、猫と話も出来るが、文盲なのだ。いまどき文盲なんて、まったくリアリティがない。文盲の設定が小説上極めて重要なファクターならそれもいいが、これまたそんなことはない。
 さらに驚くのは、田村カフカの父親に、「俺がお前の好きな猫を殺すか、それがイヤなら俺を殺せ」と言われ、ナカタは彼を刺し殺す。この話に説得される読者はおそらく皆無だろう。そして、ナカタもまた高松に行くのだ……。
「君は正しいことをしたんだ」とカラスと呼ばれる少年は言う(カフカはチェコ語でカラス。この小説、時折二人称で田村に語りかけるフレーズが意味もなく出てくるのだ)。
 ……「だって君はほんものの世界でいちばんタフな15歳の少年なんだからね」 ……/やがて君は眠る。そして目覚めたとき、君は世界の一部になっている」で終わるのだ。
 村上春樹は今年53歳。世界は問題山積である。このような子供騙しの幻想譚にうつつを抜かしていていいのだろうか。

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紙の本

冒険することの必要性。

2006/01/18 02:16

6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:dimple - この投稿者のレビュー一覧を見る

『海辺のカフカ 上・下』(村上春樹、新潮社、2002年)を読了。新潮社エッセイを除けば、村上作品を初めて読んだことになる。今までは正直に言って、村上作品を読む気持ちになれなかった。
というのも、商品名を多用した文体が安っぽい商業コピーを思わせたし、何より時代錯誤的なアメリカ文化への崇拝が感じられたからである。
今回の作品に関しても、そのような傾向がないわけではない。15歳の主人公が60年代のアメリカ音楽に精通しているのは多少強引に感じる。また、商品名にいたってはこんな感じである。
「父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕が普段使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスティックの腕時計でじゅうぶんだ」(上巻10頁)
しかし、こういった点は今回はあまり気になるほどではなかった。何より内容が素晴らしいのだ。本作品は15歳の田村カフカが家出をすることから物語が始まる。
そして、この物語の通奏低音として、ギリシャ悲劇『オイディプス王』、すなわち、父を殺し、母と交わる話が流れている。
なぜ、『オイディプス王』なのか?おそらく、現代日本の青少年と、それを取り巻く家族を描くためであったと思う。
しかし、それは悲劇では終わらない。現在を受け入れた上で将来へ前進することができる、というメッセージを控えめながらも村上は提示している。
では、前進するためには何が必要なのか?それは「冒険」であると思う。若者は冒険することで自ら学ぶのである。
村上は、家出をし、父を殺し、母と交わる少年を描くことで、極端な形ではあるが、若者に対して冒険することの必要性を訴えているのではないかと思った。

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紙の本

村上春樹はウソをつくのをやめたのかもしれない。

2003/03/19 10:12

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ひろっち - この投稿者のレビュー一覧を見る

この小説にはたくさんの引用が登場する。それはかつてのようにただの書物内の引用とはなにか違う。それはまるでWEB上のハイパーリンクのようだ。クリックしたければすればよい。そのまま、無視して読み進んでもいい。引用と本文の関係がかつての関係とは違って見える。
そんな風に思えるのも、この小説が変化の時代の知識や言葉に関する小説だからだと思う。文字の読めないナカタさん、過去にこだわる15歳の少年、記憶のなかに生きる女性…。記憶や言葉/文字、知識をめぐってはりめぐらされた挿話の数々は、さまざまなコントラストを描きながら、頭のなかの凝り固まった思い込みを、やさしく、ゆるやかに、壊してくれる。村上春樹という小説家に対する固定化したイメージ、小説というもの関するある姿などという嘘、ありもしない答えやノウハウ等等が、頭のなかでゆっくり形を失っていくさまが心地よい。
村上春樹は「書を捨て街に出よう」などとは言わない。書は捨てられないし、街には出なくてはいけないだろう。だが、問題はそんなことではなく、人の数だけ、書も街も存在し、それを他人と共有することがどれほど困難で、苦しいことなのかということなのかもしれない。その意味で、村上春樹はウソをつくのをやめたのかもしれない。

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紙の本

能動的に生きる

2002/09/23 08:38

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:nory - この投稿者のレビュー一覧を見る

苦しみや悲しみ、もしくは正体さえわからないものを乗り越えようとしたら、それを心から完全に受け入れるしかない。悔やんだり、逃げたり、抵抗したりすれば、それはどんどん大きくふくらんでのしかかってくる。

しかしたとえ大きくなってしまおうとも、闘わずして無条件に受け入れることはできない。闘いを通過してはじめて出口、もしくは入口が見つかるのだ。それは外に向かって突き出される拳かもしれない。自分の内側でひっそりとなされる心の葛藤かもしれない。ただ思うのは、ある種の闘いなくして、人が心から納得できるものなんてこの世にあるだろうかということだ。

そして闘いには当然痛みがともなう。その痛みを自ら引き受けたとき、人はただ流されるだけの存在ではなく、真実の意味で能動的に生きはじめるのだ。

この物語は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と対称的につながっている。対称的にさせているのは、15歳というカフカ少年の若さだろう。ナカタさんは年はとっているけれどあのとおりだし。でも年をとった人ほど、新しく生まれ変わることが必要なのかもしれないとも思う。少なくとも私はそのときが来たら足を踏み出したい。

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紙の本

「社会」にドンとぶつかって尻餅をついた村上が「やれやれ」と言いながら立ち上がって書いた小説

2002/09/29 11:32

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る

(上下巻通じての書評です)
地下鉄サリン事件のルポルタージュである「アンダーグラウンド」、阪神大震災を織り込んだ短編集「神の子どもたちはみな踊る」を経て久しぶりに出た書き下ろし長編なので、妙に説教臭くなってないかと心配したのだが、その点については杞憂だった。
ただ、やはり村上春樹はそのスタンスを少しずつ動かしているような気はする。
長らく村上は「世界」を構築し続けていた。その彼が「社会」を描き始めた。「世界」は意識するものにしか見えないが、「社会」は人間の意識とは無関係に巌として存在する。うっかり歩いていると社会の壁にぶつかることがある。その「社会」にドンとぶつかって尻餅をついた村上が「やれやれ」と言いながら立ち上がって書いた小説──そういう印象がある。
「僕」と「ナカタさん」という2人のやや異端の人物が主人公なのであるが、この物語を支えているのは「星野青年」を初めとする、非常に魅力的でかつ普通の人たちである。直感的に信じたものを素直に信じ続ける彼らの行動が一番の救いになっている。
いつものように小説の中に散りばめられた謎は必ずしも解決されることなく放置されている。しかし、星野青年に関する描写は極めて完結している。ひょっとして村上はこれらの脇役を描きたかったのかもしれない。それが「社会」に対する彼のスタンスなのではないだろうか。

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紙の本

海辺のかけら

2003/01/26 00:41

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:童夢 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 喪われてしまったもの 喪われつつあるもの 喪われたかもしれないもの…。
そんな、かすかで微妙な形の定まらないものへの憧憬を思い起こさせてくれる物語である。
 田村カフカは15歳という思春期。オトナへ成長のきっかけに、自分にかけられた呪いを抱えて家を出る。これは、性的に成熟した(ありていに言うと、女と寝ることができる)力を持ちながらも、それにとまどいを感じつつ「この世」」でどうやって生きてゆくかが皆目わからない少年の、イニシエーション(通過儀礼)の物語である。
 また、特殊な事情でオトナになることができなかった人物と、かつてオトナという概念を知らなかった人物の物語でもある。ナカタさんとホシノ君だ。彼らは子供じみた純粋さを持って「入り口の石」を開ける。ナカタさんは「入り口の石」をあけることに自分が生きてきた意味を体現し、ホシノ君は、「入り口の石」に語りかけながら自分を見つめる。
 一方、田村カフカは失われてしまったものが永遠に損なわれない世界に一度は身をおくが…。喪われてしまったものが永遠に損なわれない世界は、ある種の人々にとって酷く魅力的なのだ。
 学校や会社に通いつづけ、現実のレールに乗って一直線に進むわたしたちに、この本は違う世界を垣間見せてくれる。「この世」でオトナになり、生きつづけることの意味をこの本は立ち止まらせて考えさせる。

 しかし一方、このネバーランドは重大な欠陥を持っている。あまりにも田村カフカの視点に寄り添いすぎているという欠陥だ。この物語には田村カフカにとってのみならず、他の登場人物にとっての「他者の視点の照射」がまったく存在しない。田村カフカにとって、この物語にとって、都合のいい展開しか用意されていない。ジョニ—ウォ—カ—ですら、カフカに対して関わらない。カフカの思い込みで話が進むのだ。二人の女性との関係にしても。カフカにとって、この物語にとって、「他者」は存在しない。そういう意味で、この話は閉じられた話であり、リアリティのない物語である。

 「春樹ワールド」に乗れるかどうか…それが読者のこの物語の評価を分けさせるだろう。

 海辺の石のかけらはそれに美を見出す人間にはこの上なく貴重で価値のあるものだが、見出さない人間にはただの石ころでしかない。

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紙の本

そして終わり、そして始まる。

2003/03/31 22:12

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:まりんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る

進まない時間を抱えて生きていた少年と老人がいた。

少年は時間を進めるために、ある日、家を出た。
それまでの15年間は、時間を進めることばかり考えていたので、
少年は何にも染まらず、酷く透明な人間になってしまっていた。

老人は時間を止めるために、ある日、家を出た。
老人の時間が幼い頃に止まってからというもの、そのままの状態で時が流れた。
それは無期懲役の受刑者と同じで、あまりにも長い時間、透明であったから、
老人は次第に、色が付く事を恐れるようになった。

二人はほぼ同時期、それぞれ家出をした。
勿論、透明な自分に合う「色」を求めて。

この本は、私が今までに出会ったどの本とも違う、
「始まり」と「終わり」の物語である。

読み進めていくうちに、少年の時間が徐々に動き始めるのが分かる。
少年は行動し、悩み、出会いと別れを経て、苦悩し、また歩き出す。
そんな少年に自分を重ね、まるで自分を読んでいる気になる。
夢中になって貪ると、少年は消え、老人がページから顔を出す。
長い人生で色に染まることの無かった人間は、こんなにも儚くて優しいのか。
読者は老人が欲するモノを手に入れさせてあげたい、と願うだろう。
手に入れたとき、老人の時間が終わることを読者は知っている。
だがその瞬間、私達は幸福な傍観者となる。

無関係だった2人の人生が絡み合い、彼らの周囲も劇的に変化していく。
それらが絶妙なバランスをとり、物語の中に読者を上手く受け入れてくれる。

私達は常に始まることへの期待と不安を抱えて生きている。
始まりと終わりの持つ切なさを描くことで、著者は読者に向けて、
こんなメッセージを残したかったのではないだろうか。

「精一杯生きなさい」

心の空腹感が思いきり満たされたような読後感は、癖になる。

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紙の本

タフであること

2002/10/06 21:59

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:山川ハルナ - この投稿者のレビュー一覧を見る

『父』なるものへの宣戦布告。『母』との対峙、『お姉さん』と仲直り。
思春期の揺るぎの中で、もがいてもがいて、田村カフカは少し『大人』になることが出来た。世界で一番タフな少年として自分を奮い立たせることによって。様々な責任の所在を明白に意識することによって。
わかりやすい衝動から短絡的な実践に走ることは簡単だ。(いつでも勃起できるような)ゆるい性的興奮状態や(暴力事件を起こしたり、レイプに挑んだり)突如現れる攻撃性に身を委ねることは、不安定な精神を確たる肉体で安定させようとするあがきでしかない。結果的には、不安定な精神に導かれた肉体はあちこちで空中分解を起こしひずみを深くしてしまうだけ。
田村カフカは一つの壁を乗り越えたわけだけれど、たった一人の力でどうにかした出来たわけではない。大島さんや佐伯さんといった目に見えて友好的な人たちだけが支えになってくれたのではない。星野さんやナカタさんのように、関係ないところで格闘している人の力が知らずに大きな、決定的な後押しとなっている。結果としての複雑で理想的なバランス、割り切れない世界の仕組みを受け入れよう。
私はもちろん飽きもせずにラストの電話シーンに感動する。穏やかなカフカ青年の心象を受け取る。『海辺のカフカ』を経て自分の思考に変化が出ていることを感じる。今、同時期に『カフカ』を手にしている人たちに思いを馳せる。世の中にはたくさんの人がいて、たくさんの物語があり、たくさんの成長の瞬間がある。
村上春樹は、書き下ろし作品を同時代に手にするという喜びを読者に与えることのできる、数少ない現代作家ではないだろうか。

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紙の本

不在というかたち

2004/02/06 23:31

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:さいとうゆう - この投稿者のレビュー一覧を見る

 画家が白いキャンバスに向かって筆を執るとき、彼によって捉えられている〈かたち〉があるだろう。いまだ具体的な〈形〉としては顕在化していない、目には見えない〈かたち〉。まだ線になっていない線、色がついていない色。それらはまだはっきりとした輪郭を持っていない。それでもそこに〈形〉は先取りされ、すでに孕まれている。

 〈形〉を生み出す母胎・基盤でありながら、それは〈形〉が姿を現したときに忽然と姿を消し、そもそものはじめからこの〈形〉であったかのような顔をして、さまざまな観客の前に提示され、伝わってゆく。

 〈私〉というのも、このような成り立ちをしているのではなかろうか? 〈私〉という〈形〉ができてしまったとき、〈私〉はもはや〈わたし〉という可能性を失っているのだ。言い換えれば、〈わたし〉という、潜在的で、あらゆるものになりうる可能性への条件を忘却したところに、〈私〉は成り立っている、ということだ。

 15歳の〈少年〉は、ちょうど〈わたし〉から〈私〉への境界上にいる。いまだ具体的な輪郭はもっていないが、おぼろげに縁取られた存在の輪郭。古今東西の書籍で組み上げられた架空の楼閣には、番人はいても住人がいない。欲望の所在には気がついていても、それを向ける矛先は、夢と現のあいだを彷徨っている。ライオンになろうと思えばライオンにもなれただろう。だが彼は「カフカ」になった。

「夢の中から責任は始まる」(上巻p.227)

 もし、〈私〉が生まれたことに対して〈私〉に自由がないならば、〈私〉には一切の責任の発生する余地がない。だが、もし〈私〉がすでに作られつつある中で、消え失せようとしている〈わたし〉に対して責任を負えるなら、〈私〉はきっと〈わたし〉を喪失したまま、その内部に〈わたし〉を宿して生きてゆくのだろう。

 〈私〉は必ず具体的な姿で、〈形〉を持って存在するしかない。
 〈私〉になる、ということは、〈わたし〉とは全く別のものとして存在し始める、ということだ。「別の名前になること」は簡単にできるかもしれないが、〈私〉になることは容易ではない。

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紙の本

新しいハルキ文学

2003/02/05 01:18

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る

 出版前の広告からして謎解き本として売り出された感のある同書だが、冒頭から複雑な小説話法(ストーリーの語り方や語り手の交替、印刷表記の差異化等)が展開され、ギリシア悲劇に由来する『オイディプス王』の主題(父殺しと母との姦淫)が提示される。しかも、同じ作者が『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で用いた、章ごとに二つのストーリーが順々に書かれることで、ツインターボのように進展していく。
 こうした仕掛けの多さ・複雑さから、必ずしも上巻(とくに出だし)は、従来の村上春樹の小説に比しても読みやすいとはいえない。しかし、ちりばめられた謎・予言引っ張られるように読み進んでいくうちに、次第にことの成り行きにただならぬ興味を育まれ、いつしか小説世界にはまりこんでいくというのは、いつもの村上春樹的である。
 ここで特に興味深いのは、『ねじまき鳥クロニクル』で示された、登場人物の(身体とはとりあえず分離された)想念が、小説世界の現実で、ある現実的(具体的)な行為(例えば殺人)を犯す際の小説話法である。それは『ねじまき鳥クロニクル』に比して、大胆に想念/身体に分割され、その上、別の登場人物の想念・無意識/身体が交錯するようになってくるのだ。そこに、ツインターボの意味もあろうかと思う。
 そして登場人物の魅力が小説を引っ張っていくというのも、本作の魅力であると思う。端的には、登場人物魅力は、下巻の世界へと読者を引きずり込まずにはいないだろう。ということは、読みづらく始まる『海辺のカフカ』は、上巻が終わる頃には、確実にたまらなく面白い現代小説になっているということだ。

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紙の本

私はカフカに恋をする

2002/10/06 21:50

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:蜜柑 - この投稿者のレビュー一覧を見る

久々に村上春樹の長編が出版されると聞き、発売まで
楽しみにしていました。

読み始めてまず思ったこと。
主人公のカフカはとても魅力的な少年だな と。
頭脳端麗で、かつ運動神経も備わっており、
影がある少年。
また、思春期で多感な年頃であり、これから
まだまだ良く成長していく可能性があり、
将来を見てみたいと思う少年。
私はカフカにあこがれのような気持ちをいただきながら
この本を読みました。

物語は主人公田村カフカの家出から始まります。
現実からの逃避、思春期なら誰でも考えることかもしれません。
しかし、彼の家出は思春期の少年少女の家出とはちょっと違う。
家庭に問題があり、家出するのも分かる気がしました。
前文でも述べたとおり、頭のよい少年のため、
計画的な家出で、その面もすごいな と思った。

この本は数通りの話が章によって展開され、
最終的にひとつの点へと結びつきます。

鰯やヒルがふり、ジョニーウォーカーさんなど不思議な
登場人物が出て来たり、昔の話が出て来たり。
非現実的な話が多く、また、最後まで展開が
読めないため、気がついたら下巻の最後 と
どんどん引き込まれていきます。

謎や非現実的な要素が多く、かと言って
違和感なく読めて世界に引き込まれる、これが村上春樹の
なせる技でしょう。

不思議な思いだけ残る本ですが、現実から離れてみたいときは
おすすめです。

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紙の本

良質の積み木

2002/10/05 22:23

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:じゅん - この投稿者のレビュー一覧を見る

村上春樹の久々の長編である。そして、彼の作品の中では最もエンターテイメント性の高い長編となった。読者は単純にその物語を好きなように楽しめばよいのだ。難しく考えることは、何もない。
その一方で、一部の生真面目な人たちは、この物語を楽しめないに違いない。なぜなら、物語は謎に満ちており、そしてその謎の解答が明示されていないからだ。
もちろんその非明言性は村上春樹の意図するところである。推理小説を読むようなつもりで、最後にはすべてがすっきり解決するようなカタルシスを求める人は、この作品には向いていない。解答は一つではないからだ。
『海辺のカフカ』は良質の積み木だ。ガンダムのプラモデルのように、パーツがあり、説明書があり、完成図があるわけではない。完成図は、それぞれの読者の頭の中にある。従って、当然ながら完成品は一つではない。
このことは、この小説の未熟性を示してはいない。良質の様々な形をした積み木をして「未完成だ」という人はいない。村上春樹は、(おそらく)読者とのコラボレーションを望み、そのための骨格を提示した。その骨格の手触りだけでも文句なく楽しめる。
しかし、もし「お椀山の事件は何だったのだろう」という疑問を持ってしまったら、その答えは自分で見つけなければならない。提示された材料を用い、自分で仮説を作り上げなければいけないのだ。そしてその仮説は、何通りも存在し得る。
正解かどうかの鑑別は簡単、「否定すべき根拠のない仮説は、有効な反証が見つからない限り仮説として機能している」のだ。このルールを犯さない限り、あなたは自由に想像し、楽しむことが許されている。荒唐無稽と思われるような仮説でも、もしその仮説があなたの胸に響けば、それはあなたにとって一つの解答なのだ。もしあなたが創造力と想像力を持ってこの小説を読めば、あなただけの豊穣な小説世界を(人によっては幾種類も)受け取ることができるだろう。

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紙の本

物語のしっぽ

2002/11/11 12:55

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投稿者:ヨムヨム - この投稿者のレビュー一覧を見る

読み始めてもどこが物語のしっぽなんだか皆目見当もつかない、それでもすらすらと読み進んでしまう村上春樹の不思議さ。主人公の少年のタフなクールさというのは割とありふれたもののように感じてしまうし、世の中を斜めに見る若さが鼻につくのは私が年を食いすぎたのか? 不思議な老人ナカタさんとトラック運転手のホシノくんが繰り広げる珍道中のほうが私にしみこんできた。読後感は??がいっぱいだが、物語の終わった後ホシノくんの人生にとても興味がある。

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紙の本

「通俗」に転じるブリッジか?ナカタさんは不滅。

2002/09/25 17:49

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投稿者:大石へんろ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 暴力性や喪失といったモチーフはこの際どうでもいいことだ。巨大な石室のサウナに入るつもりで、いつものようにページをめくり、読了して涙をひと筋流した。これまで通り、村上サンは途中でボクを勃起させてくれた。勃起しないようでは、この作家は「終わり」だと思っているので、本作も並みの「力」はある。例によって、登場人物は清潔で几帳面で切子細工のように危うい。簡単にセックスをして簡単にひとを殺す。それも、真実なのか、深い夢なのか、どちらでも良いことのように思える。村上サンはなにをいいたいのかにこだわっているのではなく、物語にどうやって「いのち」を吹き込むかに全身全霊をかける書き手である。よって物語が生きて呼吸をしている間はボクも息苦しくない。
 ところが、ナカタさんが「死んだ」とき、なぜかこの物語も息を引き取ったように感じた。その後の100ページ余は蛇足である。「ハルキ先生の作品の登場人物はいつもそうやって唐突に死んでしまう」といわれる方も多い。でも、この物語でナカタさんは「神」であり、時空の主なのであるから、その座標軸が消えては石1個では役不足なのではないか。いまどき2〜3000円でパチンコを切り上げるひとはまずいないし、あんな簡単にヒッチハイクはできない。「野暮だ! 野暮だ!」。そうであります。村上サンには野暮は、通俗は似合わない。通俗の象徴が星野青年であり、「さくら」である。この作家にとって「寅さん」ふうの口上は極北の存在だったが、本作ではあえてそういう小道具を配した。もしかして、村上サンは菊池寛や尾崎紅葉ばりの「大通俗小説」を書いてみたいのではないか。村上サンは無意識のうちに国民作家にならんとしているのではないか。ロシア人はムラカミはエスニックな作家だという。ボクもそう思う。次は通俗極まりない「出雲神話」を読みたい。舞台は日本海の孤島。ナカタさんとカフカはそこで初めて邂逅する。

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