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偶像禁止の哲学
2002/12/15 00:19
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
熊野氏はカント哲学のエッセンスを抽出した「このちいさなカント書」の締めくくりに、「カントの思考は〈境界〉をめぐる思考であった」と要約している。──まず、カントは「世界」をその境界(始まり)において考え、物自体(経験の外部に存在するもの)と現象(空間・時間の枠組みのなかで経験可能なもの)とを区別した(第一章「世界は始まりをもつか?」)。
このような「超越論的観念論」の立場──認識のなりたちと対象との関係を問い直す超越論的な視点からすれば、経験的には実在的な(現象そのものに帰属するありようとしての)空間と時間が、超越論的には観念的なもの(物自体には帰属せず「人間という立場からだけ」語りうるもの)であるとする立場──こそが、「世界の外部に、世界を超越する神を考える根拠」となる。しかしその神は、思弁的(理論的)理性がそこにおいてめまいをおこして立ちすくむ境界(思考の底知れない裂け目=深淵)としてあらわれる(第二章「神は世界のそとにある?」)。
この境界、すなわち感性的なもの(思弁的理性)と超感性的なもの(実践的理性)とのあいだを架橋するのは構想力なのだが、たとえばカントが『判断力批判』で論じた「崇高なもの」(「端的に大」であるもの)は構想力にとっての無限=法外なもの=不可能なものである。そこにおいて呈示される(呈示することの不可能性によって呈示される)のは「構想力にとっての可能性と不可能性それ自体の〈境界〉の上に揺らいでいるもの」であり、そこにおいて経験されるのは「不可能性に向かい、不可能性に無限に近接してゆく経験」である(第三章「〈不可能なもの〉をめぐる経験」)。
──正直に書いておくと、私は「カントの思考の奥ふかくにあるもの」を論じた第三章がよくわからなかった。たとえば熊野氏は「不可能性に接近する経験」について、「より正確にいえば、主体のなかにわずかに存在する神的なものが、ほんの一瞬ほのみえ、煌めく経験にほかならない」と書いている。このことと、「カントが超越論的感性論において確立しようとした視点、空間と時間の超越論的観念性という論点が、神学的/形而上学的な含みをあらかじめ有していた」ことの指摘とをあわせて考えると、本書で熊野氏が示そうとした「哲学的思考のひな型」とは、人間(現象)が神(物自体)にアクセスする無限の回路、端的に神になること(人間でなくなること)の経験可能性をめぐる思考なのだろうか。
神の似姿ではなくその痕跡としての人間。──ともあれ、いまのところ私にできるのは、偶像禁止の哲学(不可能性の経験をめぐる神学)としてのカント哲学の光景、すなわち「世界をめぐる経験が神的なものと接する境界の光景」を見事に綴った熊野氏の文章を玩味することでしかない。
《問いは不在の深淵にたいしてむけられる。深淵とはまさに峡谷のあいまにふかく抉られた裂け目、底しれない無の淵のことである。(中略)谷間をなす深淵は、たんなる空虚である。そこに答えはなく、問いだけがいたずらにこだまする。理性の深淵のなかで、答えのない問いかけが、ひとり反響している。けれどもそのことこそが、すがたをあらわすことがなく、世界のうちでかたどられることがないもの、再考存在が不在のままにあらわれるかたちであり、この世界における神の痕跡なのである。》