電子書籍
人生のどのタイミングで読むかによって価値が変わる本
2020/07/22 22:53
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:りー - この投稿者のレビュー一覧を見る
きっと一年前に読んでもまだわからなかったであろう哲学的な機敏…脱魔術化・脱呪術化する以前の世界観や存在論を面白く読む事ができた。「世界のあり方」について自分なりに考え、ある程度言語化した上で読むと良いかもしれない。カスタネダの入門書としても優秀(なぜなら僕が本書を読んですっかりカスタネダに興味を持ったから)。目的を持って読む読書というよりは、なんとなく手にとって読みたい本だな思う。きっと読むたびに受け取るものが異なるんじゃないだろうか。
紙の本
比較社会学という学問領域のコンセプトを確立したとも言われる興味深い書です!
2020/04/15 09:02
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、世界各地の現地の人々がもつ知の明晰と感性の豊饒に出会うことを通して、近代に続く世界の生き方を考察した画期的な書です。同書は、比較社会学という学問領域のコンセプトを確立した書とも言われています。同書は、「共同体のかなたへ」、「カラスの予言―人間主義の彼岸」、「世界を止める―明晰の罠からの解放」、「骨とまぼろし(メキシコ)」、「ファベーラの薔薇(ブラジル)」、「時間のない大陸(インド)」、「彩色の精神と脱色の精神―近代合理主義の逆説」、「色即是空と空即是色―透徹の極の転回」、「生きることと所有すること―コミューン主義とはなにか」といったテーマで話が進められ、なかなか興味深い内容となっています。
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久しぶりに読んでいて興奮した本。驚くのは、この本が1977年に書かれた著作だということ。「根をもつことと翼をもつこと」のくだりが特に好き。
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文化人類学者のカスタネダが、シャーマンであるドンファンのもとを訪ねる話をもとに、精緻に描く、
現代の私たちの自明性の罠からの解放を目指す、真木氏の一冊。
ドンファンの言葉を、カスタネダや私が言葉という文字で「理解」したと思ってはいけない。
私たちが当たり前だと思っているもの、貨幣や西欧中心的な思考などは、ドンファンの住むメキシコの地では通用しない。
何が、本当の価値なのか、私たちのツールとしての言語や貨幣、思考は、本当の普遍性を持つものなのか
エゴイズムからの解放、死への恐怖からの解放、私たちの内奥をすべてを解き放ったときに、交響するコミューンが開かれる。
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今見てる世界は
【世界】ではなく、
【限定空間】である。
今の嗜好性、人間関係に没頭すること、
つまり現在の癖や習慣の中だけで、
合理的に、分析的に生きることは、
非常に勿体無いということを強く感じた。
そして、全ての行動は、
本来、それ自体として目的的でなくてはならない。
意味や目的を行動に内在化することは、
細部を見逃す危険を孕む。
刹那的に、瞬間瞬間をいかに楽しくできるか。
それも『意志する意志』があれば可能であるはず。
『知者は行動を考えることによって生きるのではなく、行動を終えたとき考えるだろうことを考えることによって生きるのではなく、行動そのものによって生きるのだ。彼は自分の人生がすぐに終わってしまうことを知っている』
『自尊心てのは、履歴と同じで、捨てねばならぬものだ。おまえは自分は世界で一番大事なものだなぞとおもっとる限り、まわりの世界を本当に理解することはできない。お前は目隠しされた馬みたいなものだ。あらゆるものから切り離された自分しか見えないのだ』
『我々の耳は、言語へと疎外されているから、すべての【ことば】を言語として聞く。そして言語化し得ないことばは、きこえない、というふうに、感受性と交信能力を自己限定する』
『彼らが痴者であるのは、それを眺めている我々の視力が閉ざされているからである』
『自己の生きる世界の自明性を解体するという作用がある。?異世界を理化すること?自世界自体の存立を理解すること?実践的に自己の世界を開放し、豊饒化する』
『無知に沈溺するものは、あやめもわかぬ闇をゆく。明知に自足するものはしかしいっそう深き闇をゆく。合理的説明への脅迫である』
『合理的に説明しようとする脅迫は、合理主義的な世界の自己完結性、自足性を、ひとつの罠として、人間の意識とその生き方をその型の中に押し込める世界である』
『心の明晰さ、それは得にくく、恐怖を追い払う。しかし同時に自分を盲目にしてしまう。それは自分自身を疑うことをけっしてさせなくしてしまう』
『明晰さを無視して、見るためだけにそれを使い、じっと待って新しいステップに入るまえに注意深く考える。とくに自分の明晰さはほとんど間違いだと思わねばならない。そうすれば、自分の明晰さが目の前の一点にしか過ぎないことを理解するときがくる。』
『現実とは、もともとカッコに入ったものであること、このことを見る力が真の明晰である』
『目の独裁から全ての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。味わう、触れる。』
『焦点を合わせる見方においては、あらかじめ手持ちの枠組みに有るものだけが見える。自分の知っていることだけが見える』
『自分の力をためるための大事な一歩は、からだに【しないこと】をさせることだ』
『世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方、することを知ってるからだ。もしお前が、そうすることを知らなければ、世界は違っていただろう。世界を止めるためには、す���ことをやめねばならない』
『なんでも知ってるようにふるまうよりは、すべての物事をリアルとせず、そのやぶにウサギが隠れているか知らないほうがずっと素晴らしい』
『タバコを買うのに4時間もかけるというのは、市民的能率の常識からはばかげている。買い物に行く時間の意味が、タバコに向かって外在化されているのが近代の世界だからだ』
『行動の意味がその行動の結果へと外化してたてられるとき、それは行動そのものを意味深いものとするための媒介として把握された空虚なものとなる。生きることの意味がその何らかの成果へと外化してたてられるとき、この生活の目標は、生そのものを豊饒化するための媒介として把握され、意味がふたたび生きることに内在化するのでない限り、生それ自体はその意味を疎外された空虚なものになる』
『生活を意味へと疎外しないこと。生活が、外的な意味による支えを必要としないだけの、内的な密度をもたなくてはならない』
『会話は正しい情報を伝えるという目的よりも、その人にたいする共感と好意を表現するという価値が優先する。』
『言葉はその場その場の相手との関係において真実なのだ。ただ明日もそう思っているかどうかは本人にはわからない。人間の織り成す世界の全体がひとつの共同のまぼろしだとすれば、動かぬ真実という岩盤のありやなしにどれほどの意味があろうか』
『我々の周りには、世の中の大抵をくだらない、つまらない、おれはちっともおもしろくないという顔をしていて、いつも冷静で、理性的で、たえず分析し、還元し、君達はおもしろがっているけれど、こんなものは所詮●●にすぎないといった調子で、世界を脱色してしまう。そのような人にとって、世界と人生は退屈で無意味だ』
『また反対に、なんにでも旺盛な興味を示し、すぐに面白がり、人間や思想や事物に惚れっぽく、まわりの人がなんでもないと思っている事物に独創的な意味を見出し、どんなつまらぬ材料からでも豊潤な夢を繰り広げる者もいる』
『マルクスは現にある労働を、人間の生産的な活動の本来の姿ではなくて、疎外された労働としてとらえかえそうとしたのは、活動それ自体として生きることであることをやめ、所有することの単なる手段にまでおとしめられる構造をそこにみる』
『行動や関係の意味がこのように、【結果として手に入るもの】に向かって収奪されているという構造がとまらない限り、共同体はただ労働のための共同体になり、疎外労働となる』
『理解することは変わること』
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「人間の主観のおりなす世界の全体がひとつの共同のまぼろしだとすれば、「動かぬ真実」という岩盤のありやなしやにどれほどの意味があろうか。きららかな幸福と夢の波立つメンティーラの水面の上を、彼らはほんとうに身を入れて歌い、争い、約束し、求愛し、踊り、倒れるように眠る。」
国家や民族というものは時に哀しい程に脆く、時に驚異的に膨れ上がって現代の我々にのしかかってくるが、著者は自らの足で世界を歩き、自らの目で人間を見つめた。鮮やかな体験の描写がわれわれに美しい何かを、遠い時間の一点にそっと提示してくれる。
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「知者は“心のある道”を選ぶ。どんな道にせよ、知者は心のある道を旅する。」アメリカ原住民と諸大陸の民衆たちの、呼応する知の明晰と感性の豊饒と出会う
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人類学者カスタネダが紹介したメキシコ北部ヤキ族の老人(呪術師ドン・ファン)の生きる世界を題材にした比較社会学の本。文庫なのに900円しただけあって、とても面白い。
というか、本当にうまいこと言う。エポケーの概念も自分の思うところとフィットしていて違和感がない。が、どんなにうまいこと言われて明晰に理解をしても、頭で言語化する一方、書いて言語化して生きてきた自分としては、<明晰>に至るまでには非常に難しい。エポケーは非常に自分も影響された発見だったので、個人的にも「なんともうまいこと言う!(ドン・ファンが)」という台詞の連続なので、本読むの遅い自分が一気に3章まで読み進めるほど非常にエキサイティング。
以下に、本から特に影響を受けた一部を抜粋。
■世界を止める=メタ明晰について
http://amnesiac0511.tumblr.com/post/11210688719
http://amnesiac0511.tumblr.com/post/11210956494
■その他
http://amnesiac0511.tumblr.com/post/11211012219
http://amnesiac0511.tumblr.com/post/11211041990/1-1
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ネイティブの物事の捕らえ方の一端を社会的視点から俯瞰した書物。
目で見て記して学ぶ世界と、世界を静止させて在ることを感じる世界。
マンガ家の五十嵐大介の描く世界のようである。
実に面白かった!
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「人が世界はこういうものだぞ、とお前に教えてきた。人はわしらが生まれてきたときから世界はこういうものだと言い続ける。だから自然に教えらてきた世界以外の世界を見ようなぞという選択の余地はなくなっているんだ。」
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社会学者・見田宗介が変名である真木悠介名義で記した、比較社会学。本書は、カルロス・カスタネダがメキシコの部族社会で生きる呪術者、ドン・ファンの生き方を紹介した本を独自に会社くしていったものなのだが、ここで描かれているのは従来の社会学では把握しきれない、近代的な生活とは全く異なる世界の紹介だ。その中で、「恐怖」「明晰」「力」「老い」といった「乗り越えるべきもの」にどの様に対峙していくかの考察が主軸となっていく。
…まぁ、正直言って、超自然的なものを取り扱ったかなりギリギリな本ではある。実際、本書に挙げられているような70年代的な、ヒッピーイズムに基いたコミューンというのは消失しているし、そこから生まれた負の遺産は消えずにいる。しかし、そんな事が頭を過りながらも読了後の高揚感は決して消えるものではなかった。
それは、本書の主軸となるものが<土着的な生活>と<近代的な生活>の対立項であると同時に、決してそれが対立するものでも優劣が付くものでもないという事を科学的に見い出そうとする姿勢だからなのかもしれない。科学とは、狭い意味では近代的合理性に基いた考えの事を指すかもしれないが、レヴィ=ストロースが証明した様に一見非科学的なものから法則性を見い出し、それを近代的知性と同等に扱おうとする姿勢もまた科学なのだ。そう、本書は僕らを知らず知らずに縛り付けていた「近代の自明性」が何なのかを視覚化し、それを全否定する事もなく、足場まで崩さない範囲で、そっと解きほぐす。
近代的合理性に凝り固って視野を狭くするのでなく、超自然的なものに自らを委ねて遊離するのでもなく、その両者を視界に捉えながら進んでいく道がある。成功や敗北、空虚さといった意味に縛られる事なく、死という有限さを前にしても、それでも歩くに足る道はあるのだ。自分の歩く道を。自分の生活の物語を。
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「人間の根源的な欲求は、翼を持つことの欲求と、根を持つことの欲求だ。」(P167)
「〈根を持つことと翼を持つこと〉をひとつのものとする道はある。それは全世界をふるさととすることだ。」(P170)
中国語で言う所の、男子四海為海の概念か。
どこまでも根無し草として旅することは可能だけれど、
旅先でその場にしっかりと生活の基盤を気づいている人達を見ると。
無性に羨ましくなってしまうことが有った。
それからは、いつでもそのバランスに気を使いながら生きてきたように思う。
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理性からの覚醒剤としての幻覚サボテン
世界をカッコに入れること
図と地の反転
コントロールされた愚かさで他者と繋がる
万人が全世界を所有する
彩色の精神と脱色の精神
ライヒとマルクーゼ
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■気流の鳴る音
序 「共同体」のかなたへ
――コミューン構想のための比較社会学
I カラスの予言――人間主義の彼岸
II 「世界を止める」――〈明晰の罠〉からの解放
III 「統禦された愚」――意志を意志する
IV 「心のある道」――〈意味への疎外〉からの解放
結 根をもつことと翼をもつこと
■旅のノートから→もっと読みたい!仮に<旅エッセイ>と考えても、抜群の面白さ。
骨とまぼろし(メキシコ)
ファベーラの薔薇(ブラジル)
時間のない大陸(インド)
■交響するコミューン
彩色の精神と脱色の精神――近代合理主義の逆説
色即是空と空即是色――透徹の極の転回
生きることと所有すること――コミューン主義とはなにか
出会うことと支配すること――欲求の解放とはなにか
エロスとニルヴァーナ――始原への回帰と未踏への充溢
プロメテウスとディオニソス――われわれの「時」のきらめき
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当時読んでおくべきだった本を敢えて今更読んでいるのです。
そういうわけで、私の目から見れば真っ当で良質でも、最早エッセイにしか読めない。
なんちゅーか。
ようは人生論・生き方論として学んでしまっていた。
その背景にある分厚い教養や議論、それ以上に実証研究の積み重ねには指先すら触れることなく。
いや、だから人生論・生き方論としての学びは大きかったし、良かったと思うのです。「良識」てやつ、(但し知識としてではなく、態度として)は勉強させてもらったと思うし。
でもそこからどこに行くのでしょうね?てところで、
もはや読む本がない。
あるはずなのに、何を読めば良いのかわからない昨今でございます。
論文雑誌でも購読しますかねぇ?(まぁそれも教育課程から離れてしまっている今、何を目指して?ということになる。)
たぶん、リアル古典に行くか、完全に同時代研究を読みに行くかなんだろうなぁ。
(それこそ、古市さんとかチャーリーとかさ。)