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死について考えたこと | 11-24 | |
---|---|---|
法然と親鸞 | 25-54 | |
歴史小説家の視点 | 55-78 |
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紙の本
残念ながら、言わねばならぬ。
2003/11/17 23:48
3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:和田浦海岸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
司馬遼太郎さんが亡くなり、数ヶ月たった「週刊朝日」で、司馬遼太郎の未公開講演録の連載が始まります。それが、すぐ終るかと思いきや、2年半も続き。133回を数えました。その間に週刊朝日では「未公開講演録愛蔵版・司馬遼太郎が語る日本」が、増刊号としてつぎつぎと6冊刊行され。各巻の巻頭に20数ページ、司馬さん関連の写真入りで、それはそれは魅力があり楽しいものでした。
さて連載が終り。愛蔵版の増刊号も売り切れた頃。朝日新聞社から、新たに数冊の単行本となって出版されました。不思議に、題名が変更。ちょうど本が出た前後の頃。狂牛病の関連で、食品の不当表示が発覚して問題になったのでした。週刊朝日での題名「未公開講演録」が「全講演」とかわっておりました。この題名変更は間違いです。あきらかな不当表示。だれも、指摘される人がいなかったのでしょうか。このたびの文庫化に際しても同じ題名が踏襲されるようです。残念だなあ(単行本の際は、勇み足と笑ってられたのでしょうが)。
これから、この講演録が文庫になって、若い多くの人たちに読まれる。
そこにつけた題名の可笑しさを、今、指摘しておかないと、これからこの講演に、魅了されるだろう若い方々に、間違った題名刷り込みが幅を利かせることになる。新聞社も商売ですから、売るための不当表示は、商売につきもの。けれども、狂牛病での食品会社の不当表示を指摘する新聞社が、題名を偽っては、同じ穴のムジナ。
このくらいにして、余談を語ります。
講談社「近代日本の百冊を選ぶ」という5人の選者による話し合いと、百冊のリストが掲載された本が1994年に出ていました。その中の話を引用します。
山崎正和 : 福沢諭吉や馬場辰猪などが、日本に口語による演説というものを持ち込もうと思って努力した。しかし、司馬遼太郎さんによれば、日本語というのは本願寺の坊さんがお説教するのに向いた言葉であって、ついに演説をする言葉になりえなかったんですね。…
大岡信 : 口語というのは、文章語よりは時代を超えた普遍性があるのかもしれません。というのは、たとえば僕らは江戸時代の人とでもたぶん話せるだろうと思うんです。…そういう意味で言うと、明治に入って、和語と漢語を両方一緒にしていくという過程で非常に重要だったのは、話し言葉だと思うんです。…諭吉の『福翁自伝』や勝海舟の『氷川清話』はまさにそうだし、正岡子規の『病牀六尺』も最後のころはほとんど口述でした。…
森毅 : 話し言葉は時代を超えられるんですね。
もうひとつ引用させて下さい。
今年(2003年)の第二回小林秀雄賞は、岩井克人・吉本隆明のお二人でした。その選考委員・養老孟司の選評を紹介したかったのです。
「私にとって興味深かったのは、受賞作が二作ともに、著者の話を書き起こしたものになったことである。むろん意図的にそういう作品を選んだわけではなく、結果的にそうなったのだが、じつはだからこそ、それがきわめて印象的だった。お二人ともに、自身の筆で書かれた著作が多数ある。自分のことをいう場ではないが、私自身の著書『バカの壁』が同じ『語り起こし』であり、それがよく売れている。その背景には、『新しい口語文』への読者の要求があるのではないかと疑う。…当然ながら、文章という形式が書き手のものだけでなく、読者のものであることを痛感する。」
引用はこれで終り。
これからの時代、多くの若い人がこの講演録を読んでゆくことでしょう。
その道筋はもう、指し示されているように感じられます。
あっ。そういえば、小林秀雄賞は新潮社でした。
私に忘れられない司馬遼太郎の講演は、1996年雑誌「新潮45」5月号に掲載された「日本文化について」。残念ながら朝日新聞社の「司馬遼太郎全講演」にはありません。
紙の本
携帯電話の電源はお切り下さい
2003/11/02 22:28
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
(ゆっくりとホール全体の明かりが消えて、舞台中央に設けられた演台だけにスポットがあたる。そして、重々しい口調であるが、やや事務的でもある男性の声が、会場に静かに響きわたっていく…)
司馬遼太郎サンが亡くなってからもう七年になります。その間に司馬サンは決して忘れられることもなく、今でも多くのファンの皆さんに愛され続けています。むしろ今という時代に、司馬サンのおられないことがどれほど残念なことか、それは本日この会場にお集まりの皆さん全員の思いではないかと思います。それでも、こうして皆さんの前に、文庫本全五巻となった司馬サンの講演を紹介できるのは、うれしい限りです。この講演を通じ、国民的作家と言われた司馬サンが、どれほどにこの国を想い、その行く末を案じ続けたかということを、理解して頂きたいと思います。そして、司馬さんの後に続く日本人として、この国のことをもっともっと真剣に考えていきたいと思います。
今この国の自治体には、大層りっぱな市民ホールがあちらこちらに建っています。おそらく司馬サンもそういったホールで講演をされたこともあるにちがいありません。晩年にこの国の土地問題を大変心配されていた司馬サンは、小さな自治体にもりっぱなホールができていくことをどのように感じていたのでしょうか。<ふるさと創生>ということで全国の市町村に国から一億円ずつ配られたことがありました。そういったお金を使って、自分の身の丈以上のことをしてしまう。どうもそのあたりが日本人のつまらないところです。司馬サンは大変上品な方でしたから、正面きって文句はいわれなかったでしょうが、内心にがにがしく思われていたのではないでしょうか。
今回の第一巻では、一九六四年から七四年までの十年間に司馬サンがされた講演が収められています。冒頭の講演が「死について考えたこと」というのも、今となっては司馬サンからの深い謎かけであったように感じられます。長州のお膝元山口県で行なった「松陰の優しさ」や新潟県長岡市で話された「河井継之助を生んだ長岡」など読むと、司馬サンがどれほど優しい心で地元の人たちに接していたかがわかります。「松陰の優しさ」の最後に司馬サンはこうおっしゃって、講演を終えておられます。「ここ数年考えている話を聞いていただきました。たとえ私が忘れても、皆さんの記憶の中に残ってもらうことができればと思います」(196頁)これが、司馬サンの魅力です。
私の話が長くなりました。さっそく司馬サンの講演を聞きたいと思います。昔であれば、ご静聴お願いします、というところですが、今は多分こういうべきなのでしょう。携帯電話の電源はお切り下さい。では、司馬遼太郎サンに登場頂きます。
(静かに、そしてやがて大きく拍手が続く…)