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商品説明
【桑原武夫学芸賞(第7回)】大江健三郎、高橋源一郎、阿部和重らが試みる「テクスト論破り」の小説とは? なぜ金井美恵子、吉本ばなな、川上弘美は「商店街」を舞台に小説を書くの? 90年代以降に生まれた作品の新しさと面白さを講義形式で伝える。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
加藤 典洋
- 略歴
- 〈加藤典洋〉1948年山形県生まれ。文芸評論家。明治学院大学国際学部教授。「敗戦後論」で伊藤整文学賞を受賞。著書に「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」「戦後的思考」など。
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紙の本
現代小説の新しい読み方を講義してくれる書
2004/03/14 18:04
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:とみきち - この投稿者のレビュー一覧を見る
読みごたえのある一冊! 同時発売された『テクストから遠く離れて』のとっつきにくさに比べて、読みやすさも抜群。そして、その画期的な試みのすばらしさ。著者の意気込みは「前言」にこのように説明されている。
「…(略)…作品で作者が何を試みようとしたと、その作品が僕たち読者に語りかけてくることに着目し、いま、小説家がどういう問題にぶつかっているのかが、作品を知らないまま読んでもわかる、かつての文芸評論を復活させるつもりで…(略)…」(p11)
俎上に乗せられたのは、村上春樹、村上龍、川上弘美、保坂和志、江國香織、大江健三郎、高橋源一郎、阿部和重、伊藤比呂美、町田康、金井美恵子、吉本(現在よしもと)ばなな。
高橋源一郎は、本書に対する書評の中で「ありがたい、坑内に光を見た」と作家の立場で書いているが、他の作家たちの感想もぜひ聞いてみたいところだ。私は私で、読者の立場で全く同じ台詞を言いたい。自分の読んできた作家や作品については、時代性と絡めて整理し直すためのいい機会になり、まだ読んだことのない作家や作品については、今後読むときの手がかりとなる光を照らしてもらえたからである。
小説を小説として楽しむことを前提にしながら、「なぜ、今、この作品なのか」「作家は何を言いたかったのか」、そういう根元的な問いかけを持ちつつ読むことが大切で、そのための案内人として文芸評論家が存在すると著者は考えているようだ。時代の何がエポックメーキングとなり、作家にどのような影響を与えたのか。そうした社会的な状況に目を向けながら、あくまでも時代性の中で作品をとらえることを忘れずに、テクスト論から離れた「新しい読み方」を提示する。
それぞれの評論については、その作品の性格とともに、今後の作家の方向性(ひいては小説の未来)が見えやすく展開されているものもあるし、意外にもその作品の時代的な意味の説明に終わってしまっているものもある。しかし、これほどまでに個々の作品に寄り添って論じられた評論を読めば、小説好きな人なら、ますます小説が読みたいと思うだろうし、たまには小説を読んでみたいと思っても、何をどんなふうに読んだらいいか迷ってしまうという人にとっても、ヒントのたくさん詰まった、価値ある一冊であることは間違いない。
そして、著者の「小説」への信頼と「小説の未来」への希望が伝わってくる、とても前向きな書であることが、何よりも嬉しい。
紙の本
お猿の電車は大人になった僕には怖いですよ。乗らないで、ヤッパ、孤独に歩き続けるしか僕には能がない。
2004/01/31 19:23
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
小説をかように深読みすれば、読む事が苦痛になるのではないかと危惧するほど、今や死語となりつつある文芸評論家という足場で九十年以降の日本の文学シーンを俯瞰しながら、微視的に作家に寄り添い、ハードな授業を四年間続けたらしい。実際、無理が祟って二度倒れた。心身ともに自己鍛錬のシャワーを浴びて、『一冊の本』に一つ一つの作品について、「作品をダシにして別のことを語るというのではない」(僕などは別のことを語るために作品をダシにして不埒な振舞をしている。反省すべきなのでしょうか)、文芸評論家に相応しい場を用意してもらい、『現代小説論講義』という連載を始めた。それが本書のもとになったのである。全力投球、直球勝負したかの想いが伝わるが、同時発売した『テクストから遠く離れて』ともども、本格的文芸評論である。
著者のスタンスは最初に揚言されている。
《いまの文芸批評の多くが読み物であることを忌避し、病理解剖的になっていることを反省し、これとは違う、生きた対象としての小説に、いわば市井に生きる町医者として(中略)、鳥瞰的な作家論ではない、微視的な作品論というものが、いまではほとんどお目にかからないものになっています。あるのは、作品を一方的な素材としたテクスト論と呼ばれる批評ですが、そうではなく、作品で作者が何を試みようとしたと、その作品が僕たち読者に語りかけてくるところに着目し、いま、小説家がどういう問題にぶっつかっているのかが、作品を知らないまま読んでもわかる、かっての文芸評論を復活させるつもりで、やってみようと思います》
ここに紹介されている作家は、大江健三郎→金井美恵子→村上龍→村上春樹→高橋源一郎→よしもとばなな→町田康→伊藤比呂美→川上弘美→江國香織→保坂和志→阿部和重になり、興味がリンクしていくのだが、当初、タイトル「小説の未来」は「日本小説の未来」になっていたが、現代日本の小説は世界文学市場の中で前衛に位置し、別の国の文学においてはテクスト論批評で充分、賄いきれるが、現代日本の小説はそこから一歩溢れ出て、その、より高次の普遍性を強調するために日本の二文字を削除したらしい。現代日本の小説は、それほど、オリジナリティ溢れるものなのかと、素直に驚いてしまった。
このような批評の仕方を採用するとしたら、著者自身の哲学も顕在化する。そのことが本書を支える。それは、例えサリン事件、連合赤軍事件などというものがあったとしても、僕たちは超越に向かう稚拙な物語を紡ぐことを続けるべきなのです。というカミングアウトを引き出す。
彼方への超越的な欲望への回路を閉ざして、忍耐強く日常に身を浸して逃
げ続けるか、安上がりな歴史認識の更新の物語に居場所を見いだすのではなく、理想というものは素朴で稚拙なものだけど、人を超越的なものへの没入によって狭い見方しかできなくなることから救うのは、超越的なものから遠ざかるのではなくて、別の形での超越的なものとの回路を作り出すことなの
だ。そしてその回路は稚拙な装置でなくてはならない。水戸黄門的な物語でないと、力を持ち得ないということかと、何やら落とし穴に嵌りそうで躊躇してしまったが、著者は自問自答する。
《なぜ子供は、お猿の電車が好きなのか。なぜ、大人のしっかりした運転手さんの動かす電車ではなく、自分より危なっかしい、お猿さんの運転する電車に乗りたがるのか。ロマン主義、理想が人を動かすことの秘密は、ここに顔を見せています。/小説もまた、そこから自分の力を汲む。》
この辺、補助線として、庄司薫、野田秀樹、庵野秀明に言及するが、しかし、焦って乗車したお猿の電車が片道切符の特攻電車のならないように祈るだけだ。そうでなければ、六十年前の同じ愚行を繰り返すことになってしまう。
紙の本
読後感を言葉にすること
2004/04/10 17:44
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
加藤典洋編『村上春樹イエローページ』(荒地出版社:1996)を読んで、その小説解読の手際の鮮やかさと軽やかさと鋭さと深さと広がりにすっかり魅了され、いたく刺激を受け、興奮もし、作品論が上質のエンターテインメントになることをあらためて実地で体験した。(これとは違った味わいが記憶に残っているのは、村上春樹の『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋:1997)。そういえばたしか『イエローページ』の「パート2」が3月末頃に発売されるはずだったが、いまどうなっているのだろう。)
ほんのちょっとのことでいわゆる「謎本」のたぐいに墜ちてしまう(まあ、それはそれで、センスさえ良ければけっこう面白いのだが)ところを、ただ一点、小説を読んでいるときの心身のあり様と、読み終えたときのたしかな質感のようなものをけっして手放さず、小説体験の現場から批評=評論をつむぎだしていく、その方法論的一貫性があの読み物の真骨頂で、このことは──「いま書かれているさまざまな日本の同時代の小説を、僕という単一の平台の上に並べ、同じ物差しで測ってみて、とにもかくにも、同じ時代の作物であることの関連を回復しよう」と試みられた──本書においても頑固に貫かれている。
小説を読んで、ある感動を受け取る。何かが伝えられ、そして動かされる。そうした「読後感を言葉にする」こと。たとえば大江健三郎の『取り替え子[チェンジリング]』について、著者は「僕はこの小説を読んで、批評が一つの挑戦を受けているという感じをもちました。新しい読み方、批評の仕方を編み出さないと、こういう小説はうまくその読後感を取り出せないのです」と書いている。
このあっけないほどにシンプルな足場をしっかりとかためて再出発した文芸評論家・加藤典洋が、あの独特のねばねばした(癖になる)文体でもって解き明かす(1990年以降の)同時代小説の作品世界は、とにかく面白い。そこでは「一九九五年の骨折」(地下鉄サリン事件の衝撃ががもたらしたもの)と著者が呼ぶロマン主義的な超越への願望の禁止(階段落ち)から、超越的なものとのあらたな回路への希求へと向かう作品群が「八百屋の平台」(解剖台ではない)の上に旬の味わいと香りを際立たせながら並べられている。
これは余談だが、いまリクエスト復刊されたばかりのスピノザの『神学・政治論』を読んでいる。「聖書そのものから極めて明瞭に知り得ること以外のいかなることをも聖書について主張せず又さうしたこと以外のいかなることをも聖書の教へとして容認しないことにしよう」という緒言の方法宣言が、本書のそれと響き合っている。
紙の本
言葉にしづらい、新しい小説のてざわり
2004/02/14 20:14
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
加藤氏の試みは、文字通りの、現場主義。つまりは、現代小説の現場、しかも作家の側にたって、近年発表されて、これまでの批評言語ではすくいあげにくい作品の魅力を、作品の緻密な分析をとおして語ろうとしていく。
色濃く出される加糖氏独特の実感的「手触り」には共感できない面もあるが、川上弘美や保坂和志の「新しさ」をきっちり説明し得たのは、本書がはじめてではないだろうか。また、論じられる機会の少ない、高橋源一郎や伊藤比呂美を正面から取り上げたことの功績も忘れてはならない。さらには、阿部和重の『ニッポニアニッポン』の分析は、スリリングで、加藤氏のいう、現代小説の新しい一面をが、鮮やかに浮かび上がってくる。
いずれにせよ、本書を読んだ後では、これまで難解さや不思議さに包まれがちであった現代小説が、その魅力を取り戻して、われわれの前に現れてくえるのは確かであるし、取り上げられた小説を読みたくもなる。こういった好奇心を誘発する文芸批評が少ない今、加藤氏の仕事は、それだけでも特筆に値する労作と言うことになろう。
紙の本
目次
2004/01/23 10:35
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:bk1 - この投稿者のレビュー一覧を見る
I 「両村上」の時代の終わり
1 行く者と行かれる者の連帯——村上春樹『スプートニクの恋人』
2 七合目での下山——村上龍『希望の国のエクソダス』
II 九〇年代以降の小説家たち
3 「先生」から「センセイ」へ——川上弘美『センセイの鞄』
4 二重の底とポストモダン——保坂和志『季節の記憶』
5 通俗と反・反俗のはざま——江國香織『流しのしたの骨』
III 時代の突端の小説たち
6 生の「外側のその向こう」——大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』
7 言語・革命・セックス——高橋源一郎『日本文学盛衰史』
8 脱ポストモダンの小説へ——阿部和重『ニッポニアニッポン』
IV 新しい小説のさまざまな展開
9 その小さなもの(女性形)——伊藤比呂美『ラニーニャ』
10 「毎日ぶらぶら遊んで暮らしたい」——町田康『くっすん大黒』
11 想起される〈私〉で大人になること——金井美恵子『噂の娘』
V よしもとばななと一九九五年の骨折
12 なぜ小説はお猿の電車を選ぶのか——吉本ばなな『アムリタ』