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ピダハンはアマゾンに住む先住民族。著者はプロテスタントの伝道師として家族を連れてピダハンの村に入る。そこで著者が体験したことが紹介されている。
著者は、言語学者であり、本書の大半は伝道のことではなく、ピダハンの言語を習得することについて書かれている。
しかし、アホである。何故に家族で行くのか。奥さんと子供がマラリアにかかって死にそうになったりする。また、アメリカ人特有の脳天気さや自己中心さでたびたび危険な目にあっている。せめてもの救いは本人がそれを認識していることか。一応、異文化に触れて「もしかして俺達アメリカ人ってのは多人種からは横柄で嫌な奴と思われている?」くらいの空気は読めているようだ。
しかし、最もアホなのは布教活動なんて前時代的なことをしていることである。パクスアメリカーナなやつらはほんと自分たちの価値観は絶対だと思っているからな。しかし、最終章で著者は信仰心が
ゆらぎ、信仰を捨てることになる。ピダハンの影響で、だ。ピダハンすげー。
ピダハンは村のリーダーを持たず、特別な法律もないが、ちゃんと秩序を形成して平和に暮らしている。唯一の法は「追放」くらいなものだが、それもめったにない。原始共産制でもなければ、封建主義でもなければ、ましてや資本主義でもない。村のまとまりや結束力はあるが、縛られているわけでもなく、ごく自然にまとまっている。強大な危機や天敵もなく、生活を脅かすものがないからかもしれない。
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著者を伝道師から無神論者へと変えることになったピダハンの人々は実に興味深い。
"西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあると言えないだろうか。"
言語学の説明の部分がちょっと難しすぎたかな。
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アマゾンの奥地に住む原住民族をエスノグラフィ調査した記録の本です。
エスノグラフィを通じて文化や言語を習得していく過程が読めました。左右、数字、神などの概念がないかったり、あらゆる言語で表現できる「AのBのCのDのEの、、、」という表現(言語本能?)を持たないなど、独特の文化を持っており、非常におもしろかった。
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・ウウーアイーガイー(ピダハン語の真似)
・前半はアマゾンの奥地に踏み込んだ学者のフィールド・ノートとして非常に楽しんで読める内容。ピダハンの言語、生活様式、風俗など全てが驚きの連続。
・後半は言語学に更に踏み込んだ内容で難易度が高い。中でも印象的なのは、文化は言語によって作られるという箇所(受動態が多い言語の社会では物語自体が何かが発生しそれに巻き込まれると言う傾向が強い、など)。認識は学習される、これは実感としてあるなあと。結局借り物の英語を俺が話しても本当に英語環境で育った人たちとは認識を共有できないんじゃないか、というのが自分自身でも出しつつある結論なので。けど、だから外国語喋るのが面白いんだけれども。
・持ちすぎて窮屈になった我々現代人の生活と、全く持たずに幸せに過ごすピダハンの生活とどっちが素晴らしいか、みたいな話には興味は無い。それって結局ないものねだり(ピダハンは無い物ねだりをしないところがおそろしい)の一種だし、そうでないならヒッピーにでもなればいい。なので、「ああいいなあピダハン」ではなくて「おっもしれえなあピダハン」が自分の感想。
・今の日常がある中で小窓から覗く別世界、あるいは時折訪れてみる非日常が自分にとっては一番楽しいのです。
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以前、ボルネオ島の採集狩猟民「プナン」にまつわるフィールドワークからなるエッセイを読んだ。彼らの語彙にはありがとうもごめんなさいも無いとのことだったが、アマゾン川の支流のひとつマイシ流域に住む少数民族「ピダハン」たちの語彙にもきっと無いだろう。
自分たちの文化の尺度では測れないピダハンたちの文化と言語と思想、それを筆者は西洋的な文化的見地から理解しようとするのではなく、彼らの目線に沿って文化を学ぼうとする。その姿勢に感じ入った。ピダハンたちの生活の描写も生き生きとしていて、地球の裏側の彼らの営みに心ゆくまで思いはせることができた。
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ゆる言語学ラジオの紹介から
未知の言語の理解のプロセス、その中で体得したピダハン文化への理解、他の言語論との衝突、衝撃の終章
まさに目から鱗の連続だった。
文明文化への適応が人の悩みの源泉ではという著者の指摘はすごく納得するけれど、おいそれとその枠から出る勇気のない自分にとっての解はどこにあるのか。。
ただ、この一冊からも著者がいろいろありつつもピダハン同様生き生きと暮らしている雰囲気を感じ、これが本の力になっているのだと思う。ピダハン同様、直接体験に裏打ちされた力強さ
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半分ほど読んだところ。めちゃめちゃ面白い。
アガーピ(村人のひとり)がカオアーイーボーギー(精霊)のように話しているのを対面で確認したのに、翌日アガーピに聞くと全然心当たりがないように振る舞うのとか、コーホイビイーイヒーアイ(村人のひとり)がある日ティアーアバハイになって(改名して)いて「コーホイはここにはいない」と言ったりするのとか、何かこう自己同一性というものが全く重視されていなくて面白い。
もともと人間はこんな感じで暮らしていて、そのために解離という機能を持っているんじゃなかろうか、と思った。
読了。
先だって読んだ本ではカティ族には東西南北の考え方がないらしいということに驚いたけれど、ピダハンには左右という考え方もないらしかった。自分を基準に相対的に右、左というのではなく、周囲の地形を基準に例えば川の「上流の方、下流の方」という考え方。圧倒される。
著者がキリスト教の伝道師だったため、そちらの点でも面白かった。マジで信仰している人はこう思っているのかー、という興味深さ。ピダハンの文化で暮らす中でその価値観が揺れ、変化する様もつぶさに描かれていて最高だった。良い本。
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著者がアマゾンでピダハンと共に生活した日々はとても興味深く読めたが、本題の言語学についてのくだりになると、ちょっと専門的すぎて難しかった。
以前、ブータンが幸せな国であると報道されたが、ピダハンの人々の方がよほど幸せであるように感じられてならない。
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【はじめに】
ピダハンはアマゾンに暮らす原住民族である。本書は、言語学者で当時キリスト教伝道師であった著者が、足掛け30年以上ピダハンとともに暮らした経験をもとに、彼らの言葉と思考・行動について愛と敬意をもって綴ったものだ。
本書では、言語学的に貴重なピダハンの言語構造の話と、アマゾンで暮らすピダハン族の「哲学」、直接体験の原理、の話の大きく二つがテーマとされている。その二つは分かちがたく結びついているのだが、自分にとって、そしておそらく多くの人にとって、心に訴えかけるのは後者のピダハン族の「哲学」の方ではないだろうか。
いずれにせよ、われわれからして完全に異文化であるピダハンとの長期にわたる交流から得られた知見による記述は、言語学や人類学という範疇を越えて非常に貴重な記録であり、広く読まれるべき貴重な考察である。
【概要】
■ ピダハン語
「文化と言語はセットであり、だからこそ言語は守られる価値がある」
著者がピダハンの村に滞在した目的は、ピダハン語の研究とキリスト教の布教活動のためであった。そのうち、ピダハン語の習得は言語学者としての著者を大いに悩ませた。なぜならピダハン語が「度外れて独特な言語」であったからだ。
またさらに、著者はピダハン語を話す現地の部族民との間で、英語やポルトガル語を介した学習ができない、いわゆる「単一言語」環境での調査が必須であった。さらに、ピダハン語が声調言語であることから発音やヒアリングが難しいことが習得の困難さに輪をかけた。母音が3つ、子音が8つと音素が少ないので、単語が長くなりがちとなる。これだけでも相当に困難であるのだが、その上ピダハン語が現存する他のどの言語とも似ていない独特な言語であるため、難易度がさらに増したのである。具体的な例としては、比較級に相当する表現がなかったり、色を表す単語がないなど、当然あるだろうと考えていた表現がない。また、「すべての」や「それぞれの」や「あらゆる」などの数量詞が存在しないし、物を数えたり、計算をせず、数の概念もどうやらないらしく数を表す言葉もない。ピダハンの言語利用には、「こんにちは」や「さようなら」といった「交感的言語使用」が見られない。「ありがとう」や「ごめんなさい」に相当する言葉もない。言明は、情報を求めるもの(質問)、新しい情報と明言するもの(宣言)、命令のどれかしかない。さらに関係代名詞などのリカージョンを表現する文法が存在していない。
このことから、著者はチョムスキーの生成文法・普遍文法や、スティーブン・ピンカーの『言語を生み出す本能』の言語本能の存在を批判するようになる。著者の結論は、言語はチョムスキーの言うほどには互いに似ていない、ということだ。言い方を変えると、自分たちが知っている言語はたまたま似ているのであって、ピダハン語のようにまったく似ていない言語の存在もまた許されるということだ。また、著者は、言語上の文法や表現上の欠如は、文化的制約から来るものだとしており、チョムスキーの生成文法・普遍文法の概念を批判している。大御所のチョムスキーをここまで批判するのは、著者がよほど自信を持っているからに違いない。それは、長年のピダハン語の実地の研究から得た自信と自負というものだろう。
■ ピダハンの文化 ― 直接体験の原理
「人類すべてがそうであるように、ピダハンの語る意味も彼らの価値観、彼らの信念に厳しく制約されているのである」
ピダハン語を理解するためには、彼らの文化・価値観を共有することが必要となる。彼らの文化は、その言語と同じくわれわれの文化と似ていない。
「人々は経験していない出来事については語らない ―― 遠い過去のことも、未来のことも、あるいは空想の物語も」
ピダハンの文化は、「直接体験の原理」に根差している。彼らは、自らが直接体験をしたことか、話をしている相手が直接体験をしたことしか話題にすることがない。間接的な情報や空想に類することを話すことは文化的禁忌となっているとも考えられる。この原理が、言語を含めてピダハンの行動をも形作っているのである。
著者は次のようにまとめる。
「ピダハンの言語と文化は、直接的な体験でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。その制約とは、これまで深めてきた考えからすると、次のように要約できる。―― 叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる」
先に述べたようにピダハン語には数を表す言葉がないが、彼らに数の概念を教えようとしても、計算ができるようにならなかったどころか10まで数を数えることもできなかった。これをもってピダハンの知的水準が低いという結論を出すことも可能なのかもしれないが、著者はそのようには捉えない。彼らの直接体験の原理にしたがうと、直接的な実体験を超える抽象化された計算の概念を身につける理由がないのがその原因だと考えるのだ。また、ピダハン語には親族を表す言葉が非常に少ないという。それも、自分たちが直接知らない曽祖父の代や直接会うことのない遠い親族のことを語る必要がないことからくるものだと著者は考える。このように、ピダハンの言語は、彼らの文化に強く制約を受けているというのが著者の主張である。
また、ピダハンは外部の知識をなかなか採り入れない。カヌーの作り方を教えてもらいながらそれを一度は実際に作っても、次からは「作り方を知らない」と言って作らない。また、肉の保存方法(燻製や塩漬け)を知っていても、自分たちのために保存することもしない(ほかのアマゾンの先住民でそのような部族はほとんどありえないらしい)。食べ物にはあまりこだわらず、日に一度か多くても二度、ときには食べない日もある。これもまた、単純な見方をすれば、ピダハンが未開のままでいる原因であると解釈することも可能だが、著者はそれよりも未来のことよりもまず現在を大切にする彼らの文化を反映しているものだというのである。
性交に関する道徳もかなり柔軟で自由だ。多くのピダハンが、躊躇いなく多くのピダハンと性交する。特に満月の夜の歌と踊りの際にはいつもよりも奔放にさらに多くの異性と性交する。それは彼らの将来ではなく現在に重要性を置く文化にも由来してい���のではないかと考えられる。また、著者はこのように性交が非常に広く行われていることが、ピダハンの民族への帰属意識の強さのもとになっているのではないかと想定している。
ピダハンでは、将来を気に病んだりしないことが文化的価値になっており、将来よりも現在を大切にする。したがって、彼らは進歩を望んでいないし、想像もしない。これが、ピダハンが変わらない理由だという。そのことは、いわゆる文明社会に住む人間からは後進性のように映る。しかし、それは他方の価値観からの一方的な見方であり、単に価値観の違いだということもまた可能である。著者によると、ピダハンは穏やかであり、彼らの敵意が内部でもよそものにも向けられるのを感じたことがない。誰に対しても、たとえ子供のしつけにおいても、暴力は許されない。浮気をされても、怒りをあらわにすることがない。
著者も含めてピダハンと交流したものは口を揃えて次のように評価する ―― 「ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ」
■ キリスト教伝道師の物語
最初に述べたように、著者がピダハンと暮らし始めた理由のひとつは、キリスト教の伝道のためだ。著者はピダハンの人々に神の福音を伝えるためにその地に降り立ち、そのことを通して神の栄光を世界に広めるために来たのだった。ピダハン語の習得も、聖書の翻訳がその理由のひとつでもあった。
しかしながら、ピダハンは外国の思想哲学や技術を受け入れなかったのと同じように、ほとんどキリスト教を受け入れることがなかった。聖書をピダハン語に翻訳する作業がまったく上手くいかなかったのは、彼らの文化に昔起きた出来事を伝える必要がなく、したがってその言語にもそれを伝える手段がなかったからであった。それらは文化的に翻訳不可能で、文化的な原理において受け入れ不可能なものであった。
「ピダハンには、「見ることは信じること」であるばかりではなく、「信じることは見ること」でもある」
そもそも、誰も会ったことのないイエス・キリストなる人物が語った言葉を受け入れることは彼らの理解の範囲外のことでもあり、彼らの価値観からは愚かなこと以外のなにものでもなかった。直接体験の原理による制約によって、彼らは神話を受け入れず、キリスト教の信仰もまったく受け入れることはなかった。
ピダハンは、宗教的なことを信じない。絶対的なるものを信じない。それは、彼らには必要のないものであった。彼らは、「一度に一日づつ生きることの大切さを独自に発見している」。
「自分たちの目の凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ」
思えば、キリスト教の教義も聖書の言葉も非論理的なものであることには間違いなく、何でそんな昔生きていたのかもしれないおっさんの言うことをありがたがらないといけないのだという意見は、キリスト教徒の考えよりもよほど合理的だ。ましてや誰も見たこともない天国や地獄などを信じるのは頭がおかしいと考えるのは全く正当なことだと言える。
結果的に著者はキリスト教を捨て、布教活動をあきらめる��著者はキリスト教以上にピダハンの生き方に憧れと正統性を見出したのだ。一方でその結論は、布教活動を意義あるものとして一緒にピダハンの村に赴き、非文明的な生活に耐えてきた著者の家族にとっては、受け入れ難いことであったのは想像に難くない。結果として、離婚につながるのだが、著者の元妻がピダハンの思想に触れ、著者がそれを論理的に説明をしても、キリスト教を捨てることを受け入れることがなかったのだというのは、逆に不思議なことに思える。
■ ピダハンの死生観
本書を読んで、ピダハン語の分析や、ピダハンの直接体験の原理から来るさまざまな行動や考えにも深い驚きを覚えるのだが、それらの中でも大きく衝撃を受けるのは、ピダハンのその死生観である。
冒頭のプロローグを締める次の言葉は、本書を読み終えた後、再度読み返すと改めて深い意味を持っていることがわかる。
「ピダハンはわたしに、天国への期待や地獄への恐れをもたずに生と死と向き合い、微笑みながら大いなる淵源へと旅立つことの尊厳と、深い充足とを示してくれた。そうしたことをわたしはピダハンから教わり、生きているかぎり、彼らへの感謝の念をもちつづけるだろう」
赴任当初、家族がマラリアにかかったときにピダハンはそのことを知りながら、誰も助けようとせず、それが当然であるかのように振る舞われたことが、著者が強い衝撃を受けた経験として描かれている。それにも増して衝撃的なのは、母親を亡くして死にかけているピダハンの赤ん坊を見殺しにしたところだろう。母乳を飲むことができなくなり、衰弱した赤ん坊を、著者の家族はチューブでミルクを入れてやるなど必死で助けようとするが、手を離して父親に任せたとき、父親はアルコールを摂取させて殺してしまったのだ。彼らの判断では、もうその赤ん坊は助かる見込みがなく、著者の行為はいたずらに苦しみを長引かせているだけのように映ったのだろう。いやむしろ、苦しみがどうのというよりも、そのまま息を引き取ることが彼らの価値観として正しいことだと考えただけなのかもしれない。
「ピダハンはひとり残らず、近親者の死を目の当たりにしている。愛する者の亡骸をその目で見、その手で触れ、家の周りの森に埋葬してきたのだ。... ピダハンの生活に、死がのんびりと腰を落ち着ける余地はない」
ここで思い出したのは、同じくアマゾンの原住民をNHKが取材した『ヤノマミ』である。『ヤノマミ』では、生まれてきた嬰児を母親が殺す場面がある。NHKスペシャルの放送でも触れられた衝撃的なシーンだが、そこには苦しみを長引かせないためであるというような理屈もない。母親が嬰児を殺す理由も明かされないし、われわれの理解を拒む。彼らにとって、そしておそらくはわれわれ現代人にとっても、人は理由もなく死ぬものだし、人が死ぬことは正しく正常なことなのだ。
「ピダハンたちには、西洋人が彼らの二倍近くも長生きできると見込んでいることなど、知る由もない。見込んでいるどころか、それが権利だと考えているくらいだ」
われわれは、あまりにも命を大事にしすぎているのかもしれない。どうせ死んでしまうのに。
【所感】
著者はこう書く ――「自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば」
こうやって本に書かれ、そして翻訳されることがなければ、日本に住む自分がここに書かれたことに触れることはなかっただろう。それだけでも読書体験というのは素晴らしい。そう書くと、文字を持たないピダハンのことを下に見ることになってしまうのではないかという懸念もある。著者は、ピダハンが遅れた未開の民であるとすることを拒絶する。著者のガイドなく、ピダハン語の特徴やその外部の技術や知識を受け入れない態度について聞くと、単純に彼らは未開な部族であると結論づけていたかもしれない。しかし、それは集団としての価値観の違いであって、将来を気に病むことがなく、伝聞を拒否する文化であれば、そして彼らの死生観を受け入れることができたのであれば、文字や文明はまったく必要のないものだ。
言うまでもなく、人類がここまで地球上で繁栄をしてきたのは文明化のおかげである。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』、マット・リドレーの『繁栄』、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』などでも人類史におけるいくつかの革新を描いている。競争と成長の原理が、規模の拡大を押しすすめて繁栄を支えてきた。その現代文明的価値観は世界のほとんどに行き渡り、いまや当然のものとされている。SDGsなどで修正は加えられることはあっても原則的な価値は変わることがないだろう。しかし、この本を読んで、もしかしたらそうではない文化的価値観も成長と平均寿命を諦めれば持続可能なものとして成立しうるのではないかと思った。ピダハンの存在はその証左である。われわれが今持っている価値観は倫理的にも論理的にも絶対ではないということを知らしめてくれる。
想像するにピダハンの文化と価値観は、古来ずっと続いてきたものではなく、どこかで大きく変わったのだという可能性もあるのではないかと思った。彼らは、昔は他の部族と同じように創生神話を持ち、成長に向けて将来を考え、抽象的なことを考え、そして争いと苦悩とを抱えていたかもしれない。そういった中で、争いと苦悩とを克服するためにあるときから直接体験の原理が積極的に選び取られたものとなったということも考えられないだろうか。幸せを手に入れるためにあえて皆で利便性や成長とそして部族としての記憶を自ら捨てるのだ。そして、それがピダハン部族の信ずるところとなったということはないだろうか。他の部族がほぼ例外なく創生神話や他部族や西洋技術を容易に受容してしまうのに対してピダハンがそれを受け入れることがめったにないことは、彼らが無知で未開であるのではなく、あえてその道を集団として選んでいることを逆に示しているのではないか。
もちろん、ピダハンの文化が成立するためには、まずピダハンの部族の全員がその文化を信じてそれに沿って行動することが必要条件となる。抜け駆けや心変わりは許されない。また、外部の変化は拒否されなくてはならない。部族の外部の人間は「仲間」とは異なるものである。そうであるがゆえに、憧れや嫉妬の対象とはならないのだ。そのことを考えると、ピダハンの文化が成立するための条件は、かなり不安定なものと言えるのかもしれない。
この後の人生をピダハンのように生きたいと思うものではないし、文明化された世界に生きるものたちにはそのように思うことももはや許されない。それでも、自分の生きている社会の価値観が必ずしも絶対的なものではないということを理解することは必要なことではないにしても、努力をして理解する価値があることのように思う。そして、その上で敢えて今の価値観を選んでいるのだということを意識するべきことのように思うのだ。
決して易しい本だとは思わないが、読まれるべき本。少し前に出版された本だが、ずっとKindle化されなかったので、手にとって読むまでに時間がかかったが、読んでよかった。
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『ヤノマミ』(国分拓)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4140814098
『ノモレ』(国分拓)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4103519614
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新聞の書評で見かけて面白そうだと借りてみたが、期待以上だった。
アマゾンの奥地に住む民族「ピダハン」にキリスト教伝道のため入り込んだ著者。もともと言語学者でもあり、聖書をピダハン語に翻訳する、という目標もあったようだ。
まず、現代日本やもちろん著者の国アメリカからは想像だにできないような苛酷なジャングルの暮らしに、伝道のために家族で(幼い子供を3人連れて)飛びこむというそのエネルギーに仰天。
著者の学者としての探究心とか、奥さんがそういう未開の暮らしをいとわない成育環境にあったというのも大きな要因だったとは思うが、私のような信仰心皆無の人間からは、まずもって信じがたい。
学術的な記述ももちろんあるが、半分はピダハンとの暮らしのなかで繰り広げられる数々のエピソードで、これがまた驚くべきというか、非常にユーモラスというか、信じられないというか。
ピダハンの人々の、徹底した自分たちの文化への誇りと、生きることへの真摯さと、何ものにも惑わされない信念に溢れたエピソードが満載なのだ。
陳腐なのを承知で言えば、とにかく面白い。
そして、いかに現代文明に生きる人々が、知らず知らずのうちに自分たちの文化を最良とし、少数民族に押し付けようとする傲慢さの中にいるかということも思い知らされる。
それをはねつけるピダハンの人々の逞しさ、清々しさといったら、痛快なことこの上ない。
なんと、著者はそもそも伝道が目的であったはずが、彼らと共に暮らすにつれ、とうとう信仰を捨ててしまったという(ついでに家族とも訣別してしまったらしいが)。
最終章で語られるその著者の気持ちの変化は、非常によく理解できるというか、納得がいくというか…私のような、特段の信仰心を持たない日本人には、きっと得心がいくのではないだろうか。
反面、キリスト教や、篤い信仰心を持つ人々からは驚くべき信じられないような告白なのだろうと思うと、文化や信仰、生まれ育った環境の違いがもたらすものの大きさについて、考えずにはいられない。
文化が言語やその文法に及ぼす影響について、ピダハン研究を通して、それまでの言語学の通説を覆すほどの大きな議論になっているらしいが、学術的な側面は私にはよくわからない。
それでも、私のように単に体験記のように読んだとしても、とにかく胸躍る、エキサイティングな、わくわくする、本当に楽しめる、素晴らしい傑作です。
星10コ付けたいくらい。
多分、私が今までに読んだ本の中で、間違いなくベスト3に入る。
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言語学者の著者が、アマゾンの原住民族から言葉と哲学学んだ記録。言葉というのはその人の生きる世界を表していて、知れば知るほど面白いものだなと思う。世界の捉え方はひとつじゃなくて、どちらが正しいと決めつけることなんてできないから、色んな見え方感じ方、角度があるんだと知るのは大切だなぁ
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書籍の読後感に、
これだけの沈黙と狼狽を同時に感じせしめるというのは非常に稀で、
ここに記す今も、その整理は全くできていない。
全き環社会が存在し、そこに住む者が皆笑顔にあふれているのならば、進歩や他者の概念すらそこに介入する余地はなく、またその必要がない。
人間がとるべき行動は、環境によって規定されるというよりも、環境がそれを要求する。
文化とは相対的なもので、善悪の価値は文化による。そして文化とは土地であり、土地とは自然の環境だ。自然の環境とはすなわち、循環を指す。
進歩とは後進的な社会においてのみ発生する事象。不完全なところにのみ概念は存在する。
個性や創造性も、上記に並ぶ。
普遍があるとすれば、土地にあるのであって、全き世界に普遍の真理など存在しない。世界とは本来自分自身の見える世界である。
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我々の認知と彼(ピダハン)の認知のあまりの違いに驚いた。
言葉や習慣の違い、考え方の違いでは、
説明のつかない脳構造の差のようなものを感じる。
このピダハンなど少数民族の研究がもっと進めば、
幸福になれるヒントみたいなものに近づける気がする。
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「「つながり」の進化生物学」で紹介されていて興味を抱き読んでみた。
言語学者であり伝道者である著者が、アマゾン奥地の少数民族とともに暮らしながら消滅危機言語にある彼らの言語について研究した記録。面白かった。生活や民族性の描写には以前読んだ「ヤノマミ」「ノモレ」を思い出しつつ、彼らの考え方や精神世界が言語という切り口から明らかになっていくのはとても興味深くて、目からウロコが何度も落ちた。
ただ、後半の言語学の専門的な部分が不勉強な身には難しかったことと、いかにもな翻訳口調が慣れなくてなかなか読み進まなかった。
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キリスト教の(元)伝道師にして言語学者の著者が、類稀なる言語と文化を有するアマゾンの少数民族のコミュニティーで経験したことを通じて記された書で、読む前はもう少し言語学や文化人類学に寄ったアカデミックな内容なのかな、と思っていたが、とっつきやすさを優先したのか、著者一家がアマゾン生活の中で味わったトラブルや感想など、随筆的なところにも結構な割合の紙幅が割かれていた。
裏を返せば、学究の徒が気合いを入れて読むと、少し肩を透かされるかも。
といっても、素人が読む分には充分にピダハン語が持つ特異性には惹きつけられるし、言語というものは、哲学などでいうところの合理主義的な"言語本能"にすべて拠って生まれるのではなくて、文化や環境に従って形作られる部分も大いにある、という、いわば至極当然とも言うべき理論が腑に落ちる。
終始強い興味を失うことなく読了することができたが、個人的には「ヤノマミ」ほどのインパクトを受けることはなかった。
が、ヤノマミ同様、ピダハンにとっても大切なものは"過去"や"未来"ではなくて、ただただ"今"なのだ、ということはよく分かり、それは換言すれば生物としての本能に基づいた欲求にこそ正直に従っている結果なのだろうと思う。
だから、これもヤノマミ族と同じく、ピダハンにとっての"個"の死は先進国に住む我々のそれとはまったく意味を異にし、そこに著者および私たち読者はそこはかとない"恐怖"を感じるのだろう。
そして、逆説的になるが、ピダハンという少数民族の個性よりも、自分たちの価値観こそが世界の中心であると思い込んでいるアメリカ人の性質の方が、読後に改めて強く印象に残るのであった。
著者のダニエル・エヴェレット氏はアマゾンで生活を続けるうちに、そうした自己内のアングロサクソニズムが崩壊に至ったようだが、そちらのプロセスにも興味を覚える。