紙の本
自殺は何が何でも避けるべし、いわんや自然死など・・・
2012/08/27 00:17
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投稿者:Fukusuke55 - この投稿者のレビュー一覧を見る
1975年、そう今から37年前。「文藝春秋」に掲載された論文が、昨年あたりから注目され始め、今年の5月に新書として補論、解説とともに再版されたのが本書。
バブルもバブル崩壊も、阪神淡路大震災も、オウム事件も、インターネットも、政権交代も、東日本大震災も・・・これらがすべて起きる前。ここで繰り広げられている議論は、不思議なくらい色褪せていない。
「自殺」とは何を意味しているか、それはすなわち自らが命を絶つ「内側からの崩壊」のことです。
「危機は実は資源の制約、環境の制約などのなかにあるのではなくて、日本人の魂と社会制約の深部にこそあるのである。」(p.47)
私が、これこそ至言と思ったのはオランダの文化史家ホイジンガのピュアリズムについて触れたところで、ちょっと長いですが引用します。「思考力、判断力の全般的衰弱と幼稚化傾向」についてです。読めばハッとするはず。
(幼稚化した精神状況を特徴づけるものは)「適切なことと適切ではないことを見分ける感情の欠落、他人および他人の意見を尊重する配慮の欠如、個人の尊厳の無視、自分自身のことに対する過大な関心である。判断力と批判意欲の衰弱がその基礎にある。このなかば自ら選びとった昏迷の状態に、大衆は非常な居心地のよさを感じている。ひとたび倫理的確信のブレーキがゆるむや、いついかなる瞬間にも危険きわまりないものとなりうる状況がここにある」。(p.78-79)
ローマの衰退を例にとりながら、社会の中に自壊作用のメカニズムが働いており、このメカニズムを除去しないかぎりは、ローマ同様自殺してしまうであろうという著者たちの「予言」が、37年後の今、私たちの目の前で顕在化し始めています。
巻末に、中野剛志さん、福田和也さん、山内昌之さんという論客たちの解説が載っており、同時代を生きてい読者たちに、厳しい問いを突き付けます。
中野さんは、これまでの著作で繰り返し語ってきた「大衆化社会化状況」について、相変わらず厳しい論調で警告を発し、福田さんは「今の日本は「自殺」するだけの勢いもなく、衰えた末に「自然死」してしまうのではないか」と諦観の念さえ滲ませているのでした。
このような日本にしたわれわれ大人は、今、なにをなすべきか!
ここ数か月、私にとっての大きなテーマであるのです・・・。
紙の本
日本の自殺
2015/08/28 09:30
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投稿者:パパママ香港 - この投稿者のレビュー一覧を見る
過去に栄えた文明が滅んでいく過程を、日本の現状に照らし合わせ、いかにそれが、日本の現状と類似しているかを詳細に分かり易く説明している。特にローマの盛衰との比較が秀逸である。
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情報化時代の問題、日本はどうしてこうなってしまったのか、というが、今の日本はそれなりに立派なものだと思う。
パンとサーカス、上等ではないか。世界にはそれすらありつけられない国、人がいるのだ。
だいたい庶民が余計なことを考えるような国だとギリシャみたいになる。哲学者なんてたくさんいちゃ駄目なんだよ。
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今年3月の文芸春秋に再掲載されて話題になっている1975年に「グループ一九八四年」によって書かれた論文。
37年も前に書かれたものであるのに、まるで今の日本に向けて書いているかのようです。
ギリシア・ローマ帝国滅亡と日本の政治的・経済的・社会的・文化的没落
の危機が類似していると指摘。
キーワードは、「パンとサーカス」の要求。
長くなるので、内容は、ここに書かないけれど、興味深くサクサク読むことができるので、多くの人に読んでもらいたいなと思える1冊。
それにしても、37年前にこの論文が書かれていたということは、実に、日本人として誇らしいと思う一方で、37年前に、このようなことが指摘されていたのに、37年後「まさに今の日本ではないか!」と話題になっている現代日本人は、あまりにもおめでたすぎるのではないでしょうか。
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1975年、既に現在の政治の低迷、衆愚政治を予言。
『失敗の本質』も合わせ読み、日本は良いリーダーを育まないのか!
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ローマ帝国の「自壊」のプロセス。キーワードは「パンとサーカス」。
豊かな暮らしを享受している国民が、「目の前の刹那的な快楽にばかり目を引かれて自分の頭で考えることができなくなった」結果、勤労などの義務も果たさずに、ただその権利(パンをくれ、サーカスを見せろ)だけを主張するようになる。為政者側もエリート意識を失い「衆愚政治」に陥って、大衆化した国民を諌めることも無く、ただ彼らの要求に応え人気を得ることだけにまい進する。結果、経済的にはスタグフレーション(不況下のインフレーション)が「賃金コスト上昇×生産性低下=付加価値を伴わないコスト上昇」により発生する。
翻って、日本でも同様のことが?
筆者の指摘する日本における「スタグフレーションの兆候」は、①資源エネルギーの輸入依存、②環境コスト上昇、③賃金コストの上昇であり、当然現在の日本にも同様の課題はあるのだが、現在の日本は「インフレ」ではなく「デフレ」となっている。今の日本はお金もあふれているが、それ以上にモノがあふれている。この本の想定と現状が異なっている大きなポイントが「グローバル化」であり「円高」、その結果として産まれた「海外製品の大量流入」だろう。
それはさておき、日本の社会は、いや地球全体の社会は、先人たちの活躍によって、豊かになり、便利になり、快適になった。それはそれで悪い事ではないのだが、それを「当たり前のもの」と勘違いしてしまうと、「それらが一体何によって実現されているのか」、或いは「それらを維持するために何が必要なのか」「もっと進展させるにはどうしたらいいか」といったことを考えが至らなくなってしまう。「インプット」(原因)を忘れて「アウトプット」(結果)だけを求める(例えば「ひきこもり」や「アダルトチルドレン」になって、ただ親の家に寄生し続ける、或いは「原発は嫌だ嫌だ」と言って、一方で「増税にも反対」する)ようになってしまう。この「甘えの構造」的な精神状態が、諸悪の根源だ、というのが本書の主張の幹たる部分である。
とは言え、現実には、世の中には豊かさが溢れている。「押しボタン式」な機能製品で溢れている。この状況に於いては、誰もが「これが当たり前」という精神状態に陥ってしまうのだろうか。過去から、人間は豊かさや便利さを求めてきたし、それはいつの時代でも基本的に前進してきた。その時代の人にとってみれば「今が一番便利」だったはずだが、それでも「当たり前だからもういいや」とはならず、「もっともっと」と、進化は止まなかった。人間の欲望の凄まじさである。その点は、悲観する必要はないように思う。****
要は、いつの時代も現状を当たり前なものと受け入れて親世代の惰性でしか生きられないダメな子供やダメな国民はいるものだか、ダメな子供には厳しい親が、ダメな国民には厳しいエリートが、現実をきちんと認識させる必要がある、ということなのだろう。親が子に、為政者が国民に迎合してしまうと、そのサイクルが崩れて社会は自壊へと向かってしまう。
但し、今の日本に言える事は、「この国がなくなるかもしれない」という危機感に乏しいこと���ある。或いは、そういう危機感もとに立ちあがる人材に乏しい事である。現代の日本人には、精神的には何処か「鎖国」したような心持があって、国際的なニュースを「おれたちには関係ないや」と、どこか「蚊帳の外」から眺めている風情がある。それはまさしくあの第二次世界大戦と、その後の「平和主義」を掲げ、日米同盟の下で「骨抜き」にされた「戦後日本」の産物なのだと思う。
祖父の世代は世界大戦に兵士として赴いた。父の世代は、その厳格な祖父の世代、「国体」から敗戦後瞬時に「転向」した祖父の世代に反発し、安全保障や外交面、要は「戦争の記憶」からは一定の距離を置いた中で、結果的に経済的な成長を第一に求めて必死に頑張って来た。そして彼らは、「おれたちは頑張った。子供の世代には少し楽をさせてやりたいものだ。父のような厳格な家長像など真っ平だ。おれたちは父から何もしてもらえなくてもここまで自分の力でやって来たのだから、あえて子供に教育を施す必要もないだろう」という態度で子供に接した。「やさしい父」であり、「仕事優先の父」像であった。そして、その社会での厳しさをあえて子に教えることはしなかった。戦争や外交、安全保障などについては、話題にすらしなかった。
子の世代に起こったのは、「歴史の終わり」だった。自らがよってたつ社会構造そのものは「元からあったもの」「誰かが提供してくれるもの」であり、「批判」や「愚痴」の対象であっても「自らが作っていくもの」ではない。政治や社会には無関心或いは「何でもかんでも批判的」で、ただ経済的には(親ほどではないにしても)、「相対的に悪くない」ポジションを保つことばかりを考えている。
こういう「甘えた日本人」「アダルトチルドレンな日本人」の再生産を少しでも減らしていかなくてはいけない。ただでさえ人口が減少している中で、歩留まりを上げていかなくてはいけない。
もう一点、大きな潮流の原因となっているのが「ソーシャルネットワークサービス」である。「レジャー化」する人間は「無駄だけど楽しい体験」(つまりは「平日体験」ではなく「休日体験」)ばかりを追い求めるわけだが、SNS(特にmixyやfacebook)はまさに「休日体験」の「発表と共有」の場であり、自分の体験だけでなく、他人の体験をも(‘いいね!’や‘RT’によって)「追体験」することで「レジャーの波」は加速度的に高まっていく。つぶやくために休日体験を積み上げ、他人の体験を「追体験」するのにも忙しく、まじめに「平日体験」を考え進める時間すら失われていく。
匿名のtwitterに関しては「平日体験」に関する議論を架空の場ではあるが行えるという点ではまだマシで、実名で「当たり障りのない」休日体験を雪だるま式に共有化していくfaceboookはとても危ないツールだと考えている。
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【読書その81】1975年の文芸春秋に掲載された匿名のグループ「グループ1984」の論文「日本の自殺」。発表から47年経過した今年、朝日新聞の主筆である若宮啓文氏が朝刊でとりあげられ、再度注目されている。この論文では、ローマ帝国をはじめとする多くの文明で、国民が利己的な欲求の追及に没頭し、難局を自らの力で解決することを放棄し、しかも指導者たちが大衆迎合主義に走ったときに国家が自殺するという。つまり、あらゆる文明が外からの攻撃ではなく、内部からの社会的崩壊によって破滅するというものである。47年たっても、この論文で書かれるものは示唆に富むものである。
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文明は内部から壊れてゆく。かつて栄華を誇ったローマ帝国も「パンとサーカス」に明け暮れる国民の堕落によって滅びた。そして先進国となった日本にも内部崩壊の危機が訪れている…。
この『日本の自殺』が文藝春秋に掲載された当時(1975年)よりも、現在の日本の方が内部崩壊の危機は高まっていると思う。生活保護費での遊行、「経済成長なんていらない」という無責任な主張、耳触りの良い政策ばかりを実行する政治家等々。権利ばかりを主張する国民と彼らに迎合する政治家によって日本は自殺させられるかも知れない。
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衝撃的なタイトルに惹かれて購入。
本書は、1975年に「文芸春秋」紙上に掲載された論文である。
2012年5月に新書として出版した文芸春秋社の決断の素晴らしさもさることながら、本書の内容が全く色あせていないことに驚いた。
まず、冒頭の諸文明の没落の原因についてであるが、
『諸文明の没落の原因を探り求めて、われわれの到達した結論は、あらゆる文明が外からの攻撃によってではなく、内部からの社会的崩壊によって破滅するという基本命題であった。〜中略〜それは根本的には魂の分裂と社会の崩壊による自己決定能力の喪失にこそある』
鋭い右ストレートをまともに喰らった 様な衝撃を受けた。
この論点を補足する意味で、古代のローマ帝国やギリシャについてその没落過程を解説する。
そして、日本の未来を予言的に言い当てる一文。
『やがては日本の国民大衆を遊民化し、その家族や伝統的共同体を解体して大衆社会化状況を作り出し、エゴ、悪平等主義、活力なき福祉、怠慢そして画一的な全体主義のなかに社会を解体させていくことになるかもしれないのである。』
続いて、戦後の民主主義を「疑似民主主義」として、本来の民主主義と異質な者としての理論展開を行う。
疑似民主主義の兆候は、その画一的、一元的、全体主義的性向であるとし、その徴候が、多数決原理の誤った認識の仕方に示されているという。
本書では、
『真の民主主義の本質のひとつは、多元主義の承認である。ところが、疑似民主主義は本来、多元主義のための一時的、かつきわめて限定された調整のための手段、便法として工夫された多数決を一元主義、画一主義、全体主義のための武器に巧妙に転用するのである。こうして多数決の決定は、疑似民主主義の支配する集団のなかでしばしば村八分のための踏み絵のような役割すら果たし、多様なものの見方の存在を否定する方向で作用することになる。』
といったように、世論調査などの多数の支持を得たような正義をふりかざして一元的な考え方を強引に押し進めるやりかたへの警鐘ともとれる。
そして、最後には歴史から得られる教訓として、
「国際的にせよ、国内的にせよ、国民みずからのことはみずからの力で解決するという自立の精神と気概を失うとき、その国家社会は滅亡するほかはないということである。福祉の代償の恐ろしさはこの点にある。」
と締めくくる。
2012時点でのホットな話題を1975年に展開していたのは驚きであった。
また、ローマ帝国の崩壊につながった「主食を海外へ依存」については、TPPで揺れる現在に対して、圧倒的な説得力をもってその愚策を否定している。
読んでいる最中、何度も現代に書かれた論文のような錯覚にとらわれるほど、現代性に富んでおり、今読むべき新書といった感想を持ちました。
国内の政治的混乱や政策的な欠陥に憤慨されている方にはオススメの一冊です。
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『日本の自殺』は「グループ一九八四年」と呼ばれる匿名の学者集団が、1975年『文芸春秋』に発表した論文の一つ(香山健一氏単独での執筆との指摘もある)。
文明は内部から崩壊するという基本的命題を提示した上で、ローマ文明の崩壊のプロセスになぞらえて日本社会の崩壊を指摘している。
「豊かさの代償」「幼稚化と野蛮化」「情報汚染」などの自壊作用はどれも示唆に富んでいて、むしろ現在問題とされるであろうトピックばかりだ。
人々が自分で考え判断していく力を失ったとき、社会は生命力を失い自壊に進んでいく。自己決定する力を奪われてはいけないと改めて認識させられる内容だった。
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平成22年最後の読了本。
昭和50年に公にされていたなんてすごい。再読必至だ。
■諸文明の没落は,「魂の分裂」と「社会の崩壊」による「自己決定能力の喪失」にこそある。過去の殆どすべての没落した文明は,外敵の侵入,征服,支配などの前に自分自身の行為の前に挫折。
■ローマの没落はローマの繁栄の絶頂期に始まっていた。
■ローマの滅亡
▸欲望の肥大化,労働を忘れ消費と娯楽レジャーに明け暮れた繁栄の代償
▸各地から流入する人口により適正規模を超えた膨張によるコミュニティの崩壊。巨大都市象皮病。
▸パンとサーカスの要求 ~無料のパン,競技・娯楽に関わる公共施設
■大衆迎合主義の中に自信と責任を失って崩壊し大衆の思考力,判断力は目に見えて衰退・低下し,社会は「自己決定能力」を喪失していく
■「パンとサーカス」と自制なき権利を要求して活力なき「福祉国家」,怠慢な「レジャー社会」への道をたどるとき,社会は衰弱していく運命を辿る。
■家族の解体と悪平等主義
■カタストロフを考えようともしない日本人の国民性は長所ともなるが致命的な短所ともなる。
▸資源・エネルギーの厳しい制約
▸環境コストの上昇
▸労働力需給の逼迫と賃金コストの上昇
■豊かさの代償
▸無気力,無感動,無責任
▸自制心,克己心,忍耐力,持続力のない青少年が大量生産される
▸伝統文化の破壊を通じて日本人のコア・パーソナリティを崩壊させ倫理観を麻痺させ,日本人の精神生活を解体
■幼稚化と野蛮化
■あまりに組織されすぎた世界に生まれ,その中で便宜だけを見出し,危険を感じないタイプの人間は,ふざけて暮らすよりほかに行動できない。
※メモ整理中
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1970年代の論文のリバイバル。ローマ帝国の衰亡を教訓に、1980年代の日本の没落を予想。大衆迎合主義が、文明を滅ぼす。どうも、1970年代から今日にいたるまで、日本は衰亡の過程をたどっているようだ。
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インド出張に来られた先輩が読んでおり、
それ以後ずっと気になっていた本著をやっと読むことができました。
執筆された時期が70年代であり、
帯に書かれているように、
すべてが現在を言い当てているとは言い難いですが、
情報化社会の弊害、「パンとサーカス」の考察など、
多くの箇所において、現在の日本にも通じる指摘があり、非常に興味深く、
また過去の日本人より自身への問いかけを受けているような錯覚をもたらす一冊でした。
すべての方に「お勧めです!」とは言えないですが、
他の方の感想が聞きたいと思う一冊です。
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確かにバブル期以前からこれだけの予言をするのはすごいけれども、全くといっていいほど根拠と解決策が語られていない。
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何となく抱く危機感、それは大小あるとは思うけれど読み手が属する組織で何らかの形で感じている問題意識が可視化されており紛糾間違いなし。
一方、30年経っても変わらぬ課題が存在していることが、時代は繰り返すのだということが、その危機感が諦めや楽観になる。