紙の本
國分功一郎「僕はこの本で自由という言葉を強調したかった」
2018/06/05 15:22
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
能動/受動という自明の二項対立に留まらない、失われた中動態を読み解くことで、生権力の打開を暗示する好著。「ものを考える」という時に起こっているのは、人間が考えるということではなくて、人間の精神の中で観念が次々につながっていくということ。「本人の意志や、やる気ではどうにもできない病気」であることが理解されない。本書のスリリングな問いは、ここから始まる。著者は昔からずっと「善きサマリア人の譬え話」に強い関心を抱いていて、その関心がいま自分の中でこれまでになく高まっているのを感じているとのこと。主体を楕円で考える…中動態の可能性をもう一回発見した。
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まだ読んでいる最中ですが、すっごくすっごく面白い。ギリシャ語ではよくでてくる、能動態でも受動態でもない、中動態(メイチェンのギリシャ語原典入門だと中態)。その例文の訳は「私は私自身のために解く」などとなっていて、いまいち意味がよくわからないなあと思っていたけど、その謎がちょっと解けるかも・・!?
【読み終わって】
難しかった…。とりあえず最後まで速読。
いま、私たちは「中動態の世界」に生きていること。能動でも受け身でも説明できない状態がある。自分で選んでいるかのようで、選ばされている、という状態。自由とは強制されないことではなく、自分のうちにある【本質】と、変容(だったかな?)の一致。「潜在意識」に関する話とも通じるものがありました。完全に自律しているのは神だけ、という話も。ただ、内容は消化はしきれなかった。
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『責任を負うためには、自分の意志で自由に選択ができなければならない』―『第一章 能動と受動をめぐる諸問題 3意志と責任は突然現れる』
ハラスメントを巡る議論が活発になる世の中。モラルの低下を嘆く声も多いことであるし、ハラスメントを加える側に非があることは原則として正しいと思う。しかし非難される側を非難されて当然と決めつけ、やや行き過ぎたペナルティを加えがちな風潮にどこかしら違和感を覚える事もまた事実。そう感じるのは決して自分だけではないだろう。そんなことを考えていると、先日亡くなった元プロ野球監督の生前の指導の在り方が、そんな寛容性の無い白黒の付け方に一つのアンチテーゼを投げ掛けているようにも見えてくる。
漠然と感じていた「意志」と「責任」の関係についてのもやもやとした思いは何処から来るのか。悪に基づく行動をすることは罪であると考えることは当然と感じる時、その「当り前」という感覚は何に由来するものなのか。かつてハンナ・アーレントを読んだ時、彼女の展開する論理の明快さ故にそこで定義された「意思」と「責任」という概念に納得したこともあったけれど、改めて問い直して見ると「意志」という存在はやはり極めて曖昧だ。そこにアーレントが導入した「自由」という文脈を持ち込んだとしても、それは自由という言葉の持ち得る曖昧さに問題を転嫁しただけ。それ故、会社の中間管理職が部下に仕事をさせることとナチスの下級兵士が非人道的な行為をすることとに構図としての差異はなく、命じる側の「責任」と命じられる側の「意思」の問題は単なる能動と受動の関係に切り分けることが難しい。横綱のかわいがりと暴力の線引きが難しいのも根源的には同じ問題であるように思える。
『だがそのように思えてしまうのは、それまで自分が意思と行為あるいは意思と選択の間にぼんやりと想定していた関係を、意識されないものと意識されるものとの関係にも投影してしまうからである』―『第5章 意思と選択 4意思と選択のの違いとは何か?』
この本を読み始めた時に、まさかそんな事を考えることになるとは少しも思っていなかった。しかし読み進めて行くと「中動態」を巡る議論とはまさに現代社会が抱えている「責任の在り処」という問題に直結した議論であることに気づく。議論は何処までも学術的に展開する。豊富な参照文献とその丁寧な解釈を基に。メディアに登場する人々のようなヒステリックな申し立てとはかけ離れている。それでいて、古典ギリシャ語の古い文法書の読みから失われた言葉の文脈を読み解くくだりなどは、古代の言語を読み解く者を無意識のうちに規制している解釈者自身の扱う言語の特徴にも踏み込み、失われた言語の考古学的問題に中立的な立場が存在し得ない事を解き明かす。それだけで既に下手な推理小説よりも刺激的だ。そして言語をそこまで解きほぐした上で「中動態」という「態」の存在とその意味を問い直し、徐々に人間の「意思」というものを巡る哲学的な課題へと移行する。
プラトンからアリストテレスへ至る「行為」に伴う意思の捉え方の変遷と、中動態が本来意味していたことが失われていく過程の言語学的論証に基づく比較。そしてスピノザのヘブライ語文法書とエチカに記されている中動態的思考についての再解釈。その一連の展開自体がとてつもなく刺激的だ。だがそれ故に胸の奥に巣食う違和感の存在を告発されたような思いも強くなる。悪と善の対立を絶対的な倫理の軸とする現代人には見えにくい別の倫理軸を著者は「徳」と「悪徳」という軸として再定義し、そこに中動態的精神の根源を見る。例えば他人を殴るという行為にも神の意志を見出すスピノザの哲学は、殴るという行為を常に「悪」とする現代人には理解し難い。しかし殴るという行為が「徳」に基づくものか「悪徳」に基づくものかという軸で問い直すことが可能であるかと問われれば、ことは理解し易くなる。そう理解できればスピノザが「怒りに駆られて」為された「殴る」という行為を「受動態」で表現し、そうでない場合に「中動態」で表現することの論理は朧気ながらに見えてくる。すなわち神の意志の発露である徳に基づく行為は、行為者の意志というよりは神の意志に基づく行為であり、形式的には受動態にも見える中動態となる。いずれにせよ、どちらの殴るという行為にも「能動態」という表現がないことに衝撃にも似た感慨は覚えるのだが。
当然、これだけの文献、言語に通じていないものに、たった一度の読書で全てが理解出来る筈もないが、本書は間違いなく今年最も刺激的で知的好奇心を呼び覚ます本であったことは確かである。
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「自己の本性の必然性に基づいて行動する者は自由である」
ほとんどの人が仕事をしてるけれど、自分の意思で入社したんだから仕事は「能動的に」している。しかし、仕事を「受動的に」やらされることもある。
こんな風に、”する”とも”される”とも言えない中動的なことはあふれてるのに、中動態は言語からは失われている。
英語とかでは能動態と受動態しかないけど、実は遥か昔には中動態というのがあって、その時には能動態と中動態が対立していたのであって、受動態は能動態の派生だった。さらに言うと、能動態だって中動態から生まれたかもしれない。
そんな感じで哲学や言語の中から中動態を探す、紀元前まで遡る壮大な探索の本。ギリシャ時代には意志という概念がなかったというのは驚いた。
出来事が私有化する、または行為を行為者の意志に帰属させる変化が言語の中に生まれたのは、きっと自然と自分の境界がなかった時代から、自然から自分が分離され始めるようになった時なんだと思う。そして、その変化が起きた時代は神がつくられるよりも前だったはず。人間は、まず自我を作ってその次に神を作った。
自我の後に神がくるということは、神の在り方は、実は自我によって変化する相対的なものとも言えるわけで、アーレントの考え方にそうと、神は善ではなく徳であるということになる。
スピノザの考え方にそって、中動態的であることは善であると言っても、徳がそれを罰することがある。徳とは時代の共通認識であり相対的なものだから、100%本人の責任としづらいような能動態的な中毒患者でも罰せられるのは、法律が徳として機能しているからである。
つまりは、そうせざるをえない原因があって行われた行為であっても、その行為が違法なのであれば徳の役割により罰せられることがあるということ。その線引きは時代が定めるものだから、これはなかなか興味深い。
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かなり読み応えのあった一冊。言語学的な考察を深めながら、失われた「中動態」の世界を再発見する。能動、受動の二項対立で語られる私たちの行為だが、本来人間の生をそのような二種類の分類で切り分けることはできないだろうと主張する。完全ないみでの自由意思を否定し、再帰的に自らの世界を規定し続ける人間のあり方に目を向ける。
こんな感じで説明すると、結局中動態の概念はわかっても、それが何なんだというところに落ち込んでしまう。仲正昌樹が「不自由論」で言っていた、自己決定なんて無理でしょっていう諦念との区別がつかない。改めてこれを語る國分の熱意が見えにくい。アイヒマンではないのか。
ただ巻末の言葉でこれを書くに至った動機と出会いが書かれていて、動機の部分はやはり結局わからなかったが、その使命に取りつかれギリシャ語を学び、スピノザを学び直す知的情熱には胸打たれるものがあった。
17.2.22
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中動態の世界があることをこの本で知りました。
他の人のレビューをみても、とても中身の濃い素晴らしい本だと書いていました。毎日少しづつ読み続けていますが、最後までしっかりと読了したいと思います。
・・・・
10月、この本が2017年の小林秀雄賞を受賞しました。すごいことだとただ感心しました。
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能動態、受動態では語り得ない概念である中動態が、かつてあったこと、その実態と現代おける再認識の意味について。興味深い。
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人間の行動の理由を、自分でやったか、させられたかの2項対立で考える以外に、やってしまった。ということもあるよねという話かな。
私は唯物論的(=外部環境に対して身体もしくは脳が反応として表れるのが行動)に考えるのだが、長期的で複雑な外部環境との対応から、意思を持ってやったとも、させられたとは一言では言い難い行動はあるというのは、その通りだと思うし、私自身の今ふくめて、社会の今を捉えたり考えるときに必要な視点だと思う。
なお、どうもWIKIPEDIAを読むと、言語における中動態の実際や歴史は、本書の記載とは違うという批判があるようだが、たぶん言いたいことありきなんだろうと思う。
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言葉とは、
神とは、
人間の意志とは——
言語の「態」には”神の存在”や”人間の自由意志”が関わっているのだ…!
難しい本だったが、読了後にサブタイトル「意志と責任の考古学」に深く頷く
読んで良かった!!
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思ったほど刺激的な内容ではなかった。平田オリザが「演劇入門」で「私たちは、主体的に喋っていると同時に、環境によって喋らされている」と述べてから20年。同じアイディアを文法の側から辿ってもらっても新しい地平は見えなかった。残念。
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-2017.12.17
自由の問題を巡る議論の混乱は、意識の問題と同様に、近代西洋の知が設定した枠組みの産物であるといふ側面を持つ。その枠組みから出て問題を見直せば、新しい視点、より現実に即した考へ方が見つかることがある。
かうした知の枠組みが作られた時代には、これらの問題についても、より幅広く、深く考へられてゐた。デカルトは極端な二元論やその後の唯物的な見方の親玉のやうに見られることが多いが、実際にはより多面的な考へを持つてゐた。この本で取り上げられてゐるスピノザは、デカルトを批判した人だが、問題の核心に関はる思想を展開した点は共通してゐる。彼らの時代まで立ち返つてみることは、有益だ。
能動態と受動態の区別も、近代社会の枠組みの中で顕在化、固定化された可能性がある。
この本が、雑誌『精神看護』の連載を元に書かれたといふのは、非常に興味深い。
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まず、動機が良かった。この本を書く動機。哲学者って、こんなに具体なんだ、素敵だな、と思った。スピノザに至るまでの冗長とも取れる言語化、それが最後に全て集約してくる(完全にはしきらないが、それもまた中動態的というか、「幅」的である)のが本当にすごい。鴻上尚史さんの「言葉はいつも想いに足りない」の実践形である。
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僕たちは知らぬ間に、中学で学んだ「受動か能動か」という二分法に、思考を蝕まれていた?
歴史ミステリーを紐解くような快感と、「確かにそういうことって普段の生活でありふれてるよね」という実感が押し寄せる珠玉の哲学の旅。
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「私」(一人称)が、「あなた」(二人称)へと向かい、さらにそこから、不在の者(三人称)へと広がっていくというイメージはこの名称がもたらした誤解である。
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・能動態と受動態という対立が生まれたのは「意志」が生まれたから。
・能動と受動の差は、スピノザによると「自分の本質が原因となる部分」の質の差である。
・意志は、過去を切断すること。忘却すること。
本来なら意志は選択に責任を「事後的に」与えるもの。
・スピノザによると、「自己の本性の必然性に基づいて行動するものは自由である」。
つまり、自分はどのような状態でどのように変容するのかを知ることが自由につながる。
そのとき、意志は自由を阻害する。
∵意志は、過去を切断しようとするあまり、ものごとをありのままにみようすとすることを妨げるから。
中動態は自由を志向する。
・相手に自分を見るとき、人は妬む。(スピノザ)