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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
アリストテレスやルソーをはじめとする、歩くことで歴史を創り上げてきた偉人たちの足跡が興味深かったです。
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歩くことの歴史をたどり、その意味、メタファー、文学作品の中に現れる場面と効果などを丁寧に考察しようとすれば、これくらいの枚数(490ページ)は必要になるだろう。
なるほど『偏見と自負』でも、歩くことは大きな意味を持っている。
また、歩行に関する慣用句やタイトルが多いことや、女性が街を自由に歩くことが許されなかった時代があったこと、など、歩くことは物理的運動的に前進することだけでなく、文化的にも権利的にも、大きな意味を背負っているとわかる。
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歩くことの理想とは、精神と肉体と世界が対話をはじめ、三者の奏でる音が思いがけない和音を響かせるような、そういった調和の状態だ。歩くことで、わたしたちは自分の身体や世界の内にありながら、それらに煩わされることから解放される。自らの思惟に埋没しきることなく考えることを許される。(中略)歩行のリズムは思考のリズムのようなものを産む。風景を通過するにつれ連なってゆく思惟の移ろいを歩行は反響させ、その移ろいを促してゆく。内面と外界の旅路の間にひとつの奇妙な共鳴が生まれる。そんなとき、精神もまた風景に似ているということ、歩くのはそれを渡ってゆく方途のひとつだということをわたしたちは知らされる。(p.14)
歩くことはまた視覚的な活動とも考えられる。徒歩移動はいつでも、目を楽しませ、目に入るものについて考えることを楽しみながら、新奇なものを既知の世界へ回収していく活動だ。歩行が思想家たちに格別有用だった理由はここから生じているのかもしれない。旅の驚きや解放感やひらめきは、世界一周旅行でなくとも、街角の一回りから感じられることもある。そして、徒歩は遠近いずれの旅にもわたしたちを連れだしてくれる。もしかしたら歩くことは旅ではなく動くことというべきかもしれない。(p.15)
場所を知ってゆくことは、記憶と連想の見えない種をそこに植えてゆくことだ。そこはあなたが戻ってくるのを待っている。そして新しい場所は新しいアイデアと新しい可能性を孕んでわたしたちを待っている。世界の探検は精神の探索の最良の手段のひとつであり、脚はその両方を踏破してゆく。(p.26)
これほどよく考えを巡らせて、はつらつとして、多くを経験し、自分自身であったこと―という表現を用いるならば―は、徒歩で一人旅をしている間だけのことであった。歩くことには思考を刺激し、活気づけるものがあるようだ。一所にとどまっているとほとんど考えることができない。精神を動き出させるには体も動きださねばならない。田舎の景色、次々と移り変わってゆく心地よい眺め、開けた空、健全な食欲、健全な身体。歩くことはそうしたものを与えてくれる。そして宿の気楽の雰囲気、あらゆる係累や、身の上を思い出させることが不在であること、そのすべてが我が精神を自由にして、大胆に考えるよう促すのだ。思考をつなげ、選び、恐れも束縛もなく、意のままに我が物とすること、(ルソー、p.36)
巡礼の根底にあるのは、聖なるものはまったくの非物質的な存在ではなく、霊性にはチリがあるという考えだ。巡礼の足取りは、物語とその舞台に光をあて、精神と物質のきわどい分断線を進む。霊的なものを希求しながらも、その手掛かりとなるのはきわめて物質的なディテールだ。仏陀が誕生した場所。キリストが死んだ場所。聖遺物の在処。聖水の流れる場所。これは霊性と物質をふたたび和解させること、といえるかもしれない。なぜならば巡礼へおもむくことは、魂の求めや信を身体とその運動によって表すことなのだから。(p.86)
遠方へ向かって重い歩みをすすめる人の姿は、人間の生を表現するもっとも普遍的で説得力あるイメージのひとつだろう。ひろい世界の只中で、��の心身のみを頼りにする小さく孤独な姿。具体的な目的地に到達すれば、そこには精神的な恩恵も待っているに違いない、という希望が巡礼の旅路を輝かせる。(p.87)
「自分の体を抜けだすこと。すると一歩一歩が、天候や、肌に触れる感触や、変化してゆく視界、移ろう季節、野生動物との出会いになる」(美術批評家ルーシー・リパード)(p.128)
すなわち歩きに出かけることは単に両脚を交互に動かすということではなく、長すぎも短すぎもしない、ある程度の時間を継続する歩行を意味し、心地良い環境に身をおき、健康や楽しみ以外に余計な生産性のない行為に勤しむということを表現している。(p.166)
山々の高見は人びとの住む土地から遠く離れているのが常だ。神秘家やならず者たちはしばしば人目を逃れるためにそこを目指す。そして登ることは「自分の心が惑わない唯一の時間」を産む。(p.230)
6世紀以前には日本人は神聖とされた山には登らなかった。そこは俗世から隔絶された領域で、人間が立ち入ることのできない聖域だと考えられていた。人びとは麓に社を建立し、敬して距離を隔てながら礼拝していた。6世紀の中国から仏教伝来にともなって、神々と通じるために霊峰の頂上を目指す登山がはじまった。(p.240)
「強力といふものに道かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼること八里、さらに日月行道の霊関に入るかとあやしまれ、息絶身こごえて頂上にいたれば、日没て月顕る。(松尾芭蕉「月山」)(p.241)
いまでは、歩くことはしばしば自分と街の歴史を重ねながら顧みるものになっている。空き地に新しい建物が建ち、年寄りの溜まり場だったバーは流行りもの好きの若者に占領され、カストロズ・ディスコはドラッグストアに変わり、あらゆる通りと界隈がその様相を変えてゆく。(p.325)
群集というものも人類にとって新しい経験ではなかっただろうか。互いを見知ることのないままに生きる夥しい数の他人同士。遊歩者は、いわばこの孤立の群れに安息を見出す新しいタイプとして出現した。「群集こそ彼の領土なのだ。鳥が大気に棲み、魚が水に棲むごとくに」というフレーズは、遊歩者の説明としてよく引かれるボードレールの一節に読める。(p.333)
散歩に出ること、すなわち世界に出てゆき、愉楽のために歩くことには三つの前提条件がある。自由な時間をもっていること、行く場所があること、そして疾病や社会的な拘束に妨げられることのない身体であることだ。自由な時間にはさまざまな要素があるだろうが、公共空間のほとんどは、ほぼ常に女性にとって等しく安全かつ快適な場所とはなってこなかった。(p.393)
歩くことが文化的に好きなだけ歩き出てゆくことができなかった者は、単に運動や余暇の愉しみを奪われているのみだけではなく、その人間性の重大な部分を否定されてきたといえるだろう。(p.413)
進歩とは時間と空間、および自然を超越することにあるということだ。それは鉄道によって、あるいは後には自動車、飛行機、電気的な通信手段によって推し進められる。飲食、休息、移動、および天候の影響は、身体存在の経験のうちもっとも基本的なものであり、それを否定的に捉えるのは生物と感覚の世界の断罪にほかならない。「足という動力は長い衰微の道をたどることになった」という毒のある一文はまさにそれを地で行っている。(中略)ある意味で、列車が押し潰したのはひとりの肉体ではなかったのだ。人間が肉体として生きる有機的な世界から知覚や希望や行為を切断することによって、列車の影響下にあるすべての肉体がそこで減殺された。(p.431)
列車は飛翔体として経験され、その旅は射出されて風景を通過してゆくように経験される。そうして個々人は感覚の制御を失う。……この飛翔体のなかに座る乗客はもはや旅人ではなく、19世紀によく喩えられたように小包となった。(中略)郊外住宅地のように、旅行中の人びとをある種の空間的な辺獄におき、車中で人びとは読書や睡眠や編み物をするようになり、退屈への不満を口にしはじめる。自動車と飛行機はこの変化を莫大な規模へと拡大した。高度3500フィートをゆくジェット旅客機での映画鑑賞は、空間と時間と経験からの究極的な遮断といえるかもしれない。(pp.432-433)
よくいわれるように、日焼けがステータス・シンボルになったのは低所得者の多くが農場から屋内の工場へ移り、褐色の肌が労働時間ではなく余暇のゆとりを意味するようになったためだ。筋肉がステータス・シンボルになったとすれば、それは多くの仕事がもはや肉体の強さを求めていないということを意味している。日焼けと同じく、それは過ぎ去ったものに見出された美学なのだ。(p.439)
トレッドミルは郊外住宅地と自動車都市の自然な帰結だ。どこにも行くあてのない場所で、あるいはどこにも行く欲望が湧かない場所、どこにも行かないための道具。そして自動車と郊外住宅地に適応した精神に、野外よりも居心地のよい屋内人工環境を差し出す。精神と身体と地表面の移りかわりがひとつに融けあった扉の外の歩行よりも、定量化可能で明瞭に規定された活動という点で、より快適なのだ。トレッドミルもまた、世界から引きこもることを促す多くの装置のひとつなのだろうと思う。そうした便宜が世界を住みよくすることや、何にせよ世界とのかかわりに対する嫌気を誘うのは恐ろしいことだ。(pp.444-445)
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多面的にあるくことを見つめていく哲学書。
サブタイトルの「歩くことの精神史」にじわじととくるものがある。「人」ではなく「こと」であることに。
6年と10日。2201日掛けてようやく。ここまで自分も歩いてきたのだなと感慨。
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「ソングライン」と同じ流れで読めると思いきや、これはちょっと、いやかなりつまらない。インテリの手慰み。
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・歩みが街を離れた孤独なものであるとき、それは社会を出て自然に入ってゆく手立てとなる。歩く者は旅人の孤独を帯びているが、その旅は虚飾のない、ただ自身の肉体のみに頼るものだ。馬や船や車といった、あつらえたり購入したりできる利便性には頼らない。歩くということは、つまるところ、人類の夜明けからほとんど進歩していない活動なのだ。
・歩くことには思考を刺激し、活気づけるものがあるようだ。一所にとどまっているとほとんど考えることができない。精神を動き出させるには体も動かさねばならない。田舎の景色、次々に移りかわってゆく心地よい眺め、開けた空、健全な食欲、健康な身体。歩くことはそうしたものを与えてくれる。そして宿の気楽な雰囲気、あらゆる係累や、身の上を思い出させることが不在であること、そのすべてが我が精神自由にして、大胆に考えるよう促すのだ。思考をつなげ、選び、恐れも束縛もなく、意のままに我が物とすること。
・これは歩行が分析的な行為ではなく、即興的な振舞いだとということを示唆している。ルソーの『夢想』は、こうした思考と歩行の関係をはじめて鮮明に捉えたもののひとつだ。
・姪のひとりによれば、コペンハーゲンの街は彼の「応接間」であり、そこを歩き回ることはキェルケゴールの日々の大きな楽しみだったという。それは人と暮らすことのできない男が人びとに交わる術であり、束の間の出会いや、知人と交わす挨拶や漏れ聞こえる会話から幽かに伝わる人の温もりを浴びる術だった。ひとり歩く者は、居ながらにしてとりまく世界から切り離されている。観衆以上の存在でありながら参加者には満たない。歩行はその疎外を和らげ、ときに正当化する。そのおだやかな懸隔は歩いているからこそであり、関係を結ぶことができないためではない、と。
・つまり、動くのは身体だが変わるのは世界であり、そのことが自他の区別をもたらすのだ、と。移動は流動する世界のなかで自己の連続性を経験する手段となることができ、それゆえ個々が自らを知り、互いとの関係を理解する端緒となる可能性を秘めているということだ。人間がいかに世界を経験するか、このことの考察の重点に感性や精神ではなく歩行という行為をおく点で、フッサールの企図は新しかった。
・一方で、道具が身体を拡張するように歩行は世界へ延びてゆく。歩行の拡張が道をつくる。歩くために確保された場所はその追求のモニュメントであり、歩くことは世界のなかに居るだけでなく、世界をつくりだすひとつの方法なのだ。ゆえに歩く身体はそれがつくりだした場所に追うことができる。小道や公園や歩道は、行為にあらわれた想像力と欲望の軌跡であり、その欲望はさらに杖、靴、地図、水筒、背嚢といった物質的帰結をつくりだす。歩くことが事物の制作や労働と同じように備えている決定的な重要性とは、身体と精神によって世界へ参画することであり、身体を通じて世界を知り、世界を通じて身体を知ることなのだ。
・人は赦しや癒やしや真実へ至ろうと迷いつづけることが運命づけられているのだが、わたしたちは、いかに険しい旅路であったとしても、「ここ」から「そこ」まで歩いてゆく���法は知っているのだ。また、わたしたちはよく人生を旅のように思い描く。本当の遠征へと踏みだすことはそのイメージを手の先にとらえ、実体を与えてゆくことでもある。肉体と想像力によって、霊化された地理世界のなかにその姿を描き出してゆくこと。遠方へ向かって重い歩みをすすめる人の姿は、人間の生を表現するもっとも普遍的で説得力のあるイメージのひとつだろう。広い世界の只中で、己の心身のみを頼りにする小さく孤独な姿。具体的な目的地に到達すれば、そこには精神的な恩恵も待っているに違いない、という希望が巡礼の旅路を輝かせる。巡礼者はそれぞれの物語をなし遂げ、それが同時に、旅と変容の物語がつくりあげる宗教そのものへ折り込まれてゆく。
・1974年の11月下旬に、友人がパリから電話をかけてきて、ロッテ・アイスナー(映画研究者)が重病だ、おそらく助からないだろう、といった。ぼくはいってやった、そんなことがあってたまるか、こんなときに、ドイツの映画界にとって、それもいまのいまこそ、かけがえのないひとじゃないか、あのひとを死なせるわけにはいかない。ぼくはヤッケとコンパス、それに最低限必要なものをつめこんだリュックサックを用意した。ブーツはとても頑丈で新しかったので、大丈夫だと思った。そしてまっすぐパリに向かった。ぼくが自分の足で歩いていけば、あの人は助かるんだ、と固く信じて。それに、ぼくはひとりになりたかった。
・物語がすこしずつ明かされてゆくように、道は旅する者に徐々に開かれてゆく。ヘアピンカーブは筋書きの急展開に似て、登り坂は高まるサスペンスのように頂へ向かい、分かれ道では見たことのない筋書きが顔をのぞかせ、おわりゆく物語のように臭着地がみえてくる。書かれたものが不在の誰かの言葉を読ませるように、道はそこにいない誰かの行路を辿らせる。道々はかつて通りすぎた者たちの記録であり、それをたどるということは、もうそこにはいない者を追ってゆくことなのだ。それはもはや聖人でも神々でもなく、羊飼いや狩人、技術者、移民、市場へ向かう農民であり、あるいは、ただの通勤者の群れかもしれない。迷宮のように象徴性にみちた建造物は,すべての道や旅路がもつ、こうした本性に目を開かせてくれる。
・したがって、風景のなかを歩くことの歴史においてワーズワースは変革者であり、?子の支点か触媒のような存在だったと考える方が正確だ。ワーズワース以前に街道を歩く者が少なかったことは疑いない。(ついでにいえば、自動車によって道路がふたたび危険で悲惨な場所になってしまった現代人もほとんど同じ境遇にある)。やむを得ず徒歩で移動する者は少なくなかったが、楽しみとする者はほとんどいなかった。それゆえに先の歴史家たちは徒歩旅行の楽しみを新しい現象だと結論しているが、本当のところは旅の手段とは別の場面で、すでに歩くことが重要な活動になっていた。歩行の歴史におけるワーズワースの先達は街道の旅人ではなく、庭や公園の散歩者だった。
・歩くことが与えてくれる社会的、空間的な余裕は大きかった。彼女たちは、そこに身体と想像力を目一杯に働かせるチャンスを発見したのだ。ついにふたりが互いを理解しあうことができたのは、道連れがいなくなって、エリザベス��「思いきって彼とふたりきりで歩いた」ときだった。その幸福な時間が過ぎるのは早く、「『リジーったら、いったいどこまで歩いてらしたの?』という質問を、エリザベスは部屋に入るなりジェーンに、それに食卓についたときにほかのみなから受けたのだった。ふたりで歩きまわって、自分でもわからないところへ行ってしまったの、と答えるほかなかった」。風景と心の区別はなくなり、エリザベスは文字通りに「自分でもわからない」新しい可能性へ足を踏み出している。それが、疲れを知らぬこの小説の主人公に歩行が果たした最後の役割だった。
・彼の人生に岐路をもたらし、『序曲』の転回点ともなっているのは1790年に学友ロバート・ジョーンズとフランスを縦断してアルプスへ向かった。驚嘆すべき徒歩の旅だ。ふたりにとってはケンブリッジ大学の試験のために勉強をせねばならない時期のことだった。近年刊行されたワーズワース伝の著者ケネス・ジョンストンは「この不服従の身振りによって、彼のロマン派詩人としての人生がはじまっていたといってよいだろう」とも述べている。旅には逸脱、越境、脱走といった無軌道さや反抗的な側面があるが、思いつきの冒険であったこの旅はそれと同じくらいに異なるアイデンティティを模索する道のりとなった。
・ライン河を下って帰路に就く直前に最後の目的地として彼らが立ち寄ったのは、ルソーが『告白』と『孤独な散歩者の夢想』で自然の楽園のひとつとして語っていたサン=ピエール島だった。方法と目的の両方の意味で歩いたーすなわち書くために歩き、歩くことを自らの拠り所にする―という意味で、ルソーがワーズワースの先駆者であったことは明らかだ。
・-「<さまよう>とは、道教において脱自の境地を意味する言葉である」と学者は書いている。一方で、目的地にたどりつくことは時として両義的だった。八世紀の詩人李白に「防載天山道士不遇(載天山に道士を訪ねたけれど会えなかった)」と題する作品があり、この主題は当時ありふれたものだった。山は現実と象徴いずれの領域にも場を占める存在であり、ただ歩くことにもメタファーの倍音が聞かれる。李白と同時代の風狂の僧、寒山はこう詠った。
人問寒山道 人は寒山への道を問うけれど
寒山路不通 寒山への路など通じていない
・・・
以我何由届 わたしをまねただけでたどり入ることなどできようか
輿君心不問 もともとあなたとわたしの心は違うのだから
・歩くことがエクササイズのバリエーションに過ぎないアメリカでは、雑誌『ウォーキング』といえば女性向けの単なる健康とフィットネス雑誌などにすぎないが、イギリスには肉体よりも風景の美を主眼に歩くことを扱うアウトドア誌が5,6誌もある。アウトドア作家のロリー・スミス氏によれば「ほとんどスピリチュアルに近い」。「ほとんど宗教。人との交流として歩いている人も大勢いる。野原には隔てるものはないし、誰にでも挨拶するから。我々の忌々しい英国的遠慮を乗り越えてね。ウォーキングには階級が存在しない。そんなスポーツはそれほど多くはない」。
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「歩く」ことを主題に、哲学、文学、文化、政治活動、レジャー、エコロジー、フェミニズムなど、多岐にわたる分野の歴史的事実などを取り上げて解説した一冊。ほんの100年前まで、女性が夜一人で出歩くこと=娼婦であり、犯罪者扱いされていたこと。ルソーやラッセルといった哲学者が歩きながら思考を巡らせたり、文章を考えたりしていたこと、主張と団体行動がデモ行進となり政治を変える力を持つようになったことなど。現代人はぼーっとする時間が減っている気がするが、歩きながらゆっくり考えることはやっぱり大切なんだと思う。
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「説教したがる男たち」「暗闇のなかの希望」が面白かったいきおいで、ソルニットの主著(?)ともいえる「ウォークス」を読んでみる。
500ページと分厚いうえに、かなり圧縮度の高い文章がつづき、ボーと読んでると、すぐに文脈がわからなくなる。というわけで、結構な集中度を要求する。
内容としては、「歩く」ということについて、古今東西、いろいろなジャンルを横断しながら、縦横無尽に「歩いていく」感じかな〜。
たとえば、「逍遥」派(?)のアリストテレス、「孤独な散歩者」のルソー、ワーズワース、ベンヤミンとある程度予想がつくところを超え、人類が二足歩行になることが脳の進化を促したといった人類学、考古学的な諸説の紹介。巡礼の旅やロマン主義的な自然への憧れ、都市の彷徨。デモンストレーションや革命。そして、「歩くこと」が衰退に向かっていると思われる現代と未来に向けての洞察などなど。著者が住んでいるサンフランシスコの自然散策でスタートするこの本は、なぜかラスベガスの大通りを歩くことで終わる。
こういう話だったら、松尾芭蕉とかも関係あるな〜と思っていたら、ちゃんと「奥の細道」の話がでてきたり、北斎の富嶽三十六景がでてきたり。
本当、「歩く」ということによく調べているな〜。
いろいろ面白い話が満載なのだが、一番、感動したのは、チェコの「ビロード」革命のところかな。
この辺のところは、前に読んだ「暗闇のなかの希望」と通じているところで、また女性が夜歩くことについての話は、「説教したがる男たち」につながっていく話。
やっぱ、こういうのが好きなんだなと改めて思った。
ちなみに、原題は"Wanderlust: A History of Walking"で、「ウォークス」という言葉はでてこないな。直訳すると「旅への渇望 - 歩くことの歴史」。
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写真家の石田さんの池ノ上QuietNoiseの展示の後、アンディに誘ってもらって光春で飲むぞの会に呼ばれたので行ったらその席の隣で、谷口さんたちがこの本の読書会後の懇親会をやっておられて、「ウォークス」面白いよと紹介してもらいました。下のリンクにもあるように、520Pの大作です。「暗闇のなかの希望―非暴力からはじまる新しい時代」(2005),「 災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(2010)など、多彩に動きまわる作家レベッカ・ソルニットが放つ新作の登場です。
「歩く」ということから、人類学・宗教・政治・文学・芸術・デモ・フェミニズム・アメリカの都市、など多様なジャンルを考察していく、タイトル通り興味の範囲を闊歩しながら思索するダイナミックな本です。ソルニットの足取りに読者である我々も歩きながら必死についていかなくてはなりません。とはいえ、これは書籍ですので、ソルニットは自分のペースを刻む私たちをちゃんと待ってくれます。躍動するような知のリズムがとても心地よく、520Pも快適に読めます。「歩きながら考える」ってことはとても楽しい。この春休み、知の冒険に出かけるのに最適な本です。建築系の人に特にお勧めしたいと思います。この本読んで歩きたくなってNB1700復刻(Made in USA)を購入したことを告白しておきます。
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一昨年から自転車に乗り始め、自転車EDの症状が出てからまたぞろ歩くようになった。元々私の場合は歩くことが目的と化していたのだが本書を読んでからは歓びに変わった。歩くことが単なる移動手段であれば、その遅さと疲労は忌むべきものとなろう。いつか歩けなくなる日が来るかもしれない。その時を思えば歩けることは「大いなる歓び」であろう。
https://sessendo.blogspot.com/2020/01/blog-post.html
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借りたけど買い直す。大作というよりは、歩くことをテーマにあれこれ考えを巡らせた短編集という感じで、読みやすい。言及されている時代、国、テーマは幅広く、そこはさすがのソルニットなのだが、だからと言って小難しいことを言っているわけでもない。
図書館への返却期限が迫っていたので急いで拾い読みにしてしまったけど、手元に置いておきたい。
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(01)
誰もができることとは言えないまでも,多くの人間たちが行うことができることとして「歩くこと」が本書では取り上げられる.全17章は,プロローグやエピローグにあたる部分を除けば,ほぼ時代を追う構成となっている.
古代ギリシアの哲人たちや近代のルソーやキェルケゴールといった哲学者たち,無文字の時代に直立で歩かれた痕跡,神話や巡礼に現れる歩行,フランス庭園からイギリス風景式庭園で歩かれた記録,庭園を離れ歩き出したワーズワース(*02)らの一群の逍遥,アメリカ大陸東部のソローらの歩行活動(*03),登山や記録に挑戦する徒歩旅行,産業革命を経た都市から歩き出す労働者たち,ディケンズのロンドンやベンヤミンのパリ,革命や運動としての歩行から女性が歩行することの危険,現代芸術が示そうとする復古的な歩行やラスベガスのディストピアのような歩行空間まで,著者の実体験ともいえる歩行の記憶から,文学や随筆といった記録までを扱い,歩くことの単純さと複雑さを一編のアンソロジーとして編み上げている.
(02)
ワーズワースともなると歩きながら詩作を練っていたというにとどまらず,歩きながら詩を実際に書き留めていたというエピソードは面白い.現代芸術に触れた章において,歩くことの軌跡が文字のように働き,歩くことがそのまま大地に何かを書く/描くことであることを示している.
(03)
歩くことは抵抗の表現でもあり,囲いこまれようとする風景へとアクセスする権利闘争として,特にイギリスでは意識されている.その一方で,著者は現代の歩行はジムに囲われた運動として「トレッドミル」として譬えられるような皮肉な労働としての歩行をも見ている.そこには,現代において歩くことの難しさも指摘されており,女性が夜に歩くことへの安全保障を社会に呼び込むことにもひとつの光明をみている.
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4連休ということで、ながらく積ん読していたこの本を一気読み。
ルソー、人類の歩行の起源、巡礼、庭園の散策、迷宮、登山、観光旅行の発明、自然に対する美的価値の変化、都会における散歩、通行権をめぐる闘争、ベンヤミン、近代化と脱身体化、公共空間と女性、現代美術、ルームランナー、郊外、ラスベガスと盛りだくさんでした。
咀嚼するのに時間が掛かりそう。。
時々読み返そうと思います。
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『まったく何もしないのは案外難しい。人は何かをしている振りをすることがせいぜいで、何もしないことに最も近いのは歩くことだ』―『第一章 岬をたどりながら』
例えば「Skyscraper」という英単語が「超高層の建物」を指す言葉だと知った時に生じる小さな衝撃は、空という手の届かない絶対的な背景がペインティングナイフでさっと削ぎ取れてしまう程の距離にあるカンバスの上に空色の絵具として一瞬にして凝縮されてしまう変容に由来しているように思う。あるいはそれを「地」と「図」の逆転と言ってもよいかも知れない。陰陽の太極図が示す相対するものの置換と言ったら少々大袈裟かも知れないが、レベッカ・ソルニットが大部の著作の中で語る「歩くこと」も、どうやらそんなエッシャーの「昼と夜」の中の雁の飛行にも似たところがあるように思う。それはまるで禅宗の教えるところの「半眼」の状態。いきなり提示される二元論的世界観。
『ここに挙げた書物は、歩くということがいかに捉え難く、注意を向けつづけることが難しい主題かを示している。歩くこととは、いつだって歩くこと以外のことだ。(中略)それでも、歩くことについての随想や旅行文学のすべては、地上を歩く理由について、曲折はあれどもひと続きの二百年間の歴史を語っている』―『第八章 普段着の一〇〇〇マイル』
およそ全ての動物は生涯移動し続ける。その移動はもちろん必要に迫られて行うことの筈。「歩くこと」はそもそも人類にとって生命を維持するために必要であった行動に起源を求めることが出来るに違いない。しかし動かないことで生命維持に必要なエネルギーを最小限に抑える戦略を選択したナマケモノのような動物は極端な例としても、食物確保を狩猟採集から農耕へと転換し定住生活を送るようになった人類に必要な移動は限られるようになる。以来、生活圏を離れる程の移動は徐々に必要に迫られてするものではなくなってゆく。それでも人類は、例えば1991年に標高三千メートル超のアルプスの渓谷で発見された五千年以上前の旅人アイスマンのように、大いなる移動をし続けた。その特異性を、時に客観的な観察対象として、時に主観的な意識の変遷として捉え、膨大な書物の森の中に渉猟する試みが本書「ウォークス 歩くことの精神史」である。
ソルニットは歩行の「必要性」を伴う原初の目的が、移動することそのもの、あるいは移動による心身の変化への希求へと変容していく様を読み解いていく。それは在る意味で歩行を「目だけとなる行為」あるいは「感覚受容のための行為」へと向かわせる。結果、脳に抱えきれないほどに吸収した感覚的情報は発散を求めることになるのは自然の流れだろう。それが時として文学となり、主張となり、主義となり、宗教となる。そして政治的な意図を伴う行為となって発露する。数多くのそんな例を挙げながら、現代の歩行者たるソルニットもまた、本書の随所で政治的な主張を展開することになる。
『ウルフはその道のりをたどりつつ――あるいは想像しつつ――都会を歩くという主題について珠玉のエッセイを綴った。「晴れた夕方の四時から六時くらいに家から足を踏み出すとき、わたしたちは友人が知っている自���を脱ぎ捨てて、茫洋とした匿名のさまよい人の群れに加わる。自分の部屋で独り過ごしたあとでは、その世界がとても心地いい。」』―『第十一章 都市』
本書の後半は、近代化に伴ってもたらされる歩行の趣の変容が人々の精神にどのような影響を及ぼしていったのかについての考察。都市は匿名性を個人に付与する。それは自分自身をどこまでも地へと塗り込める作用であり、ある種の自由、快感すらもたらすことがあるとの分析は説得力がある。しかしその匿名性の効用は本来図として存在する筈の自身の身体を透明化してしまうことにも繋がってしまう。逆説的だが、だからこそ身体性を感じられる歩行に禅の修行のような意味合いを付与しようとするムーブメントも起こるのだろう。それは身体性の再確認に他ならず、不自由さへの回帰でもある。
『ここまでたどってきた日常生活の脱身体化は、自動車の普及と郊外化のなかでマジョリティが経験したことだった。しかし少なくとも十八世紀の後期以降、歩くことはときとしてメインストリームへのレジスタンスだった。その存在が際立つのは時代と歩調が齟齬を来たしてゆくときだった』―『第十六章 歩行の造形』
不自由さとどこまで折り合っていくかということは、翻って見れば自分自身の身体とどう折り合っていくかということに他ならない。それを端的に感じられるのはやはり「歩くこと」なのだなと得心する。
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歩行の歴史を語るなかに作者が散歩をするモノローグが挿入され、まさに思考がふらふらと歩き回るような過程をたどる。
歩く対象としての自然が庭から山まで様々なかたちに変奏・解釈され、果てに歩くことのできない郊外にたどり着くのが特に興味深かった。