紙の本
ヒトラー本は沢山あるけれど
2019/07/24 09:38
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投稿者:ニッキー - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヒトラーとナチスなどに関する本や研究書は、沢山あります。今更…と思われる方も多いでしょう。この中公新書でも結構あります。しかし、いくら本が沢山あれども、ヒトラーとナチスの問題は書き尽くせないでしょう。どんどん新しい視点の本が出てきます(そうでないつまらないものもありますが)。本書は、奇抜ではないですが、あまり誰も触れなかったヒトラーとナチスの周辺のドイツについて兵にまとめられています。文字の書体など一見どうでもいいことですが、少し掘り下げると、その背景にナチスの思想が潜んでる。それとドイツの伝統がどのように絡んでいるのか、結構興味深いです。
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勉強になりました
2022/03/14 13:21
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投稿者:iha - この投稿者のレビュー一覧を見る
出版されるや否や、現代ドイツ史専門家からいくつかの事実誤認を指摘され小炎上した一冊です。著者はドイツ文学者であって、ドイツ現代史の専門家ではないようです。誤認として指摘された事項はのちほどゆっくりとさらうとして、それでも色々興味深い一冊でした。特にユダヤ人たちが無事亡命できるよう出版された「亡命ハンドブック」のくだりはとても興味深かったです。
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「カフカの恋人」が「アウシュヴィッツで死んだ」?
2019/07/25 23:08
4人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
あとがきにあるように「カフカが愛した姉や妹や恋人がアウシュヴィッツで死んだことを、かたときも忘れなかった」とあるが、「ミレナへの手紙」の邦訳者がミレナ・イェセンスカーはアウシュヴィッツではなくラーフェンスブリュック「で死んだ」事は忘れていては困る。彼女がラーフェンスブリュックで送られたから、そこで元共産党員で反共に転じたり、マルティーン・ブーバーの息子のラファエル・ブーバーの元妻だったりと似た経歴を持っているマルガレーテ・ブーバー-ノイマンと知り合ったから、ブーバー-ノイマンが回想録や「カフカの恋人ミレナ」といった著書でイェセンスカーの存在を故国以外で知らしめる役割をしたのだから。
ブーバー-ノイマンが共産主義者から反共に転じるきっかけとなった「プロレタリアートの祖国・ソ同盟」の真の姿について、「フィロ・アトラス」というフィロンを会社名にしているので、ドイツ社会に同化したユダヤ教徒であってもキリスト教には改宗していない人々向けの出版社が出した亡命への紹介の本の中で「フランコ政権下のスペイン」(1938年に出版された本だから、当時はまだスペイン戦争が終わっていない事を著者が忘れているようだ)とともにソ連が「入国する国ではない」と記した事で「アトラス作成チームは、きわめて正確な情報を得ていたようだ」と書いている。ブーバー-ノイマンの義理の兄にあたるヴィリー・ミュンツェンベルクの「武器としての宣伝」(原著は1937年刊行)にゲッペルスが「農業集団化」やホロドモール、「スターリン記念白海・バルト海運河」などを言及した演説を引用して「悪質な反共宣伝」に対して反論を試みているから、ソ連を「地上の楽園」とでも思っている共産主義者や容共主義者でもなければ、それなりの情報は当時でも入手出来たのが分かる。
また「ソヴィエト占領地区、またキエフや南ロシア全土で凄惨なユダヤ人殺戮が発覚するのは、数年あとのことである」と続くが、1938年当時に「ソヴィエト占領地区」なるものが存在しない事は置いていても、「キエフ」とあるからバービーヤールだと思う。この出来事は1941年にドイツ軍がキエフを占領してから特別行動隊がユダヤ人を「殺戮」したのに、これでは未だ起きていない出来事を他の独裁政権の暴力組織が引き起こして、それを「数年あとのこと」とあるからドイツ軍が発見した事になってしまう。
他にも帯に制服姿のヒトラーの写真を使っているのに、「よほどの必要がないかぎり、ヒトラーはナチスの制服を身につけなかった」とか1935年の再軍備を1955年のドイツ連邦共和国での再軍備と混同したのか、「ヴェルサイユ条約は過酷な賠償金を課す一方で、ドイツにおける一切の軍備を禁じていた」とかヒトラーの政権掌握の直後に「旧ドイツ国防軍首脳との夕食会」とか信じられないような間違いだらけで、岩波新書の「独ソ戦」にある「ドイツ解放軍」の計画をソ連側に提起したのは実際には巻末で著者が紹介しているビーヴァーの「スターリングラード」にあるようにヴァルター・フォン・ザイトリッツ-クルツバッハ砲兵大将なのにパウルス元帥と混同したのといい勝負だ。
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ヒトラー論というのはまだそれほど読んではいないが、おそらく独特な位置を占める著作のような気がする。
「ドイツ」に詳しい著者ならではだと思う。
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内容よりも、訂正箇所の多さで話題の書。さらに中央公論新社のホームページから正誤表が探しづらい。本書の紹介ページからリンクを貼っておくべきだと思うが、そうなってなく探すのに苦労した。出版社側の隠蔽体質の現れとも捉えられる。その後電子書籍にもなっているようで、そちらの方は訂正がなされているのか確認していないが、私の紙の本は訂正で真っ赤だ。内容はヒトラーの登場に焦点を当てたもの。歴史学者というよりもドイツ文学者の著者が、ドイツを語る上で無視することのできないヒトラーについて、いくつかのエピソードを拾って紹介している。勉強になった。
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1920-40年代のナチス勃興隆盛期におけるドイツ市民事情とも言うべき書。ヒトラー史、ナチス史ほど高所から語るのでなく、当時の世相を様々な角度から切り出しており、
知られざる世の情勢を記した本。
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20190805〜0816 ナチス体制はなぜ短期間に実現したのか。国民がそれを支持し続けた理由は何か。ヒトラーの政治家デビューからヒトラーとナチスの人気絶頂期までを描く。第二次世界大戦直前まで、筆者の関心が強いエピソードに絞った内容なので、戦後の事柄まで知りたくなった。
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単に泡沫政党だったナチスが一躍数年で政権を獲得し、田舎紳士のヒトラーが独裁者へ。不思議な運命であるが、メディアの把握、ペンの力、そして拷問と収容所にそのカギがあるとの著者の指摘は全くその通りだと思う。ヒトラーの時代がテレビではなく、ラジオの時代だったことがパニック、狂気を助長させたとの説明は皮肉っぽいが実に面白いと思う。テレビであれば、さえない田舎人に映っただろうという。ヒトラーの時代に重要な政局の展開のたびごとに国民投票が実施されたとは、全く知らなかった。全く民主的な運営の元に生まれ、運営をしていたナチス政権。今、世界で、そして日本でも同じことが行われている。ナチスが権力を揮ったことが決して今後も有り得ないことではない、今の日本の動きを見ていてそう痛感せざるを得ない内容だった。ナチスは民主勢力の支持はほとんど得ておらず、その他大勢の浮動票を集めただけだったとは、喜べない過去の教訓だと思う。
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ナチス体制はなぜ短期間に実現したのか。国民がそれを支持し続けた理由は何か。ヒトラーの政治家デビューから人気絶頂期までを描く。
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池内紀の遺作である。ドイツ文学者として多くの訳本を書いていた時に常に「背後に1人の人物がいた」という。それがヒトラーだ。「だが、その男に歓呼して手を振り、熱狂的に迎え、いそいそと権力の座に押し上げた国民がいた。私がさまざまなことを学んだドイツの人々である」。だから池内紀は「自分の能力の有効期限」のうちにこの本を3年かけて書き上げたという。そして亡くなる3か月前に、この明晰な「あとがき」を書いた。新書ながらも淡々と事実を選び、文学者の視点で当時の社会状況が目に浮かぶように書いて完成させた。もともと不勉強な時代だったのでもあるが、私が学んだことはあまりにも膨大だ。その幾つかをメモする。以下は、私の覚書なので無視してくださっても結構です。(←)の中は、私の主観による感想である。ちなみに、池内紀は日本については一言の「ひ」も言及していない事を言い添えておく。
⚫︎1900年から1913年、画家志望のヒトラー青年がリンツとウィーンにいた間の詳しいことはほとんど知られていない。その間ヒトラー青年が交遊・庇護を受けた大半が、その名前からして明らかにユダヤ人だったからである。ウイーンにいた極貧の5年間をヒトラーは「最も悲惨な歳月」であり「世界観の基礎と政治の見方」を学んだと書いた。どうやらとりわけ憎悪の仕方を学んだようである。
⚫︎ヒトラーは、演説一本で突然注目された(←現代で言えば突然YouTuberになるようなものだろうか)。1920年党名をナチス(国民社会主義労働者党)に改称。2月24日、ヒトラーの演説日をナチ党大会記念日とした。ヒトラーが大衆に働きかける方法を自覚した日だったからである。
1.簡潔に断定して細かい議論はしない。(←「もし妻が関与していたら辞任する」と言って細かい議論を拒否した一国の責任者がいる。この方は「責任は私にある」を49回も繰り返しているが、一回も責任を取ったことがない)
2.単純化したロジックを用いて、相反する2つをあげ、二者選択を迫る。
3.手を変え品を変えて繰り返す。
⚫︎派手なポスター、飛行機からパンフをまく、有力者に演説レコードを送りつけ、トーキー映画をつくる。宣伝用キャッチフレーズに特有の文体を使う。簡潔で、文学的レトリックを備え、党首のカリスマ性を掻き立てる。
⚫︎絶望に瀕していた中流市民層と理想主義的な若い世代を捉え、保守派にも花を持たせた。そして、最初権力層はヒトラーを過小評価していた。せいぜい「共産主義の防波堤」として「利用できる人物」だった。1930年、ナチス第二党に躍進。1932年第一党。(←この過程は、あまりにも維新の党、N国党の躍進と酷似しているし、自民党の選挙戦略とも酷似している)
⚫︎1932年1月ヒトラー首相の内閣は、最初はナチスは2人のみ。ユダヤ人を目の敵にして、過激なことをうたい、政治を祝祭のように儀式化して、事あるごとに派手なデモストレーションを打って出るナチスに対してドイツブルジョワ・知識人層は大方は「呆然たる思い」だったが、「仕方ない」とした。ずっと内閣は半年しか持たず、混乱を鎮めるための差し当たり汚れ役を期待していたからだ。ヒトラーは直ぐに「ドイツ国民保護の���めの大統領令」を発令。最初はそっと踏み出し、「良識ある」閣僚は誰1人異議を唱えなかった。同年2月27日国会議事堂炎上、翌日「大統領緊急令」(もちろん本質は簡単にわからないように糊塗はしていた)発令、ワイマール憲法で認められていた言論の自由、報道の自由、郵便及び電話の秘密、集会及び結社の自由、私有財産の不可侵性などが一時的に停止。(←「翌日」というのが凄い。そして当然「一時的」ではなかった)翌月、最初で最後の総選挙、ナチスは全議席647のうち288、社民党120、共産党81、中央党74、国家国民党52、その他1だった。直後、ヒトラーは共産党の国会議員無効を宣言、結果ナチスが単独過半数になった。(←ナチスはバカだと思っていた知識人は、その用意周到、手段を選ばないやり口に完全に遅れを取った。今でも某国首相をアホという知識人は多いが、組織としての自民党はいつも戦略的に勝利している。この時ドイツ国民が大統領令の危険性を自覚して選挙で勝たせなかったら、とは思う。しかし、安保法や共謀罪法が成立した後に、選挙でその政党を第1党に祭り上げたのは果たして何処の国の国民だろうか)
⚫︎ナチズムの15年間、最初の戦時体制に突入するまでは、普通の市民にとっては「明るい時代」だった。ワイマール末期に600万台まで数えた失業者は、100万台まで減少した(政権奪取後に車産業にテコ入れ、雇用十数万人を創出失業者を減らした)。ドイツ国民は、一党独裁という極端な形であれ、手の施しようのない分裂状態よりはマシ。少し我慢すれば、自分たちの利益は確保できると希望を見出していた。1934年「長いナイフの夜」事件でSA隊長以下77名を粛正、腐敗に対する断固とした態度を示した。タバコの肺ガン物質の発見の後がん撲滅キャンペーンの世界的な最初、ヒトラー自ら禁煙を説く、「健康国家」の提唱。(←現代の不倫への極端なパッシング等々似た所がある気がしている)
⚫︎当時未だ数十万人しか試聴していなかったラジオは、33年発売して普通価格の1/8、一気に数百万人になった。「ドイツ国民に告ぐ」と始めて、政局の折々に、荘重な音楽が流れヒトラーお得意の弁舌が流れる。ヨーロッパは英米と違い、「部族の太鼓」たる人間の内面への働きに慣れていなかった。ラジオ聞き入り恍惚としたのである。ユダヤ人を槍玉に上げる際に、インフレでマルクの価値が1兆円分の1に下落した国民に向けて、インフレ的に演説した。「最初のユダヤ人」を邪悪な敵として攻撃する。続いて国内のユダヤ人、占領地域のユダヤ人、最後には100万単位で絶滅させるべき「社会の害悪」として攻撃した。(←嫌韓は作られている。日本国民は気がついて欲しい。反対に嫌中は巧妙にトーンダウンした)
⚫︎33年ゲタシュポ(秘密警察)は200-300人、40年には1100人になった。共産党員を「半ナチ陰謀」をでっち上げ、逮捕・勾留・拷問を繰り返した。どれだけが逮捕・拷問されたかは不明だが、Mの姓だけでも45年までに3万4591人が検束され、辛うじて生き延びても強制収容所へ護送された大半が殺された。
⚫︎独裁制の完成は32-33年の2年以内で急速に巧妙に完全に行われた。(←まるで十数年このために準備した知識人かいたの如くだ。現代日本ならば30年かけてやってきて、あと少なくとも10年は必要な法律ばかり。世界初だったからか)
⚫︎ナチスの膨張時代、33年までの10年間、実は国家人民党、中央党、社会民主党の得票率に変化はない。ナチスは浮動票を攫ったのだ。ドイツ経済の破綻と社会不安、ヒトラーは仮想敵を名指しして、繰り返し、浮動票取り込んだ(←現代日本とよく似ている)。政権奪取後、1年で全ての党を解党に追い込んだ。小都市では、時流に敏感な小市民は小狡く小さな権力者にすり寄っていった。(←結局、社会の空気と絶妙な時代のタイミングがナチスを躍進させた。10年前の日本でも社会の空気と閉塞感は十二分にあっただろう)
⚫︎亡命ハンドブック『フィロ・アトラス』が38年12月に出た。(←このひとつひとつを追っていけば、映画が出来る)
⚫︎大不況の最中に首相になったヒトラーは翌日に「我々に四ケ年の猶予を与えよ、しかるのち批判し審判せよ」と大見得を切った。誰もがいつもの大ボラと思った。フォルクスワーゲン構想、自動車専用道路計画、その他で4年後失業者は1/6の100万人に減っていた。この最初の5年間を「平穏の時代」という。36年にオリンピックがあり、独裁制の国際批判を明るいイメージに修正させた。35年住民投票でザール地方がドイツに復帰、ヴェルサイユ条約破棄、再軍備、38年オーストリアを併合、チェコのズデーテン併合。(←この政局の節々で国民投票をやっている。だからナチスは民主的な政権だと自己主張していた。政局の節々で総選挙をやった某国と良く似ている)
⚫︎作家のケストナーは「雪の玉が小さいうちに踏み潰さなくてはならない。雪崩になってからでは、もう遅すぎる」と言った。
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ナチス政権の樹立を描く。ドイツ文学者が生涯執筆を願っていた渾身の遺作。
ワイマール憲法下、泡沫政党だったナチが政権を掴む過程、あくまで民主的な方法によりじつげんしていく。魅入られるようにヒトラーに声援を送る第一次世界大戦の敗戦国のドイツ国民。その謎に迫っていく。
ヒトラーが4年で死んでいたら、全良な政治家として名を残したという旨、ある作家が言っている。アウトバーン、国民車フォルクスワーゲン、劇的な価格のラジオの開発など。
最終章ではドイツの一般人について。ごく普通の人々がナチス政権を支持し戦争に突き進む姿を想像する。
池内紀の遺作。誤りが多いというが推敲ほか遺された時間がすくなかったのだろうか。確かに複数の章で重複した記述が見受けられる。
それでも筆者のメッセージは十分に伝わってくる。
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2019年のこの1冊(毎日新聞)に掲載されていたことをきっかけに読んだ1冊。
ヒトラーが台頭した当時のドイツの歴史的背景についてや、ヒトラー率いるナチスがどのようにして独裁政権を勝ち取り維持してきたのか、詳細ではないにせよアウトラインを十分に理解できる1冊であると思う。
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表向き合法的に、非常に素早く、ナチスの時代になってしまったのか。
日本で、世界で、再び三度起こりうる恐ろしさを知らせていただいた。
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「えっ?」と思うことも、それは現在からみているから思うわけで、自分がその時代にいたら、例え違和感を感じたとしても長いものに巻かれていた、と思う。現在は、どうだろう。どうだろうか。
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現代に歴史として学ぶと凄まじいことをした人だえど、
その時代には熱狂的に迎え入れられたという。
一度独裁体制ができたら突き進むのみ。
いまの日本にこういうことがないと言い切れないのが、こわい。
混沌と、混乱と、人々の不満は、恐ろしいものを生み出す可能性を秘めている。