紙の本
若い頃はあまりよく理解できなかった
2021/08/31 22:42
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投稿者:qima - この投稿者のレビュー一覧を見る
再読して、当時の氷室さんの年齢をかなり越えて、やっと書かれている内容が理解できた気がします。新版の出版に感謝!
紙の本
大人になった『ジャパネスク』世代に
2021/08/30 18:49
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
『なんて素敵にジャパネスク』シリーズを夢中で読んだ世代には、懐かしく、そして意外な感じがするかもしれない。あの氷室冴子さんも、こんな悩みを抱えていたのだと。
1992年に刊行されたエッセイ集の新版だが、#MeToo運動の高まりを受けた現代にも通ずる内容に驚いた。
男性目線のステレオタイプがはびこっていた(いる)社会で、女であるが故に生じる悩みや困難が、氷室さんらしい軽やかな言葉でつづられている。大人になったジャパネスク世代には共感できることが多いと思う。
紙の本
彼女がいないことがさみしい
2021/12/07 13:01
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投稿者:みよし - この投稿者のレビュー一覧を見る
氷室冴子さんの少女小説を読んで育ちました。
あの輝かしい活躍の裏で、悩んだり憤ったりしていたんだなと、感慨深い気持ちになります。
今、この時代に彼女がいたらどんなエッセイを書いていたんだろうな。
カバーのイラストがすてきです。
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読んだ理由: クララ白書が大好きだったので。
1992年発行だけれど、時代の感覚はそれほど変わっていないことに驚く。セクシャルハラスメントという言葉が出てきて、今までモヤっとしていた不愉快な出来事が、多くの女性が感じていた事なんだと気付くエピソードや、久しぶりに会った既婚の友達が夫の愚痴しか言わずがっかり、など ”あるある〜” と共感しながら読んだ。
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時を経てなお生きる言葉のひとつひとつが、呼吸を楽にしてくれる――。大人気小説家・氷室冴子の名作エッセイ、待望の復刊! 解説 町田そのこ
そんなものかなと生きてきた。
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女が生きる上で感じている違和感を描くエッセイ。
時代が変わっても変わっていない部分が大きいことに驚く。
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かつて少女だったわたしにとって、氷室冴子はある意味フィクションで実在しないかのような別世界の人だった。
少女小説を読み漁っていたあの頃、作品の登場人物と同じように、氷室冴子というのは少女小説家であって生身の肉体を伴わないものとしてわたしの中に存在していたのだ。
あれから数十年経った今、このエッセイを読んでようやくわたしの中の氷室冴子に血が通い、肉体を持ち、わたしと同じ『女』なのだと思えた。
こんなにも愛に満ちていて、シニカルかと思えば情熱的で、なんて魅力に溢れた女性だろうか。
『わかる』などと口にしてはいけないけれど、今も消えない女の生きづらさをかつてはもっと大きく感じていただろうことが、30年の時を超えてこんなにも伝わってくる。
氷室さん、2021年のこの現状をあなたならどう言葉にしてくれたのでしょうか。
今もなお残る女の生きづらさを、芸術の今の姿を、大量消費されるための安っぽいテンプレ物語の山を、あなたの目にはどう映るのか、叶うことなら聞いてみたかった。
これを書いた時の彼女の年齢を越えてしまった今、わたしは『いっぱしの女』だろうか。
わからないけれど、自信や余裕をなくしたときはわたしもおまじないのように自分に言ってみようとおもう。
もう、いっぱしの女なんだから。
しかし、少女小説を『処女でなければ書けない』とはどういう根拠というかどういう方程式なのだろう。
むかしから『処女』というものに理想とか聖性を押し付けすぎてるよな。
男を知ったからなんなんだっつーのと声を大にして言いたいね。
知って何かがかわるほど男というものが偉大な何かだとでも言いたいのだろうかと、訝しんでしまう程度に男性的な勘違いだよね。
かつて処女だったことがあるからわかるけど、人生変わるわけでも悟りが開くわけでも物語が書けなくなるわけでもねえよ。男に(あるいはセックスに)そんな大きな力はない。思いあがってんじゃねーよバァカと発言者には言ってやりたいものだ。
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さようならアルルカン、白い少女たち、クララ白書、アグネス白書、シンデレラ迷宮、シンデレラミステリー、恋する女たち、雑居時代、少女小説家は死なない!、ざ・ちぇんじ、なんて素敵にジャパネスク、なぎさボーイ、多恵子ガール……
ちょいとマセた小学生が児童文学に飽き足らず、大人の階段のぼる読書にハマるにうってつけのコバルト文庫。
そういえば、シンデレラ迷宮のあとがきに登場人物ジェーンの由来があって『ジェーン・エア』を手に取ったのだった。11歳だった。
復刊エッセイ。
いっぱしの女として。独立して生きていく上で、断絶する社会と、友人たちとの違和感。少女小説家は世間とどう抗っていたのか。その怒りと行動に、思わず(わかる……)と苦笑していると、ピシャリと叩かれる。
「私たちはふだん、友人だから、女同士だから、親子だから、恋人だからという理由で、相手の何かをわかった気になっているけれど、それ自体は、なんの根拠にもならない」
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30年前の作品とは思えないほど現代に通じるフェミニズム&シスターフッド。そのような言葉はまだないのでレズと表現されているのに時代を感じる…
ただ、「男は奢って当たり前」という価値観はこの頃には最新だったというのが驚きなんだけど、本当か?!
30歳過ぎて(私はまだ過ぎてないけれど)女友達が昔とちょっと変わってしまった淋しさ、男は男でオトナぶっていて、それを冷ややかに見たい一方で自分だけオトナになれていないようなやはり淋しさ、でも自分はプライド持って生きてるしどこかに仲間だっているんだから、という意地に大いに共感、元気が出た。
なんなら最後の対談の貧乏暮らしエピソードにもめちゃくちゃ元気もらった。マジ生きるぞと思った
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中学生の頃にまわりで大ブームだったけれど、ちょっと遅れて高校生になってからあれこれコバルト文庫で読んでいた(そのせいか、「クララ白書」や「なんて素敵にジャパネスク」シリーズのような代表作は実は読んでない。最初は「シンデレラ迷宮」だったかな?)。そのあと、愛あふれる翻訳少女小説ブックガイド「マイ・ディア」と復刊された角川マイ・ディア文庫にどっぷりはまったのは大学生のときか。
そんな少女小説のパイオニア氷室冴子さんのエッセイ。
中高生のわたしたちを夢中にさせていた80年代後半から90年代はじめ、ちょうど30代にさしかかった頃の氷室さんの考えていたこと感じていたことは、30年経った今読んでも古びないどころか、あ、わかるな、と思うことばかりで(かんたんに「わかる」ですませてはいけない、と氷室さんには叱られてしまうが)、今の自分はそのころの氷室さんよりずっと年上になってしまって読んでいるのが不思議な気がする。
引用したくなるような文章ばかりだったが、なかでも「とてもすばらしかった旅行について」が印象深く、「やっぱり評論もよみたい」には打ちのめされた。
わたしより15歳年上で、親や世間からの結婚への圧もいまに比べたらずっとずっと強かった30代独身の彼女が、あるいはいま以上にマチズモに支配されて「女」が不自由だった中で彼女が感じていた理不尽や無力感、辟易、憤懣、自戒、そしていまの言葉で言えばシスターフッドが痛いぐらい感じられて、そうしたものが当時読んでいた作品からもにじみ出ていて、自分をとりこにしていたのかもしれない…もう一度あれこれ読み直してみたくなった。
1957年生まれ、もしご存命でこの世界を見ていたらどう感じただろう…と考えずにはいられず、ちょっと調べたところ、ちょうど同じ年頃といえば、高橋留美子、柴門ふみ、そして斎藤美奈子がいるとわかった。斎藤美奈子といえば、氷室冴子も愛してやまなかった翻訳少女小説をあらためて読み解く「挑発する少女小説」をちょうどだしたところなのが奇遇。斎藤美奈子にこの本の感想を聞いてみたい。
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1992年に単行本として出版されたエッセイ集の新版。
女性に対する世の中の見方も良い方に変わってきたといえば、そうではあるが根底にあるものは変わってはいないのではないかと、この本を読むと感じる。
エッセイといっても年月が経つと、時流にあわず、古さを感じてしまうものもある。しかしこの作品は、30年も前に書かれたものなのかと驚かされる。
30年を経ても、古さを感じさせない、普遍性のある作品である。
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氷室さんのことは「海がきこえる」以外知らずになんとなく読んだのだけど、小気味良いエッセイで、元気出た。
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202109/新版で再読。1992年の刊行、なのに今もこの時とあまり変わっていないことにショックを感じつつ。まだまだ氷室冴子たくさん読んでいたかったなあ…。
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セクハラもマンスプレイニングもトーンポリシングも、ぴたりと当てはまる単語が生まれる前からずっとあった。
それを既存の言葉でするすると言語化し、怒ってみせる著者。
キレっぷりがかっこよくて憧れる。
とくに好きな章は、
「詠嘆なんか大嫌い」「とてもすばらしかった旅行について」「一番とおい他人について」「それは決して『ミザリー』ではない」
連帯しながらもそれぞれに孤独を抱えている女性たちの描かれ方、尊重のされ方が印象的だった。
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なんだか「女である」ということに疲れていた、そんな時に出会った一冊。
20代の頃は結婚しなきゃと焦りを感じていた。
そして結婚して5年経つ今、私は出産に対して焦りを感じている。
周りからの「子どもはまだ?」という言葉にひっそりと傷つき、プレッシャーを感じ、勝手に後ろめたさと劣等感を感じている。
子どもはほしい。でもその私自身の気持ちの他に、他者からの重圧から逃れたい、という気持ちがあることがはっきり否定できない。それが悲しい。
周りも私自身も、「この年頃の女はかくあるべき」という過去の価値観の呪いから脱し切れていないのだ。
こんなこともあった。
職場でわたしはある役員の書いた原稿の校正作業をした。特に命じられたわけではないが、私がやらなければ誰もやらず、そのまま世間に出版されてしまう。原稿を書いた役員の意図を損なわないよう、連絡を取りながら、通常業務の合間を縫ってやった。役員の方はその仕事を評価してとても感謝してくれた。
でもその後、私の直属の上司と私とで2人で話していた時に言われたことが忘れられない。
「あの人は女性に優しいからな。女性は得だね」
あの言葉にどんな意味が込められていたのかはわからない。もしかしたら嫉妬があったのかもしれない(ちなみにその役員の方は性別の差で態度を変えるよな人ではなかった)。
あの上司の言葉は、私のした仕事や私個人の存在を否定し、この本の言葉を借りるなら、逃れようのない私の〝女(性別)〟の部分だけを切り取って、かつ女性というものを見下したニュアンスを含ませて放たれた言葉だった。
奇しくも、そんな33歳(このエッセイを書いていた氷室さんと同じ歳)の今、エッセイを読み、私は幾分か救われた想いがした。著者は私が普段違和感を感じる〝女〟を取り巻く状況を冷静に言語化し、不条理なものを断じてくれていたから。
この本がリアルタイムで出版されてから数十年が経ち、女性(に限らず性別に関する意識や固定概念)を取り巻く環境は少しずつ変わっていると思う。
(特に若い世代は。上の世代はまだまだ変わっていない部分がたくさんあると思う。)
女性(に限らずすべての人)が、押し付けられるジェンダー観に傷ついたり違和感を感じることなく、〝いっぱしの女〟と意気込まず〝いっぱしの大人〟と言えるような、そんな世の中になってほしいし、私自身も変えていきたいな。