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紙の本
可憐なタチヤーナをバレリーナがどう演じるのか、観てみたい。
2012/04/02 16:49
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:きゃべつちょうちょ - この投稿者のレビュー一覧を見る
わたしはこの本の存在さえ知らなかった。
三浦雅士の「バレエ名作ガイド」を読んで
プーシキンの「オネーギン」がバレエになっていることを知り、
そのあらすじと解説を読んで、なんだか気になり、手に取った次第。
バレエのほうは残念ながら映像化されていないようで観ていない。
「アンナ・カレーニナ」にはなれなかったタチヤーナが、いいと思った。
でも、我慢しているふうにみせなければ、もっとよかったと思う。
決定的すぎるわりには、まるで意味のない一言。言ってはいけなかった。
あの一言がなければ、タチヤーナがもっと凛として輝いていられるのに。
そこだけが残念。オネーギンにはもっと挫折感を味わわせなければ!!
この文庫には「オネーギン」本文のほかに、訳者のあとがきとエッセイが付いている。
プーシキンのほかの短い作品を入れるわけにはいかなかったのだろうか。
ちょうどよいページ数のものが見つからなかったのか、といぶかしげに読んだが、
これがけっこう興味深いものがあった。
エッセイは2篇も付いていて(びっくり!!)
翻訳についてと、無冠のプーシキン研究者についての文章だった。
プーシキン研究者について書かれたものがとくに印象深かった。
鳴海完造という人は、筋金入りのプーシキン研究者で、蒐集家でもあった。
蔵書はプーシキンに関するものだけで千冊にもおよび、その他ロシア文学が三千冊!!
マニアもここまでくれば立派なものである。
しかもお金に不自由しなかったわけではなくむしろ貧乏な勤め人だったらしいのだ。
なんとかやりくりしながら、モスクワまで本を買い求めに行った経験も持つ。
鳴海の、プーシキンが好きで好きでたまらず、こつこつと本を集めていく姿に、
単なるマニアを超えるパッションを感じる。
そして「オネーギン」の訳者である池田健太郎の感想。
「足らぬがちの生活の中を、気兼ねしいしい、やむにやまれず買う、
それを蔵書の心とよびたい」
この言葉が、もしかすると小説本文よりも胸にささったかもしれない。
それにしても、鳴海完造の奥さんも大変だっただろうなと苦労がしのばれる。
プーシキンは、「スペードの女王」のタイトルだけは知っていた。
今回「オネーギン」を読んで、ほかの作品も読んでみようかなという気になった。
たぶん「バレエ名作ガイド」で「オネーギン」の存在を知るきっかけがなければ、
プーシキンという作家の本を手にとることもなかっただろうし、
四千冊ものロシア文学のコレクターのことを知ることもなかっただろう。
不案内の世界を覗くことができた読書だった。近づくきっかけというのを、大切にしたい。
紙の本
「スペードの女王」より小説らしい
2020/05/29 14:29
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:のび太君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
チャイコフスキーのオペラの元になったことでも知られる作品。「スペードの女王」よりもずっと小説らしく、人物の表現も豊かである。
紙の本
明治時代にこの話にであった人には衝撃だったのかもしれません。ロシア文学史上に燦然と輝く韻文小説の金字塔だそうです。でも、構えず現代小説と比べてみれば、やっぱフツーかな・・・
2006/10/29 16:53
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近、改版を契機に読み始めた岩波文庫の名作の一冊です。ま、自分の記憶力の悪さには呆れるんですが、プーシキンでは既に、同じ文庫で『スペードの女王』『大尉の娘』と読んできていますが、正直、同じ作家とは思わずに読んでいました。読後感としても、個人的には『大尉の娘』のほうが面白かったんじゃあないのか、なんて思うのですが如何でしょう。
文庫カバーには
「純情可憐な少女タチヤーナの切々たる恋情を無残にも踏みにじったオネーギン。彼は後にタチヤーナへの愛に目覚めるが、解きすでに遅く、ついに彼の愛が受け入れられることはなかった・・・・・・。バイロン的な主人公オネーギンは、ロシア文学に特徴的な〈余計者〉の原型となった。ロシア文学史上に燦然と輝く韻文小説の金字塔。散文訳。」
とありますが、何処が金字塔なのか、それが今でも金字塔たりうるか、そういう視点は必要でしょうね。まして、「散文訳」とあります。ということは、他の形式の訳文があるんでしょう。それが謎解きされているか楽しみに解説を読んだのですが、一切触れられていません。そんなことなら気になる注なんか書かなければいいのに。いや、大した経費ではないでしょう、そのことについて説明すればいいのに、なんて思います。この不親切さが岩波の姿勢だとすれば、問題でしょう。
ちなみに訳は池田健太郎ですが、全体を読むと新訳ではなくて、単なる改版。粋なカバーカットはプーシキン自画像。目次を写しておけば
第一章 ふさぎの虫
第二章 詩人
第三章 令嬢
第四章 村で
第五章 名の日の祝い
第六章 決闘
第七章 モスクワ
第八章 社交界
訳注
後期
付録
翻訳仕事から 学んだものと失ったもの
偉大なる書痴・鳴海完造
となっています。話は、長いものではありませんし、内容紹介にある「主人公オネーギンは、ロシア文学に特徴的な〈余計者〉の原型」というのがよく分かるような物語です。むしろ特徴的なのは、語り手が誰であるのか、ということではないでしょうか。主人公でも神でも、どうも作者でもない、なんとも不思議なものです。果たしてこの訳文が正しいのか、というのも気になりはします。
それに、最後のタチヤーナの発言ですが、これは男の側からの夢でしょう。実際には、こういうことはありえない。女はこんなに甘くはない、そう思います。同じ俗っぽい物語なら『大尉の娘』のほうが、確実にエンタメしている。そういう意味で、『オネーギン』は中途半端。やはり、文学史の中で語られるべき名作ではあっても、現代人を納得させるまでの力はないようです。