紙の本
ゾルバというこのたまらない男
2009/06/10 16:50
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本も現在は入手不可らしい。なんたることか。
クレタ島出身で20世紀のギリシャ語文学を代表する作家の代表作。男の名は「ゾルバス」が正しいが、英語では紛らわしいので「ゾルバ」として映画化され、日本でも公開されたその映画が人口に膾炙したためにあえてこのタイトルになっている由。
とにかくゾルバが素晴らしい。うねるような語りの中で、動物へ、悪魔へと生成変化するゾルバ、神を信じないゾルバ、文字を信じないゾルバ、そのくせ感動的な手紙を書くゾルバ、と、きわめて魅力的な人物像で、語り手の貧血ぶりが、まあ、このゾルバの人物像を際立たせるためのギミックのようにさえ見える。前半はややかったるいが、後半、三通の長い手紙がはさまり、女たちが死ぬクライマックスから、最後の部分まで、巻を措くあたわざる面白さであり、語り手がクレタの自然に触れるおおげさで「詩的」な描写も、あまり気にならなかった。著者の伝記を読むと、どうやらこの小説はほぼ実話を基にしているのだそうで、ゾルバは実在の人物らしい。まあある意味で非常にシンプルだが非常に繊細で複雑なこのような人間はなかなか創作で生み出せるものではないのかもしれない。熱烈復刊希望。
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史上最高小説100の一冊。とても印象的な一冊だった。普段行かない図書館で、ばっちりであったという感じ。
いろいろなテーマが重層的に折り重なり、クレタ島の物悲しい土地や、そこに棲む人々、その疎むべき慣習と欲望などに分散され空間を形成していく。しかし一番重要なテーマはタイトル通り、ゾルバ、その人である。
本の虫と揶揄され、自身の限界にもぶち当たったインテリである主人公が、クレタ島の亜炭鉱を借り受け、そこにおいて汗と労働による新たな人生の始まりを決意したときに出会ったのが、還暦を越えるような大きなギリシャ人、ゾルバであった。主人公は35歳ぐらいだっただろうか。とにかく年の離れた、おいてなお野蛮なゾルバに心打たれひかれた主人公と、そのゾルバの言葉と生活の物語である。
ゾルバとは何者か。この辺を何度もよんで掘り下げたい。主人公の親方はゾルバを亜炭鉱の現場責任者として雇う。要するに亜炭鉱夫というのが、ゾルバのこの物語での肩書である。その男、ゾルバはキリスト教を基とした道徳観や倫理観、シルクのように純粋でやわらかで観念的なよきものはすべて吹き飛ばすような、荒々しさの一番初めの純粋な残滓である。粗野で野蛮で、いわゆる教養はない。しかし馬鹿ではない。それはゾルバという真理体系に人々を引きこむ、力強い哲学がその血に下半身に流れているからである。めくり続けた本のページには刻まれていなかった、そのようなゾルバの、逃れようのない求心力、言葉、汗、涙、踊りに主人公は打ちのめされる。そして私自身も打ちのめされたような感覚になるのである。
物語の底流には、ギリシャという過去に打ち捨てられた土地の物悲しさがある。歴史の、人情の不条理が嫌というほどにしみついている。カスカスに搾り取られたような乾いた国、ギリシャ。訳者のあとがきにもこのことが語られているが、物語の中でもそれを多く感じる。一神教であるキリスト教の慣習的信仰を受け継ぐ土地であるが、主人公はインテリゆえにその信仰も捨てている。すべてを客観的に遠のかせてしまうような心を慰める方法は、その悲しみ自体が人間である、歴史であると自分に言い聞かせ、受け止めてしまうことではないか。それゆえに汎神論が首をもたげてくる。小さな人間、あらがうことのできない自然の気まぐれ。それを受け止めることであきらめるのではなかろうか。
しかしゾルバはその汎神論の、いわゆる自然の一部であることを心ゆくまでに味わい尽くしているのである。そこに悲しみはない。ゾルバは悲しみではない。「酒、女、踊り、厳しい労働」このことのためにユグドラシルのように歴史と土地に根を下ろす。人間と自然は向かい合う存在ではない、人間も自然であるのだと、本能とその白い歯をむき出しにしつつ、ゾルバは私たちに語りかける。そこには未知の自由が、解放がある。
本当に心をとらえる一冊であった。ここ最近出会った小説の中では、群を抜いて実存感がある。あくまでも宗教的に生きる正しさを信じる私にとっては、この一撃を真剣に受け止めたい。
完全にキリスト教のアンチテーゼとして描かれているゾルバであるが、一部イエスと重ねざるをえ��い表現もある。例えば、後家女が村人に囲まれるシーン。殺せと息巻く村人に対して、止めろと割って入り取っ組み合いをするゾルバは、姦淫の女を許すイエスの姿とそのまま重なる。しかし結果は違う。イエスは救ったが、ゾルバは救えなかった。あくまでもキリスト教との対比がある。そこに現実の物悲しさが強調される。そのほかにも、一つの超越した理論と説得力、交友関係、奇跡物語など、そのすべてがアンチキリスト的であるが、イエスとの対比と思わざるをえない。カザンザキスの他の著作に、イエスの真実に迫るような寓話があるのを思うと、それは確信的である。
“消えかかった火の傍らで、たった一人、私はゾルバの言葉をいろいろと考えていた―それは意味が豊かで、温かい土の匂いがする。それは、彼の内部の深いところから出たもので、人間の温かい体温が感じられる。私の言葉は紙で作られたものだ。それは私の頭から出たもので、ほとんど血の一滴すらはねかかっていないのだ。もし言葉に価値というものがあるとすれば、それは、その血の一滴によるというのに。”
ジム・ホール&パット・メセニー「cold spring」を聞きながら。
13/9/22
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カザンザキス『その男ゾルバ』(1967、恒文社)を読む。
原著は1946年の現代ギリシャ小説。現代東欧文学全集に収められています。
主人公「ぼく/私」は友人に「本の虫」と呼ばれる有閑知識人。祖父の遺した鉱山を相続し、その経営のためクレタ島に渡る。
道中の船で無骨な老人ゾルバと出会った「ぼく」は、なぜか意気投合して現場監督として雇い入れ、クレタ島での生活を共にする。
理想主義のお坊ちゃんと現実主義の労働者ゾルバ。静かななかにもユーモアあふれる掛け合い。(それ自体が狙いのウッドハウスほどではありませんが)
【本文より】
◯「わしも人間じゃねぇかね。盲目ということですがな。人と同じように、わしも、まっさかさまに、みぞへ落っこちたわけでさあ。つまり結婚しましてね。人生も落ち目を選んだってわけで。一家のあるじになって、家を建て、子供をつくりましたあ。ーそいつが面倒の始まりで。しかし、サンドゥリ(楽器)のお蔭で!」
◯「はっきりしておくんなせえ。もしおまえさんがわしに無理じいなさると、何もかもおしめえだ。こういうことについちゃ、わしは男だというこたあ、覚えておいてくだせえ」
「男だって?どういう意味だね?」
「そりゃ、自由!ってことでさあ!」
◯まるで、死が存在しないように行動することと、一刻一刻、死を思いながら行動することは、多分同じことなのだろう。しかし、ゾルバがたずねたときには、私にはわかっていなかった。
◯私の祖父は、生涯、村を出たことがなかった。カンジアへも、カニアへも行ったことはなかつまた。
「なぜ、そこへ行かなければならない?カンジアやカニアの町のものが、この村を通るじゃないか。カンジアやカニアがわしのところへ来るというのに、なぜわしがそこへ行く必要があるんだ?」といったものだった。
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23歳の時に読み、人生観が変わりました。
読売新聞社「石の庭」
同じく「兄弟殺し」
みすず書房「アッシジの貧者」
更に読みたくて、ギリシャ語、フランス語は読めないので英訳を船便で取り寄せて読んだほど、熱中しました。
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読み終わるまでにものすごく時間がかかった。
二段組みで、活字が古くて読みにくいということもあったけれど、100年近く前のクレタ島が舞台になっていて、その価値観も、文化的背景も今とは随分違うために、話しの内容が頭の中にスッと入ってこないというのが大きかった。
文明的・理知的な語り手である「私」が、感情と本能のおもむくままに行動する「ゾルバ」に影響を受けて、だんだんと自分の殻を破っていくというような物語で、その点は、二人の人物の対比がとても明確になっていて、面白い。
身近な例でいえば、寅次郎とヒロシのような組み合わせの二人で、それぞれ違う生き方をしていて、時には対立しながらも、しかし、心の中ではお互い尊敬し合っている。
この二人によって、「体験」と「知識」、「理論」と「感情」、という二項対立をさせながら、「人生とは何か」というようなことを問う、かなり大きなテーマの話しになっている。
話しについていけなかったのは、登場人物たちの道徳観がだいぶ、今とは基準が違っているようで、「そんな展開ありえるの!?」ということが色々とあったところだった。結構、みんな適当なところも多いし、あっけなく殺したり、盗んだり、奪ったり、目茶苦茶なハプニングも起こる。
西洋とはいえ、キリスト教的な価値観ではなく、もっと原始的な古代ギリシャ風の価値観が優勢になっていて、多神教としてのゆるさや、快楽主義が浸透していた土地ということなのだと思う。
「おまえさんになにがいえるかねえ?」彼は、私をおしはかるようにしながら続けた。「みるところじゃ、おまえさんは一度だって、飢えたことも、殺したことも、盗んだり、姦通したりしたこともねえようだ。それで世の中のことがどうして分かるんですか?罪のねえ頭を持ってなさるんだ。身体だってほんまに太陽にふれたこともねえ」明らかに軽蔑をこめてつぶやいた。
私は自分の繊細な手、青白い顔、泥や血にまみれたことのない私の人生を、恥ずかしく思ったのだった。(p.50)
「おまえは何も信じないというのだね?」私はいらだって怒鳴った。
「その通りで。わしは何にも信じちゃいません。何度いわせりゃ気が済むんですかい?わしは何にも、誰も信じちゃいませんぜ。わしの身、ゾルバの他にゃな。そりゃ、ゾルバが他の人間より上等だからというんじゃねえ。そうじゃ決してねえ!ゾルバも他の奴らと同じように畜生でさあ!それでもわしゃ、ゾルバを信じとる、そりゃ、こいつだけは私の手に負えまさあ。こいつだきゃ、わしも知っとりまさあ。他の奴ら、皆、幽霊だ。わしゃこの目でみらあ。この耳で聞かあ。この腹で消化すらあ。他の奴ら皆、幽霊だ。わしが死んでしまや、皆いなくなる。ゾルバ的な世界は沈んでしまうってわけでさあ!」
「何という利己主義だ!」私は皮肉な調子でいった。
「仕方がねえ、親方!こういう具合なんでさあ。わしが豆を喰う。豆の話しをする。わしはゾルバでさあ。それでわしはゾルバのように話す」
私は何もいわなかった。ゾルバの言葉が鞭のように私を打った。私は彼が非常に丈夫で、あれほど人間を軽蔑し、しかも同時に彼らとともに生き、働くこと��望んでいるので、ゾルバに敬意を表していた。私は隠者になるか、人間に我慢出来るように、にせものの羽根で彼らを飾るか、しなければならなかったのだった。(p.86)
この男は学校教育など受けたことはなかった。それで、彼の頭は変にゆがんでいないのだ。精神は常に開き、心はその原始的な大胆さを少しも失うことなくますます大きく成長してきたのだ。私たちが複雑で解決出来ないでいるあらゆる問題を、ちょうどアレキサンダー大王がゴルディウスの結び目を剣で切ったように、ゾルバはみごとに解き放つのである。彼の両脚は全体重の重みで大地にしっかりと植えつけられているので、自分の目標を失うということはなかった。アフリカの土人は蛇が体全体で大地に接触し、したがって大地のあらゆる秘密を知っているに違いないというので、蛇を崇拝しているということである。蛇は大地の秘密をその腹で、その尾で、その頭で熟知している。常に母なる大地と接し、交わっている。同じことがゾルバについてもいえよう。私たち、教育をうけたものは、空を飛ぶ頭の空ろな鳥に過ぎないのであろう。(p.96)
「女はすこしばかり違いますぜ、親方・・少々違ったもんでさあ。女は人間じゃねえ!何で恨みなど持てますかね?女はまったく分からねえ奴でさあ。国の法律も宗教の掟なんてものも、女についちゃ間違ってまさあ。女に対して、そんな風にするもんじゃねえ。法律や掟なんて、女に対しちゃ、ひどく厳しすぎまさあ、あんまり不公平でさあ、親方。もしわしに法律を作れってことにでもなりゃ、わしは男と女に同じ法律を作るってな馬鹿なことはしねえ。男に対しちゃ、十戒でも百戒でも千戒でも結構でさあ。男は結局、人間だ。男はそれに耐えられまさあ。ところが女にゃ一つだって、掟なんてものはだめだ。(p.125)
「おまえさん、面倒はいやだというのね!」ゾルバは、呆然として叫んだ。「じゃたずねますが、一体何が欲しいのですかい?」
私は答えなかった。
「人生は面倒でさあ」ゾルバは続けた。「死は面倒じゃねえ。生きるって、どういう意味か分かってますか?バンドをはずして、面倒を求めることですぜ!」
私は、それでも何も言わなかった。私にはゾルバが正しいことはよく分かっていた。よく分かっていたが、敢えてそんなことは出来なかった。私の人生はまちがった道を歩んできたのだ。人びとの交渉も単なる独白にすぎなくなっていた。私はひどく堕落してしまっているので、もし私が女と恋に陥ることを恋について書いた本を読むことのどちらかを選ばなければならないとすれば、私は本の方を選ぶことにするだろう。(p.140)
彼はやっと選んで、悲痛な調べを弾き始めた。時折、彼は横目で私をみた。私には彼が言葉でとてもいうことが出来なければ、それをサンドゥリでいってるのだ、ということは分かっていた。それは私が人生をいたずらに空費しているのだということ、後家も私も太陽のもとで、ただ一瞬の間だけ生き、永遠に死んでしまう二匹の昆虫にすぎないこと。もう二度とかえらないのだ!もう二度とかえらないのだ!(p.141)
後家は立ち止まって、腕をのばして、門の戸をおしあけた。その時、私はちょうど女の傍を通り過ぎた。女はあたりを見まわし、まゆをあげると、私をじっと見た。
女は門の扉をあけたままにして、オレンジの木の向こうに腰をふりながら消えていった。
あの門から入り、しんばりを下ろし、女のあとを追いかけて、腰を抱き、一言もいわず、彼女のひとり寝のベッドに女をひきずっていく、これが男らしいということなのだろう!私の祖父ならはそうしたことだろう。そして、私は自分の孫もそうしてくれればいいと思う!しかし、私はそこに柱みたいにつったって、ことをあれこれ考慮し、思案しているのである・・
「別の人生で」と私は苦笑しながら、つぶやいた。「他の人生で、これよりましな振舞いが出来るだろう!」(p.164)
人の人生は、急な坂の上り下りした道路みてえなもんでさあ。まともな連中はみなブレーキを使いまさあ。ところで、多分ここが、わしがどんな作りの男かの見せどころってわけで、親方。わしはもうずっと前に、わしのブレーキは捨ててしまったんでさあ。昼も夜もわしは好きなことやって、全速力で走りまさあ。もし、わしが停まって、それでこなごなにつぶされでもすりゃ、それだけ悪いってわけでさあ。わしが何をなくするというんで?何もありゃしねえ。もし、わしがゆっくりしてからって、結局いきつくところは同じじゃねえですか?もちろんそういうことになりまさあ!だから、目茶苦茶にとばしていきましょうぜ!人は誰でも馬鹿なところがありまさあ。ところで最大の大馬鹿という奴は、わしの考えじゃ、馬鹿なところが一つもねえということでさあ。(p.192)
私は返事をしなかった。私はこの男が羨ましかった。彼は血の通った生身で生きてきたのだ。戦い、殺し合い、女にふれる、これらをみな私はペンとインキだけで知ろうとしたではないか。このような問題をすべて私は孤独の中に椅子にへばりついて、一つ一つ解決しようとしたのだ。ところがこの男は山の新鮮な空気の中で刀で見事に解決したではないか。
どこにももっていきようのない気持ちで私は目を閉じた。(p.282)
私はその場を去ろうとした。しかしゾルバの言葉が急に私の心にわいてきた。私は精一杯の力を出した。「海、女、ぶどう酒・・」
「私だよ」と答えた。「私だ。入れてくれ」
私がそう言い終わるか終わらないうちに、恐怖がふたたび私を捕えた。私はその場を逃げ去ろうとしていた。それでも私は何とか思いとどまったのだ。恥ずかしさでいっぱいだったが・・。(p.292)
「一体、何年かかったことだ。大地があんな見事な身体を作りだすにゃ。一体どのくれえかかるんだ!あの女みたら、誰でもこんな気持ちになりますぜ。『ああ!もしわたしが二十の若さで、この世から人間がみんな消えてしまって、あの女だけ残りゃ、わしゃあの女に子供を生ませるんだが!』とな。」(p.303)
私は彼を見つめながら、私たちのこの人生というものは本当に不可解なものであると思った。風に吹かれる木の葉のように人びとは出会い、また離れ離れになるのだ。愛する人の顔や、身体や、その身振りなどの面影を、何とか記憶しておこうとするが、それは空しい努力である。数年たってしまうとその人の目が青かったか、黒かったかということすら憶えていないのだ。(p.362)
おまえさんはいいお人だ。何にも足りねえもなあねえ。まったくい
まいましい���れえ、足りねえもなあねえ!たった一つだけ例外がありますぜ!そりゃ、愚かさでさあ!そいつがねえなら、親方、それじゃ・・」
ゾルバは彼の大きな頭を振ると、また黙ってしまった。
私はもう少しで泣き出すところだった。ゾルバのいったことはみなもっともなことだった。私も子供の頃は、気違いじみた衝動や、超人的な願望をいっぱい持っていた。私はこの世界に満足していなかったのだ。ところが、だんだん時が過ぎるに従って、私は穏やかになっていった。私は限界というものをもうけるようになった。可能なものと不可能なものを分け、人間と神とを分けるようになったのだ。私は、飛んで逃げないように自分の凧をしっかりとつかんできたのだ。(p.364)