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織田信長はドラマに引っ張りだこだ。
今年(2023年)のNHK大河ドラマでは、岡田准一が演じていた。
信長は戦国一の美男子だったということなので、岡田信長はいかにも「信長らしい」と言える。
今まで大河ドラマで信長を演じた誰が一番信長らしかったなどと誰もが語っている。
(「間違いなく、高橋幸治だ」と言いたいところだが、何故「間違いなく」と言えるのか?それが問題だ)
一体「信長らしい」とはどう言うことなのか?
なぜ、「信長らしい」などと、会ったこともない400年以上前の歴史上の人物を「らしい」と語れるのか?
NHKの大河ドラマで信長を演じた役者について、誰が一番信長らしかったかなどと自信を持って語ることが出来るのは、誰もが一定の「信長像」を思い描くことができるからだ。
ドラマや小説が我々の「信長らしさ」のイメージを作る上で最大の貢献したことは当然だが、我々が岡田信長を信長らしい(若しくは、らしくない)と判断できるのは、自分が読んだり見たりしたドラマや小説を準拠としている。
それでは、まるでトートロジーではないか。
しかし、トートロジーを生み出すメディアであるドラマや小説も、我々が「信長らしさ」と信じるイメージの域内にある。
そのイメージを逸脱した信長を我々は「信長らしい」とは思わない。
それでは、問おう。
誰もが「信長らしい」と確信し得る「信長像」は一体どのように形成されていったのだろうか?
歴史の教科書には、誰もが知る瓜実顔の肖像画と共に信長の事績については語られていても、その立ち居振る舞い、声音、性格については何も語られていない。
それでは「信長らしさ」を生み出すには不十分だ。
400年以上も前の人物なのだから、そんなことは分からないと、問いを投げ出してしまっても仕方がないところだ。
しかし、信長に限って言うと、そうではないのだ。
「信長らしさ」を形作った同時代に書かれた重要な歴史的文書が二つもあるのだ。
ひとつは、信長の家臣であった官僚の残した「信長(しんちょう)公記」。その信長の家臣にして官僚とは太田牛一。映画にもなった小説「信長の棺」の主人公だ。
もうひとつは、信長に庇護されたイエズス会のルイス•フロイスが本国へ送った浩瀚な報告書、「日本史」。
前者は、全16巻全てが信長一代記に当てられている。
後者は、12巻中の1巻が信長の事績に当てられている。
この二つの文献こそが我々の「信長らしさ」を担保する根源なのだ。
「信長公記」は、信長の死後、秀吉に召し抱えられた太田牛一が、秀吉に命じられて編纂したものだ。したがって、秀吉への忖度を多分に含んでいることは間違いない。信長の事績についても、秀吉に不利になるようなことは書くことが出来ないのは当然だ。
秀吉が企図しているのは、信長の事績を称揚することで、後継者たる自己を人々に称揚させることにあるからだ。ただ、「信長様はエライ」と言いたいわけではなかったのだ。
一方、「日本史」は異国人による異国人のための報告書だ。日本の権力者に対する何の忖度も必要がない。ルイス•フロイスの��書は余計な(ミスリーディングな)忖度抜きで、読むことが出来るのだ。
小説や映画、ドラマの信長は、新たな視点を加えられることはあっても、この2つの文書を越え出るものではない。
我々が、ある一定の「信長らしさ」というイメージを持つことが出来るのはそのためだ。
本書は、その二大文献の一つ、ルイス•フロイスの著した「日本史」の信長に関する記述を集めたものだ。
ルイス•フロイスは信長と直接会って会話している。
したがって、彼の記述は、新聞記者によるルポルタージュに近い。
フロイスが出会った信長は、キリスト教の布教の成否を握る日本の最高権力者だ。
したがって、フロイスの観察は注意深い。
我々は、ルイス•フロイスという異国人の眼を通して、信長の肉体に、肉声に、そしてその性格に迫ることが出来るのだ。
(これを読んでいて思い出すのが、ルイ•ナポレオン=ナポレオン3世のクーデタを目撃してルポルタージュを書いたジャーナリスト=マルクスのことだ)
フロイスの記述により、信長の立ち居振る舞いから風貌、声音そして性格まで分かってくるのだ。
ここには紛れもなく我々が「信長らしい」と信じるほぼ全てがある。
本書を読むと、「信長らしさ」をかなり決定付けたのが、フロイスであったことが納得出来る。
現在、どの役者が「信長らしい」と議論できるのは、フロイスのおかげ(の部分)がかなりあるのだ。
フロイスに感謝しなければならない。
フロイスは、信長の入京から、天下布武の進展、安土城の内部、本能寺の変と山崎の合戦を、異国人として第三者の眼で語っている。
この第三者の眼というのが重要だ。
現代に生きる我々は第三者の眼を以て歴史に対峙する他ない。
安土桃山の当事者とはなり得ないからだ。
その第三者の目の役割を、フロイスが果たしてくれるのだ。
フロイスが信長と初めて出会うのは1562年。
信長が、将軍足利義昭を擁して入京し、二条城建設中の現場でのことだった。
信長は、質素な衣装で、座布団がわりに虎の皮を越しに巻いて、カンナを手に持って、大工たちに指示していたという。
一兵卒が戯れに貴婦人の顔を見ようと被り物を少し上げるのを目撃した信長は、手ずから一刀両断で兵士を切り捨てた、と書かれている。
フロイスの驚きまで伝わってくる。
正に衝撃の出会いだ。
1580年には巡察使ヴァリニャーノの通訳として、安土城を訪れ、安土城で信長に拝謁している。
安土城を直にその眼で見て、内部を目撃した者の記録を、何の忖度も要らない異国人の視点で知ることが出来るのは、この上ない興奮を与えてくれる。
安土城の設計図が発見されるまで、フロイスの報告書に書かれた安土城の描写と太田牛一のそれとが、この幻の名城を想像する縁の全てだった。
フロイスの信長の描写をリスト•アップするとこうなる。我々の「信長らしさ」の根拠がここにあることが明瞭となるだろう。
(1)睡眠時間
早寝早起き。
ナポレオンのような短時間睡眠。
(2)飲酒•食事
酒は飲まない。
珍しい葡萄酒を舐める程度。
これは意外だ。
酔うことが嫌いだ���たのかもしれない。
食事は質素。
戦場暮らしが長いので、質素な栄養のある食事
を取ったと考えることが出来る。
質素な食事をしているから、スリムな体型を
維持できたのだろう。
太った信長は「信長らしく」ない。
(3) 住まい
清潔。
几帳面な性格だったことが窺える。
硯の位置も寸分違わず配置しないと許せなかっ
たのだろう。
部下がズラそうものなら。。。
(4) 体型
小柄で華奢。
「背丈は中ぐらいで、髭は少なく、声は
甲高い」とある。
きっと、戦国一の美女といわれた妹「お市の
方」に似ていたのだろう。
引き締まった筋肉を持った、髭の薄い羽生結弦
のような風貌を想像してしまう。
(5)性格
好戦的で、軍事訓練に勤しむ。戦術は老練。
戦争については、「信長公記」が詳しい。
正義感が強く、名誉心に富んでいた。
貪欲な性格でなく、決断力に富んでいた。
平素は穏やかであったが、ときに激昂すること
もあった。
美しい顔に青筋を立てて激昂した信長には
近寄りたくない。
長い会談や前置きを嫌った。
戦局が厳しくなっても、闘い抜く強い忍耐力が
あった。
困難な企てに大胆に取り組んだ。
人の扱いに率直で、自分の意見には尊大だった。
自分への侮蔑は決して許さなかった。
家臣の意見には耳を貸さなかったが、家臣は皆
信長を畏怖していた。
人間味や慈愛を感じさせることがあった。
恐ろしくて、慈愛に満ちた人格。
カリスマの特長だ。
身分の低い部下とも親しく話をした。
実力主義を貫いたことが分かる。
仏神への礼拝や占い•迷信を軽蔑した。
合理主義者の面目躍如だ。
天皇家や将軍•大名を見下していた。
フロイスは、総括して、「稀に見る優れた人物」と評価し、「天下を統治するに相応しい」と述べている。
この評価の背景には、信長がイエズス会を庇護し、布教を保証したという事情があることを忘れてはならない。
フロイスは、歴史のターニング•ポイント、信長の天下取りと失敗、秀吉の政権簒奪を直接目撃していたのだ。
そんなルポルタージュはそうあるものではない。
ニューズ•ペーパー「安土桃山タイムズ」とでも呼ぶべきかもしれない。
1590年には、天正遣欧使節(少年遣欧使節)がヴァリニャーノと共に帰国すると、フロイスは同行して、聚楽第で秀吉と会見している。
ここで、信長に次いで、秀吉の肉声を聞き、秀吉の立ち居振る舞いを知ることが出来る。
フロイスの秀吉の評価は手厳しい。
若い頃、山で薪を刈り、それを売ることで生計
を立てていたと出自を語る。
身長は低く、とても醜い容姿で、髭は少なく、
目が飛び出していたと容貌を語る。
更に、驚くべきことに、手の指が六本あったと
書いている。
(これは日本の文書含めて複数の証言があるので、
事実のようだ)
抜け目のない策���家で、決して本心を明かさず、
偽ることに巧みで、悪知恵に長け、人を欺くこと
に長じていた、と人間性の低さを指摘する。
極度に淫蕩で悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた
とも言う。
何とも酷い批評だ。
本書を読むことで、我々が現在持つ「信長らしさ」のイメージ形成に本書がかなり影響を与えていたことを知るだけでなく、戦国時代がどれだけ血腥い時代であったかを分からせてくれる。
日本中で悲惨な戦闘が行われていた戦国時代。
日本人全員が喜んで殺し合いをしている。
こんな国は誰も征服できないと、伴天連たちは思ったことだろう。
フロイスが本国に送った「日本史」という報告書は、ヨーロッパ強国の日本征服というプランを萎えさせる効果があったのではないか。
それが最後に思った感想だ。