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【要約】
「自分は特別だ」、「他人とは違う」と高く止まっている知識人の中の落ちこぼれが、教養をひけらかしつつも憂さ晴らしに書き出したのが洒落本。一方で、教養も何もない一般人が娯楽として書いていたのが草双紙と呼ばれる類の本で、黄表紙とはこの草双紙のある時代に於ける別称であった。そしてこの二つは元は全く別の代物であった。
洒落本は漢籍や日本の古籍から人物や故事を引用してパロディを作り、荒唐無稽な世界観をうみだして知識人の間での笑いを誘ったが、いつしか人間社会に観察眼をむけ、人物の性格を細かく書き分けて、全くの出鱈目から徐々に社会描写へと舵を切りはじめるとともに、さらに本文中に多く会話文体を採用した。これが日本小説の原点となった。
一方の草双紙は、巷に出回る低俗な読み物という雑多な分類としてはじまり、元は子ども向けに絵を沢山配し、昔話などを多くその題材とした低級の啓蒙本であった。そのころは表紙の丹色にちなんで赤本と呼ばれた。
一時代を経て、流行語や洒落などをとりいれ、扱う題材も幅広くなると、少しずつ大人向けの内容に移りはじめた草双紙は黒本と呼ばれるようになった。同じ頃にやはり草双紙の一種として青本という分類もひろまったが、黒本が武勇などを中心的に題材にしたのに対し、青本は男女の色恋を中心的題材にしたものが多かった。
ややこしいのは、青本と呼ばれた本は実際は黄色の表紙であり、のちに黄表紙と呼ばれるようになるのはその表紙が黄色であったからであるとされるが、それでも当時の呼称は青本であった。
青本と黄表紙は同じものでありながら或る時代を境としてその呼称をわけるのが現代の文学史の約束事とされている。そしてその分水嶺とされるのが『金金先生栄花夢』という作品で、作者・恋川春町はそれまでの草双紙作家と異なり、学識を備えた知識人の出身であった。ここから洒落本と黄表紙 (草双紙) は接近を始める。
絵本を肇とする草双紙は、知識人の悪ふざけを肇とする洒落本の影響を受けてその要素を取り入れていったが、後の黄表紙と呼ばれる青本と洒落本が大きく異なるのはなんといっても視覚的効果にあった。黄表紙青本はその構成が芝居狂言の世界観を帯びていた点で、物語から描写へと発展を遂げた洒落本とは違っていた。
洒落本はその後、「通」という概念を発展させ、知る人ぞ知る事情をふんだんに盛り込んだマニアックさをエスカレートさせていった。一方の黄表紙青本は無駄口や地口の方面で技巧を練磨させ、クドイくらいのマニアックな、ナンセンスな笑いを追求して突き進む。その根底にあるのは封鎖された社会や政治に対する反撥と現実逃避であった。関係者の狭い間でしか知られていないようなマニアックな情報や知見を根底におく江戸の「通」を求める洒落本に対し、黄表紙青本は社会の「穴」をもとめてそれを穿つ姿勢を顕にしてゆく。しかしどちらも求めるところは大衆性ではなくあくまでもマニアックさであった。そしてその解読を読者に課すことが当時の洒落本や黄表紙青本に認められる一種の姿勢であった。その点では両者は時代の影響を受けた共通点をもっていた。
洒落本はやがて現代のYouTuberよろしく、名を売るためには個人 (芸妓ら) のプライバシーをもネタにするという浅ましさを強め、徐々に業界の反発を招くようになる。批判が強まり方向転換を迫られた洒落本は、人間観察をさらに深めてゆく。そこにみられるのはそれまでの知識を拠り所とした驕りではなく、人物の心情に迫る洞察であった。
黄表紙青本は政治への諷刺を強めていった。絵本という看板はおろさず、いつでも子ども向けという口実を隠れ蓑に逃げられる体勢を作りながらも、閉鎖的社会への鬱憤の捌け口として黄表紙青本は大いに舵を切った。
その後、幕府が出した出版物への取締についての触れ書きにより、両者はそれまでのやりたい放題が抑制され、時代に迎合しながらも細々続いたものの、往時の面影を失った両者はすでに時代的役目を終えていた。その跡をついで現れるのがひたすらに人情を煽り、泣き本とも別称された、いわゆる人情本であった。遊里を舞台とした洒落本や、諷刺、穿ちを動力源とした黄表紙青本とは異なり、人情本は目線を市井の生活にむけた。人情を求めるだけに作品は長尺化した。
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黄表紙が「日本の小説」の基礎或いはその先駆けであったと何かで読み、気になって本書を購入したが、思いの外、興味が湧かず困る。本自体に欠陥はない。
江戸前期までは上方で井原西鶴などの浮世草子が流行っていた。洒落本の起こりももとは上方であったとされるが、その創始者とされる人物はのちに江戸に移った。それに伴って洒落本が江戸に種を蒔いたのは、草双紙の中でも青本が流行った時期であった。
洒落本は草双紙に影響を及ぼしながら、江戸幕府の発展とともに江戸弁の文芸作品として成長を続けた。つまり洒落本も黄表紙も江戸文化がその根底にある。そして個人的に関東文化に親しみを持てないため、必然的にこの二種類の文芸作品にも興味がわかないという絶望感の中でなんとか読んだ。収穫はあったが、筋の紹介とかは正直可也読み飛ばした。
元々上方に流行った浮世草子と、洒落本などの跡をついで生まれた人情本、どちらも市井の生活に目を向けた内容だが、その間に挟まる洒落本と黄表紙は時代の狭間の通過点とでもいうべきか。