紙の本
マックス・ウェーバーによる社会主義のもつ歴史的宿命を説いた講演記録です!
2020/04/09 11:54
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、歴史は合理化の過程であるという観点から、マルクスが説いた社会主義のもつ歴史的宿命、言い換えると、官僚制の強大化による弊害を明快に指摘したマックス・ウェーバーによる講演の全訳版です。また、必要に応じて詳細な解説も付けられ、非常に理解し易くなっています。もともと社会主義は、所有理論に基づいて資本主義を批判したマスクスによって打ち出された社会理論でしたが、そこには「支配の社会学」が抜け落ちていました。同書では、その点を指摘しながら、理想上の社会であるとされた社会主義の欠点を論理的に指摘した、まさにマックス・ウェーバーの思想を知る上では非常に有効な一冊です。
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昔読んだんだが...内容ぜんぜん覚えていません。社会主義、共産主義を第三者としてどう認識するかを考える上で大事な本かもしれない。
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1918年のオーストリア将校むけの講演。ウェバーの社会主義批判が展開されている。ウェーバーによれば、社会主義は生産理論ばかりに注目し、支配理論を閑却しており、そこに重大な問題があるということになる。近代国家を運営するには専門的に訓練された官僚が必要であり、その支配領域は政府のみにとどまらない。株式会社を支配する大量のホワイトカラーも官僚的であり、プロレタリアートと袂を分かとうとする。また、『共産党宣言』の批判も展開され、結局、穏健な修正主義に至らざるをえないことが主張されている。文中にでてくる消費者による社会主義や、工業の規格化の話などは昨今の情勢を見合わせても示唆的である。しかし、官僚の腐敗については言及がない。この点については問題が残る。ほかの著作をよむ必要があるのであろう。
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社会主義を批判する本。
文章が読みづらい。
専門用語(っぽいもの)がわからないのはともかくとして。
これはオーストリアの将校むけの講演をまとめたものらしいけど、
これを聞いた将校たちが理解できたとは思えない。
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マックス・ヴェーバーが、第1次世界大戦のオーストリアにおいて、社会主義に対する批判を行った。その講演を収録したもの。社会主義に対して、官僚論にて反論する。
要旨としては、民主主義の官僚化において、社会主義は生まれるが、その運動で生まれるのは、カルテルのような団体で、それを含んだ民主主義で、共産党宣言が説くような社会主義にはならない。
まずは民主主義の考察から入る。民主主義とは、あらゆる階層を構成する個々人の、政治的権利の形式的不平等性が特徴だと言う。すなわち、政治に参加する方法的には平等であるということか。
その統治には、
①名誉のある富裕層が低給で行う
②職業官僚が高給で行う
の2つしかありえず、専門性の増加により、②に移行せざるを得ない。また当時、アメリカではヨーロッパ化(大学が職業訓練所に変わっていく)が、ヨーロッパでは、アメリカ化(身分差がなくなっていく)が起こっていた。
以上のように、あらゆる欧米国家において、今までの名誉官僚(例:貴族)から職業完了に置き換わっていく。そしてこれは、「労働者を労働手段から分離する」という社会主義的考えが背景として存在する。
その結果、統治者に経営手段が集中することになる。
では、社会主義とは何か?それは、生産の管理を行うことであった。だが、現状は、私経済(+私的官僚制度+経営手段からの労働者分離)が支配(=これが労働生産である)その過程が、労働規律などに合致し、ここから、近代社会主義が生まれ、ここのみ存在可能なのである。なぜなら、労働者の、労働規律への実感は、工業経営の淘汰過程による(能力がないと、クビ)からである。
これは、利潤的動機から、熟練労働者は排除される運命にある(機械、不熟練労働者に置き換わる)という面がある。社会主義は、これを手段の目的化と呼ぶ。すなわち、社会主義者は、制度そのものと戦う。
その理想形態は、
①私人による経営が存在しない:官僚による管理に移行する
②企業家間の競争が存在しない:ドイツでは、この途中だった。
②について、以下を考える。単一民族の組織経済の組織には、国営化or官僚・企業家との協力に基礎づけることが可能であるが、日常的には不可能であり、平時のカルテル化は産業による国家の統御:自己利益の点で、工場主のほうが有利で、経営の収益性を求める(低賃金・高物価)。
∴労働者には、階級国家に見えるが、それが社会主義であることを意味しない。国家の場合、ストライキが不可能であるから、隷属性が向上する。
∴カルテルは、いつか国家政策官僚と合体し、労働者にとって不利になる:社会主義者は、これを認めない。国家は、労働者からの憎悪も覚悟すべき。国家は、一定の利潤確保に興味がある労働者は簡単に糾合可能だが、最低限の暮らしにのみ関心があると糾合はほぼ不可能。
続いて「共産党宣言」の批判へと続く。「共産党宣言」は、資本主義の没落の過渡的段階の予言に過ぎない。その中心命題は、
①「人の人への支配がなくならない限り、プロレタリアートの隷属解放は不可能」→ここから、「プロレタリアートによる政治権力の掌握」が生まれるが、これが「自由な諸個人の連合体」への過渡的状態なのである。
∴「自由な諸個人の連合体」が最終的状態
②資本主義の崩壊は自然法則的に行われる(第2の中心命題):なぜか?
(1)窮乏化論:支配階級から、労働者への賃金は最低基準に保たれる:競争により、いつかその賃金は、生活不可能なレベルにまで落ちる→社会の不安定化
→社会主義者の任意の層で正しくないと否定されている
(2)企業家の減少:競争により選抜される⇔それに応じて、プロレタリアートが増加
一般的に正しくない:
・農業で当てはまらない
・産業面でも予想との食い違いが見られる
・私経済的官僚制の急激増大
(3)恐慌の影響
・恐慌が資本主義の没落を促進し、革命機運を高める触媒となる
→相対的意義の減少によりこの説は放棄
・競争の減少(カルテル結成)
・大銀行が過剰投機の到来を配慮
経済生産の「社会化」がある。社会主義はひとりでに進化の道を歩む=株式会社の登場。しかし、この制度では利益を得られるのは、官僚と配当受給者のみである。
また、「機械によって、どんな労働者でも工場で働けるようになる。それにより、労働者に統一感が生まれ、有産階級に立ち向かえる力になりうる。」と主張するが、職業専門家の衰退をもたらすが、除去にはならないと言う。なぜなら、下士官が増加し、彼らとの闘争が生じるから。そして、生産の画一化が企業家に特別な技術を必要としなくなるi.e.官僚の意義を増大させる:プロレタリアからの脱却を試みる。
まとめると、「共産党宣言」が説くような、革命的変貌は起こらず、ひとつの統制経済へ進む。すなわち、今までの宗教的信条、救世主の登場の概念の崩壊。
ここまで読んでもわかるように、非常に難しい汗軽くまとめながら読んだが、意味がわからない…。もっと勉強せねば。。
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社会的な問題を語るときに必要と感じるのは、自分がどのようにつらい体験をしているかということだ。そもそも、問題の立脚点というのは、ほとんどの場合、自分の内側の問題が占めていると思う。例えば、なぜ自分は、この問題に興味を持ち、そして憤りを感じているのかということ。そして、その自分の苦しみをどのように、周りに理解してもらうのか、という順序が、一つにある。しかし、その個人の苦しみが、外部に発散されず、内側にため込むことによって、問題そのものを抽象化してしまう。すると、今まで自身の問題であったはずが、いつの間にか勝手に社会化され、自分の元の感情と切り離されてしまう。それは、自我がそのストレスから自信を護るための防衛反応だと思う。社会問題を訴えるときにまず大切なのは、それは、他人を助けようとする「援助」の関係か、それか、自分の苦境を訴えようとする「欲求」なのか、その区別が大切なのではないだろうか。自分の問題意識を、うまく発散できずに、内側で抽象化する。そして、軸を失った抽象は、様々な社会問題の憤懣の雰囲気によって暴発する。それは、ごく一部の社会運動家に見られるヒステリックなほどの糾弾行動にも見られるものだ。そしてそれは、社会主義運動にも見られた失敗に如実に顕れているように思える。抽象化された理念は、結果として、それが一段を形成するときには、全体主義に荒廃してしまい、ロシアのように、それに背く人民をせん滅させるという事態になることになる。みやすけが大切だと思うのは、社会問題を取り扱う時には、まず、自分の感情を内観するということ。それは、「援助」なのか「欲求」なのかという線引きを行い、そして、それを「軸」に行動すること、それが大切な事なんだと、この本を読んで感じました。
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社会主義について、マックス・ウェーバーが唯一まとまって行った講演をまとめたもの。社会主義が官僚制によって実現に至らないこと、そして独裁を招くことを的確に指摘。見通す力が半端ない。
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市民層を擁護するナショナリストたるウェーバーが行った、社会主義批判の講演の記録。社会主義の実践がもたらす帰結を、理論的かつ経験的に批判するその内容は、ソ連崩壊後もいまだにくすぶる社会主義・共産主義の夢に対し、社会の合理化という逃れがたい冷徹な現実を突きつけている。
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第1次大戦中に、マックス・ウェーバーがオーストリアの将校たちに向け行った講演を収めた小さな本で、本文は90ページほどしかない。
「社会主義に対するかれの態度・見方をまとまった形で表明した唯一の文献」(訳者)とのことだが、正直言うと、これだけでは短すぎて、「まとまった形で」ウェーバーの考えを把握することはできなかった。
当時のドイツをはじめ、ヨーロッパにおける政治状況をイメージするのは我々にはたいへん難しく、多義的なスタンスでバランスを探っていたかのようなウェーバーのポジションを限定するのは困難だ。
マルクス主義に関しては、マルクス/エンゲルスの『共産党宣言』ただ1冊のみを批評しているにすぎないが、そこで標榜されている予言的なヴィジョンに対して、ウェーバーはおおむね否定的なようだ。
「官僚制の強大化」という、現在の日本にとっても重大な問題については、社会主義だけに限らず、資本主義、民主主義においても大きな問題としてウェーバーは語っているが、その解決については、優れたリーダーシップをもつ政治家の出現に期待するようなことを言っていても、何か釈然としない。
つまりこの本だけ読んでも、ウェーバーの思想を理解することはできないのである。当時の状況のややこしさだけが印象に残るといったかっこうだ。
ところでこの訳書、やたらと漢字にルビがふってあって、中学生でも読めそうな漢字にまでいちいち読み仮名をつけている。ここまでされるとうざったいだけだが、小学生にでも読ませようと思ったのだろうか? 謎である。
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ブルジョワ資本主義の弊害を告発しつつ、社会主義革命の結果をやはり一部の産業統制主体による独占的支配と予測するウェーバーの立場を明確に示す書物。
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官僚制を鍵にし社会を読み解く、まさに先見の明と称えるしかない講演。
ウェーバーは当時からも巨人だったはずだが、主流ではなかったのか?
社会主義(というか共産主義)、そして現在の資本主義社会に共通する側面をまさに抉り出す。
知的な冷静さの凄みを感じさせてくれる。
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社会主義者が唱える近代の命運が資本主義社会の自滅であるとするならば、ウェーバーの唱える近代の命運は組織の官僚化である。
ウェーバーの業績については官僚制論を主として挙げられることが多いが、その官僚制論は社会主義が抱く理想との対立において、よりその重要性が際立つものであることを理解できた。
講演内容からだけでは読み取りづらいウェーバーの持つ理想(国民国家や、自由な市民と企業家による社会構築)について解説の項目で述べられている。
カントとヘーゲルの嫡子たる存在であることを思う。
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原書名:Der Sozialismus
著者:マックス・ウェーバー(Weber, Max, 1864-1920、ドイツ、政治学)
訳者:浜島朗(1926-、東京、社会学)
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ブルジョアの代表と黙されるマックス・ウェーバーが社会主義をどう考えているかを吐露した講演。ロシア革命後、その影響が強く及んでいたドイツ・オーストリアにおいて、独ソ講和条約を結んだことで懐疑的になっているオーストリア将校に対して行った講演である。
非常に興味深い。
ウェーバーはマルクスの指摘を傾聴に値すると言っていて、生涯に渡りかなり意識していたようだ。一方で、マルクスの指摘は資本主義に対する予言(衰退するという予言)に過ぎないとし、革命思想やそれに従事する現実の共産主義者自身の矛盾について、かなり見事に論破している。思想としては認めつつも、現実の共産主義者を否定し、資本主義にその思想や計画性を取り入れる方向を目指している。
実際に、今の政局における資本主義陣営と社会主義陣営は、各々の振れ幅の中で、ほとんど類似した状況となっていて、単なるトーンやイメージの違いに過ぎなくなってきている。
ウェーバーの主張の骨子は、いずれの制度を選択した場合においても官僚制を採択することになるので、共産主義においても人による人の支配はなくならないということであり、共産主義の名において独裁が成立することは、歴史が証明している。
すなわち、社会主義政党という政治の専門職となった時点で、「人による人の支配がない世界」は自己矛盾を起こしている。
また、実際にこれらの政党の活動を観察してみると、掲げる理想の過激さに対して支持を集めるために穏健で堅実な政策を打ち出さざるを得ないため、意味をなしておらず、過激な革命思想家は単なるロマン主義に終わっていて危険である。ということであり、ウェーバーは、穏健派社会主義者とは交流したが、革命思想家の活動については、徹底的に批判したようである。
一方で、労使が対等の立場に立つことを重視しており、特に労働者が市民としての自覚を持って意見を持つことが重要であると主張している。
民主主義の立場から見ると、いずれの制度においても、権威や権力に盲従する民衆がいる限り、公や国の名のもとに、良い意味でも悪い意味でも為政者の力量に応じた独裁が成立しうるということだろう。