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翻訳語にまつわる違和感を正面切って解説してくれている良著。田山花袋を例に挙げた日本の小説での奇妙な「彼」の使い方とか、翻訳語は翻訳語らしくしていたほうが都合が良いとか、興味深い話題ばかりだった。
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翻訳語が生まれてくる背景について論じたもの。
全10章に分かれており、社会・個人・近代・美・恋愛・存在・自然・権利・
自由・彼、彼女という翻訳語について成立背景を述べる。
翻訳に際しては、西洋の理屈が高尚だという考えがあったようだ。
全編通じて著者のいう「カセット効果」が述べられている。
以下、備忘録として引用。
1.Societyについて
「社会」という訳語が造られ定着した。しかし、このことは「社会」―Societyに対するような現実が日本にも存在するようになった、ということではない。
著者がいう翻訳語の特徴→先進文明を背景に持つ上等舶来のことばであり、同じような意味の日常語と対比して、より上等、より高級という、漠然とした語感に支えられている。
2.個人
福沢諭吉の「人」という訳語の場合、読者は勿論完全に理解できる。それだけに、原語のindividualと「人」との間の、意味のずれた部分は読者に伝わらない。
「四角張った文字」の意味が原語のindividualに等しくない。
この新しい文字の向こう側にindividualの意味がある。と約束がおかれるが、これは翻訳者が勝手においた約束事のため、基本的に読者にはわからん。ただ、読者側も何か重要な意味があると受け取ってしまう。このことを「カセット効果」という。
cf.7.自然:実はよく意味が分からないが、重要な意味がそこには込められているに違いない。
そういう言葉から、天降り的に、演繹的に深遠な意味が導き出され、論理を導く。
3.近代
1つのことばが、要するにいいか、わるいかと色づけされ、価値付けされて人々に受け止められる。
これは日本における翻訳語の重要な特徴の一つ。
modernの翻訳語としての「近代」の意味は辞書などからは時代区分の意味である。1950年代に正式用語として認知。
が、成立後半世紀もの間、その他の意味によって私たちの間に使われていた。この矛盾したような現象も重要な特徴である。
ことばの意味が多義的であるのは、そもそもその言葉の意味というものがほとんどないからである。意味が乏しいから流行し、乱用され、だからこそ多義的になる。
6.存在
翻訳に適した漢字中心の表現は他方、学問・思想などの分野で、翻訳に適さないやまとことば伝来の日常語表現を置き去りにし、切り捨ててきた。
こういうところから、哲学などの学問を組み立ててこなかった。
8.権利
民権家たちは政府の「権」に対して、自分たちもまた本質的にそれと等しい「権」を求めた。例えば、民権家たちの求めたのは、まず参政権など政治にあずかる「権」であった。基本的人「権」のような「権」はあまり問題にされなかった。
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全体像を観るというよりは、いくつかの特定の訳語の成立事情をみていくスタイルで章立ては訳語ごとになっている。当時の文献なども引用されていて興味深いのはたしかなのだが、全体にどいういうわけかすらすら読んでいく気になれない退屈さがある。
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明治以降、西洋思想を翻訳するにあたりいかなる言語操作が行われてきたかを、いくつかの単語に照準を合わせて解明する。漢籍に全く用例がない造語や、漢籍とは違う意味で翻訳語として用いたりと、西洋言語を怒涛の勢いで輸入してきた日本語体系が明治以降いかに変遷し、また西洋思想も日本語特有のニュアンスによってもとの意味が弱められて理解されていった事情がわかりやすくまとめられている。
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勝手な意味を作る言葉の厄介な性質/柳父章『翻訳語成立事情』 - ピアノ・ファイア http://d.hatena.ne.jp/izumino/20130823/p1
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凄く面白かった。これまで、こういった「言葉」について書かれた本をあまり読んでなかったというのもあるけど、「言葉」というものを扱う視点というものが様々あり、手前勝手に濫用してよいものではないのだなと色々勉強になった。本作で扱われる言葉は10例程だけど、そこに様々な切り口からその訳語の成立の経緯を紐解いていく様に知的好奇心を刺激される。
昔の日本には「恋愛」という言葉は無かった。それは「恋愛」という概念が無かったというよりも「Love」という言葉の示す範囲の、高尚な「色恋」を指すものが無かったという。そこで、「恋愛」という、その時点では全く意味を持たない熟語が生まれ、その中身が「Love」という概念で埋められたという。
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ハイデガー入門を読んだ後のせいか、
本書で取り上げられていた、
「存在」という言葉の成立ちについて色々考えてしまう。
そもそも「存在と時間」という題も正確なのだろうかと。
翻訳語の特殊性や、
成立ちを知ることは意外と面白く、知らないだけで
こんな言葉がほかにたくさんあるのだろうなぁ。
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20140420 普段普通に使っている言葉が明治以降の言葉だという事に新鮮な驚きがあった。今のメール文化からも同じような事が起きるのだろうか。何十年後の事を想像するのも楽しい。
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社会・個人・美といった新しい概念が、それぞれ翻訳されるまでの経緯が具体的で読ませる。特にLoveが「恋愛」と翻訳された理由はLoveが精神的で高尚なもので、日本語の「恋」が通俗的・不潔なものというのにはびっくり仰天させられた。また万葉集の「恋」はすべて肉体関係のあとのことというのにも驚いた。またBeautiful「美」の概念も翻訳語のあとに成立したというのも刺激的だった。例として芭蕉の紀行文などの文章にも「美」という言葉がないということなど、これらについては、もう少し調べてみる必要を感じた。
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【図書館本】面白かった。多和田葉子さんのエッセイ読んで、そこからの出会い。言葉のもつイメージが人それぞれ。ただの記号という見方もできるけど、言霊を信じるものとして、魂のようなもの感じる。近代、個人、社会、美あたりがじっくり読んだ。
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翻訳語をめぐる問題に取り組んできた著者が、明治以降の西洋文明の受容によって成立し、あるいは意味の変容がおこなわれた10のことばについて考察をおこなっている本です。
とりあげられていることばは、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」で、「社会」や「権利」のようにそれまでの日本に存在しない西洋由来の概念を日本語に移し替える努力をした人びとの仕事に焦点があてられるとともに、それらの外来語が広くつかわれていくなかで、どのような効果を発揮したのかということについて論じられています。
著者は、こうした外来語が「中身が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつける」効果をもつことを指摘し、それを「カセット効果」と呼んでいます。ただし著者は、そうした効果をもつ外来語が、日本に十全に定着していないといって単純に批判するのではなく、より広い観点から西洋文明の受容プロセスにおいてこれらのことばが果たしてきた意義を考察するというスタンスに立っています。
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開化から約150年経って、今、日本には「社会」「自由」「権利」「美」は「存在」するようになったのだろうか?「彼」の国からやってきた、未だ手の届かない理想のタブローにはなっていないだろうか?(あるいは、ないものねだりに飽きて居直っている?)
鷲田清一先生『〈ひと〉の現象学』からの芋づる読書。哲学用語をしつこく原語で表記するのは何故なんだろうという疑問が氷塊した。要は、そもそもの最初からズレて使ってしまっているからなんだな、と。フランスやドイツ、イギリスから輸入した哲学用語を日本語に翻訳する必要に迫られた時、それまで日本で使われていた言葉には置き換えられない言葉がたくさんあった。言葉がない、ということは、それに相当する現実もない、ということだったから、手持ちの中から近いものを使うか、新しく作らなければならない。けれど、元ある意味を洗い落とすこともできないから受け取り方にも使い方にもどうしたって混乱が生じるし、新しく作った言葉の意味なんか誰もちゃんと腑には落ちてないから、意味を置き去りにした乱用が生じる。どちらにしろ、日本語を使った西洋哲学の理解には限界がある、という話。じゃあ、やらなくていいかというとそういうわけにもいかないので、ズレているんだ、それはたぶんこういうズレなんだ、という前提に立って、よりよく理解できるように膝詰めで対話する、っていうのが建設的かと。少なくとも、知ったかぶりしたり、孤高を気取ったり、冷笑的になったり、卑屈になったりするよりかは大人な態度なんじゃないだろうか。
そして、日本語を使って学問をしていく以上、本書に書いてある問題に無関心ではいられないだろうと思うので、少なくとも、哲学、文学、史学あたりをやりたい人は読んでおいた方がいいだろう。
三島文学の批評(「美」のトリック)、田山花袋の批評(「彼」という余計な翻訳語)としても面白い。
にしても、学問や文芸における福沢諭吉、森鴎外の功績の大きさに驚く。彼らの苦闘あっての、日本語で学べる日本なのだな、と。
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日本の学問・思想の基本用語が幕末・維新期にどのような試行錯誤の末に定着したのかを10の事例から紹介したもの。前半の6つが、社会、個人といった翻訳のために造られた新造語。後半の4つが自然、自由などそれまでの日本語にも日常語としてあった言葉に、さらに翻訳語としての意味が加わったもの。個人的には後半の方が面白かった。旧来の日常的な意味に新たな意味が加わったことによる混乱や、それが今にも引き継がれていることが分かる。
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社会・個人・近代・美・恋愛・存在・自然・権利・自由・彼といった学問・思想の基本用語は、実は幕末から明治にかけて翻訳のためにつくられた新造語である。これら10個の翻訳語が、どのような背景で作られ、どのように受け入れられていったのか、当時の文献内での用例を引きながら検証している。
知識人の一部によって翻訳語が考案されるのであるが、元の言語での意味が正確に分からなくても、その翻訳語は広まっていったようである。とりあえず難しそうな漢字が当てられていれば、何か深遠な意味が含まれているんだろうという雰囲気とともに乱用された。
よく分からない漢字に深遠が意味が含まれていそうに感じることを、著者は「カセット効果」と呼び、本書を通じて翻訳語の普及に大きな影響を及ぼしたと考えている。
そのカセット効果とともに、ミーム的に乱用されることによって翻訳語が一般にまで広まっていったのだろう。現代におけるカタカナ語にも共通するものがあると思う。
また、最後の方で触れられているが、漢語的な翻訳語を採用したことによる学問語と日常語の分断という点には今まで意識したことがなかったが大きな意味があるように思う。哲学などとっつきにくそうな学問の術語がすべてやまとことばなどの日常語で作られていたらどうなっていただろう。
ところで、この翻訳語はいつごろから使われ始めた、この時代に使用例が増え始める、のような類の主張をする際にその裏にはその何十倍か何百倍かの原文にあたる必要があるので、どれだけ調査が大変だったのだろうかと思う。
ただ、ほとんどが明治時代の文章の引用なので、非常によみにくい。
「である」が翻訳用の表現としてつくられたというのは驚いた。
また、日本語はよく主語の省略可能と言ったりするが、それは主語があることを前提としてそこから省略するという考え方だが、そもそも日本語は「必要な場合以外は主語を表さない」という見方は目から鱗が落ちる思いだった。確かにその味方のほうが筋が通ると思う。
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昔の新書はこうだったよね、ということを思い出させてくれる良書。近年の内容ペラッペラの新書とは質が違う。
明治期に創作された新造語の作成秘話的な内容かと思っていたが、本旨はもっと深い所にある。日本とは全く異なる価値観を持つ外来の思想を、古来の日本語にある言葉で置き換える事の難しさに焦点を当てている。言われればそうだなと思うが、ヤマトコトバの語彙は非常に限られていたから、日本人は奈良時代から脈々と外国の言葉=思想を自分のものにするために奮闘してきた民族である。その中には『自由』や『権利』などのように、原語とは異なる意味で広まったものもあったが、人口への膾炙に従い本来の意味を取り戻すというプロセスを繰り返してきたのだろう。今でも似たようなことが続いていると思われる。例えば日本語の『セレブ』は金持ちの含意で使われるが、英語のcelebrity は単に著名人であって保有する資産の大きさは関係ない。これも次第に本来の意味が理解されて行くのかも知れない。その前に死後になっていく可能性の方が高いが。