紙の本
ラカンと読者の限界まで示すイジワルな本
2004/11/29 10:32
8人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:T.コージ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書はラカンの解説本であり同時にその限界を示しつつ、それを超えるものとしてニーチェ・マルクス・フロイトの「力の思想」を示している。つまり今後の展開を読者に委ねた内容になっている。
もうひとつ結果としてだが読者に委ねているものがある。それは読解力についてだ。2次元の位相の単一性を証明するメビウスの輪を示しながら、それを3次元の位相の単一性の証明であるクラインの壺に置き換えて商品と貨幣の無限連鎖を説明するところなどが圧巻。ただし「3次元の位相の単一性」は紙上(2次元)や物(3次元)で表記、表現できないので、想像力のない人には理解できないというところはご愛嬌。本書は読者の理解力の限界?まで試しているのかもしれない。
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ポストモダンの思想が巷に大流行な頃、日本で一番賢い思想家…と言うことで、とりあえず買った本。 一説にはフランス思想を翻訳しただけとのウワサ有り。 まぁ哲学好きのかたは持ってて良いでしょうけど。 ちょっと気になるのは、バタイユ全集の帯ではバタイユ氏を「絶賛」しておきながら、別の著書で、ジョルジュ・バタイユ氏を「よくわからん人物だし、本気で読めた気がしない」とのたまっておったが、いったいどうなっとんのかね…この人。 最近はもう良く読まん!
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すんません、単に↓と並べたくて持ち出しました(笑) 高校時代、訳もわからずに意地で読了しようとしてた。数年後には嫌でも仕事で再度向きあう羽目になるとは夢にも思わず(^^;
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多くの二項対立が出てくるが、それは全て「象徴秩序」と「カオス」として、その境界からカオスがあふれる事を「侵犯」として読み取れる。
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コンパクトにチャート式参考書のように意図的に書かれたこの本でフランス現代思想の良い部分を概観するのは、今でもまったく理にかなっているとおもう。浅田彰に文句言う資格のないアタマのわるい人文系大学教員はこの本が出た当時内心やばい、とおもっただろうね。著者自らウィトゲンシュタインにならってこの本は投げ捨てられるべき梯子だと書いてるしね。でも面白い本の良い紹介になっている。シャトレ哲学史の構造主義の項(執筆はドゥルーズ)なんてこの本の紹介がなければ読まなかっただろうし、スクリッティ・ポリッティ(最近新譜がでた!)もこの本で知りました。
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日本におけるポストモダン、あるいはニューアカデミズムといったら、これを欠かすことはできない。
内容はそんなに理解できたとはいえませんが、結構わかりやすく書いてると思う。フランス現代思想の概説書といってもいいのかな。その歴史的意義から、★4つ。
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20代のころ無理やり読んでみた。 わからなかった。 10年後にもう一度読んだ。 やっぱりわからなかった。ただ、浅田彰氏は世の中に必要な人だと思うようになってきた。
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イロニーではなくユーモアを。沼から砂漠へ。クラインの壺からリゾームへ。
「ぼくは時代の感性を信じている」
「同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位(エレメント)であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである」
EXCÉS=生きた自然の織り成す有機的秩序(ピュシス)からのズレ(単純すぎるが)。ピュシスからの追放。方向=意味(サンス)の過剰は、まず、恣意性のカオスとして現れる。コスモス(人間が知覚する自然の秩序)とノモス(人間が知覚する社会の秩序)からなる象徴秩序。
- コード化の原始共同体
プレモダン
- 超コード化の原国家
- ツリー
モダン
- 脱コード化の近代国家
- クラインの壺
ポストモダン
- リゾーム
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哲学本。
私が最近影響を受けている「中原圭介氏」と「苫米地英人氏」が大きな影響を受けた本ということで買ってみた。これから読む。
チラっと見ただけでもかなり難解な本であることが分かる。
中原氏の言うとおり、脳ミソを鍛える目的で、
何度か繰り返し読むつもり。
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遊園地という場所に曰く言い難い違和感を覚えるようになったのはいつからだろう。チケットを買って囲い込まれたら「さあ楽しみなさい」とばかりに様々な遊具をあてがわれる。そう、まるで涎掛けやオムツのように“あてがわれる”というこの感覚。娯楽欲求は受け皿がなければ“失禁”してしまうしかないものなのか。遊園地に限った話ではない。人間の欲動が遍く資本経済に絡め取られ、ハムスターの回し車のようにグルグルと消費の連鎖に囲い込まれる違和感。こうした、現代人としてもはやあまりにもありきたりな違和感に、四半世紀前、弱冠26才の若者だった著者は本書で明快に答えてくれている。レヴィ=ストロースの構造主義以降、ポストモダンと総称される一連の思想潮流を通じて明らかにされた“クラインの壺”としての高度資本経済社会。貨幣も欲動も果てない差異を追いかけるパラノイア的無限循環に陥っている。そこから抜け出すためにスキゾフレニックな逃走が高らかに提唱される。あらゆる差異が複雑に絡み合いつつどこへ伸びていくかはわからない地下茎=リゾームとしてのポストモダン社会を、軽やかに逃げろスキゾ・キッズ、というわけだ。実に爽快。ただし、当時そうして逃げ出したキッズ達が今、ネットカフェ難民に象徴される“壺の底にこびり付いた澱”と化している事実は事実として受け止めなきゃいけない。何がいけなかったのか。どこで間違ったのか。答はまだ出ていない。思想はまだ、死ぬわけにはいかない。
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絶対に学生のうちに読んでおくべきだった。
いまさら読んで後悔。
現代思想というのは面白いけどほとんどわからない。
浅田彰も時代のあだ花みないなものだと思っている。
それでも、読んでおくべきだったと思ったのは、「序にかえて」。
無邪気に知と戯れる、ということをこれだけ肯定的に表現した文章もあまり見たことない。
ものはどうあれとにかく知のジャングルに飛び込んで徹底的に駆け回ること。
当時の僕には(今の僕にも)そういうものが全然足りていなかったように思う。
あのころ読んでいたら、いまとは違った方向に進んでいたかもしれない。
進んでいないにしてももっと目一杯学生時代を楽しめたかも。
あくまで、”かも”の話だけど。
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あとがきにも書いてあるのだが、同じような内容が何度も繰り返されるのでくどく感じた。だが、全体の内容としてはわかりにくいようで思ったよりもわかりやすい部分が多いと思う。ラカンの章はよくわからなかったけれど。最後の章に書いてある、ニーチェがらみのユーモアに関する話は個人的に気に入った。全体としてドゥルーズ=ガタリがかなり高く評価されているし、主に話の核になっていた。
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専門用語のオンパレードで初心者には難しい。
大学生に向けて書いているようだけれど、
パラフレーズ(この言葉すら知らなかった…)すると言いつつ、
全然パラフレーズされていないように思う。
一方、
図解は非常に簡潔だったので、
難しい文章との落差はいわゆるギャップ萌えを狙ってのことだろうか。
そのうちもう一度読もう。
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ニュー・アカデミズムの火付け役となった本。岩井克人や柄谷行人の貨幣論などの成果を踏まえつつ、ドゥルーズ=ガタリの資本主義分析の有効性を検証している。
現象学的なまなざしは、サルトルが描き出したように、他者との間でどちらが相手を対象化して〈主人〉の坐につくことができるかをめぐる相克を生み出す。この相克を乗り越えて社会的秩序を編成するために私たちは、あらゆる他者の〈奴隷〉となることで、かえって秩序を作り上げることができる支点、精神分析でいう「父」をもたなければならなかった。こうして形成される秩序が、ラカンの「象徴界」だ。だが他方、象徴的秩序にすくい上げられないで残るものが無意識を形作ることになる。そして、無意識に押し込められたカオスが噴出するとき、秩序が新たに編成しなおされることになる。エリアーデやバタイユの理論は、このことを明らかにした。
ところでこうした議論は、象徴をいちおう完結した共時的な秩序として捉え、その外部を「外部」として輪郭づけることができるということに何の疑問も持っていないように見える。著者はこうした発想を批判している。ただしその批判は、秩序の側から秩序の外部のカオスへと遡行する否定神学的な発想よりもむしろ、現代の資本主義の分析に有効性を持たないという点に向けられている。
資本主義において貨幣は、たえず再投下されて商品へと化身し、売れることで貨幣に戻るという運動を続けることによって、はじめて資本として生きることができる。つまり貨幣は、あらゆる商品に対するメタ・レヴェルの位置からオブジェクト・レヴェルへと自分自身を回送することで、たえまない資本の流通を作り出してゆく整流器の役割を演じているのである。著者は、こうした資本主義の構造を、外部がそのまま内部に接続されるクラインの壷のモデルによって描き出している。
その上で、資本主義の外部に出るのではなく、それを内部から撹乱する「逃走」という戦略を採って、あらゆるものを一定の方向へと回路づける資本主義の内で多様性を享受する可能性を探ろうとしている。
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今開いても小難しい(笑)。
たぶん、大学時代にレポート書くために実家の書庫から引っ張り出して来たような記憶があるが、定かではない。
手製の装丁が施してある。母の仕業か??