紙の本
読むには少しだけ勇気がいる
2019/08/25 00:31
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投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
冷戦時代に書かれた核戦争による絶滅を描いた作品。偶発的な事故から米ソの核戦争が始まり、生存をかけた生き残った人間同士の醜く救いのない争いが描かれる。新聞記者の主人公は、描かれないけれど作品外できっと最期を迎えるだろうが、恋人と、偶然連れ合いになった少年と3人で逃避行を続ける。終盤で暴徒と化した不良少年に恋人をレイプされそうになると、人間が2人以上いれば社会があり正義もあると言って憚らず暴徒たちに鉄槌を下す場面が出てくる。その結果がどういうものであれ筒井にしては、ベタな信条吐露とでも言うべきだろうか。そのあたりが「気味悪いほどものわかりがいい」などと某氏に揶揄されるところなのかもしれないが、同じ作者の『七瀬ふたたび』ほどの暗い気分にならなかった。
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[偶発的な核ミサイル発射により引き起こされた、世界規模の核戦争。
放射能におびえる人間の狂気じみた行動を描写。]
筒井がこの作品の表題を『霊長類南へ』と、一風変わったものにしたのにはやはり何かしら理由があってのことだろうが、果たしてそれはいかなる理由によるのだろうか。『霊長類』と人類を表現するのはなぜであろう。『南へ』というのはやはり人類が放射能を避けて南へ移動するからだろうが。
実は、この作品が自らのアイデンティティを保つためには他の表題は考えられないのであり、また、この中にこそ作品最大の『毒』が入っているのである。『霊長類』この呼び方はきわめて冷徹であり、まるで滅び行く一つの対象物としての見方ではあるまいか。何を隠そう、筒井はこの作品を神の視座から描いているのだ。筒井は一貫して絶対者の立場に立ち、人々を見下ろす形で作品を描き上げた。筒井はそのため、人類をもはや超越してしまい、一種の絶対存在となったのである。場面がよく切り替わるという効果的な演出はツツイヤスタカ神が目をいろんなところにやっているためなのである。神となった筒井は人間に対して、下手に愛着を表現することもない。それゆえ完全に冷徹、冷静である。
人間への愛着がなければ、人間はサルともゴリラとも大して差はなく、同じ一つの霊長類であると比較的容易にいえる。これが表題に『霊長類』を使わせる理由であろうが、さらに大きく皮肉が入っているような気がする。サルやゴリラは自ら絶滅することはない。人間のように理性を持たずとも、自己保存の本能があるゆえに内的な理由により滅びることはないのである。しかし、サルやゴリラよりも高等とされる我々人間は理性も本能も持ち合わせてはいるが、たとえば核などの使用により内的理由で滅びうるのである。理性があるから我々はサルやゴリラよりも高尚であるといえるのだが、理性によりサルやゴリラでも作らない自己破滅の道を我々は作った。さすが人類。こういう皮肉が私には感じられるのである。
この作品で筒井は“生”を描いている。間接的な描き方ではあるが、かえって明確的である。淡々と生を語るのではなく、まずいきなり無数の死に様を表現する。そこに見られるのは極度の生への執着、大いなる生の有意味性にすがる霊長類どもの姿なのである。“生”を、対概念である“死”を大量に表現することによっていっそう際立たせている。書き方が間接的、かつ明確的といったのはこういう点においてである。核戦争下という極限状況において人間がいかに醜悪であるか、エゴイズムがいかなる形で顔をのぞかせるかが繊細に描写され、そこには人間が本来有するはずの理性のひとかけらさえ垣間見ることはできない。異常なまでの生への執着心、果たして生にどれほどの魅力を感じているのだろうか。ショーペンハウエルは世界を支配するものとして、盲目的な生への意志(Wille zum Leben)をあげたが、まさにこの小説がそれを証明しているかもしれない。自己保存の本能、即ち生存への本能の描写は、ここでも『霊長類』というタイトルを輝かせる。
最後になるが、核軍備下における生命の無力さとはいかなるものなのだろうか。今でこそ核削減の交渉は続��ており、着々とその数は減ってはいるが、この作品がかかれた時代は東西イデオロギーの対立の構図がはっきりしていた冷戦時代の只中だった。かなりのリアリティをもちえたのは事実である。核の脅威は決して消えうせることはない。次の瞬間にも我々は“ジュッと蒸発する”かもしれないのだ。
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「不謹慎」と連呼する人に今こそこの本を読ませたい。どういう状況になろうと表現に枷を嵌めてはならない。
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そうそう、この本だった。タイトルから内容が思いつかず、長らく忘れていた。面白かったからまた読みたいなぁ。
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内容(「BOOK」データベースより)
毎読新聞の記者澱口は、恋人の珠子をベッドに押し倒していた。珠子が笑った。「どうしたのよ、世界の終りがくるわけでもあるまいし」その頃、合衆国大統領は青くなっていた。日本と韓国の基地に原爆が落ちたのだ。大統領はホットラインに手を伸ばした。だが遅かった。原爆はソ連にも落ち、それをアメリカの攻撃と思ったソ連はすでにミサイルを。ホテルを出た澱口と珠子は、凄じい混乱を第三京浜に見た。破滅を知った人類のとめどもない暴走が始ったのだ。
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「なんでや。なんで死なんならんねん。馬鹿で阿呆で、愛嬌があって、おっちょこちょいで、おもろい人間が、その人間が、なんで全部死んでしまいよるねん。そんな阿呆なこと、あるかいな」
おれたちは抱き合い、わあわあ叫んだ。
「こんなしょうもないこと、あってたまるか」
1969年に創刊された筒井康隆の中編SF。1970年には第1回星雲賞(日本長編作品部門)を受賞した。
ドタバタ騒ぎから偶発的に始まってしまった核戦争によって、人類が滅びゆく阿鼻叫喚の大惨事を、皮肉の利いた軽いノリで書かれている。
読んでいて気持ちが良い。
———あらすじ(公式より)———
毎読新聞の記者澱口は、恋人の珠子をベッドに押し倒していた。
珠子が笑った。「どうしたのよ、世界の終りがくるわけでもあるまいし」
その頃、合衆国大統領は青くなっていた。日本と韓国の基地に爆弾が落ちたのだ。
大統領はホットラインに手を伸ばした。
だが遅かった。爆弾はソ連にも落ち、それをアメリカの攻撃と思ったソ連はすでにミサイルを……。
ホテルを出た澱口と珠子は、凄じい混乱を第三京浜に見た。破滅を知った人類のとめどもない暴走が始ったのだ。
———感想———
めちゃくちゃ面白い。
瀋陽ミサイル基地での軍人のモメ事から、ミサイル係がボタンを押してしまう。玉突きの核戦争が始まり、北半球の都市はほとんどが壊滅してしまうものの、東京は無事。
偏西風に乗ってやってくる放射能からどのように生き延びるか———人間のエゴにまみれた逃亡劇が最高すぎる。
高速道路はパニックで事故の嵐。要人を乗せたヘリコプターは国会議事堂に激突。羽田空港では飛行機にしがみつき逃げようとする群衆たち。
筒井節で綴られたドタバタ悲劇(喜劇?)が面白すぎて、何度も声に出して笑ってしまった。
無数の死に様を表現することで、澱口や亀井戸の生への執着が際立っているのもさすがでした。
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昔、読んだことがあり、ふっと手に取ってみて、読みだしてみたらおもしろくって一気に読了してしまった。
こんな勢いで本を読み終えたのは本当に久しぶり。やっぱり筒井康隆の小説だねえ。
この本が、最初に出版されたのは、1969年10月、世界は冷戦下さながらであり、70年安保でざわついていた時代だ。
米ソの対立の中、このころ力を伸ばしつつあった中国がもとで、最終核戦争が勃発、人類が滅亡してしまうというストーリー。それも何とも理不尽な形での核戦争の始まりという如何にも筒井康隆らしいきっかけ、案外世の中の大事なことっていうのがこういうつまらない、ナンセンスなことから始まるのかもしれないよという気にもさせられる。
核戦争が始まると人類が滅亡するまで、それほど時間がかからないということにも驚かされる。
この小説も、筒井康隆のいわゆる疑似イベントものと言えるもので特殊な状況の中に置かれた時に人はどう思考し、行動するのかというシミュレーションしたものである。
その時、人類はかくも醜く、感情をむき出しになるのか、「霊長類」ということは、人であることをやめて、もはや猿やゴリラなどど同じ次元の生き物になってしまうということなんだろうな。
もし、その時が起こればできるだけ人間として死んでいきたいなあとは思うが、どうだろうかな、自信はないなあ。本書では、人間として死んでいったのは、主人公たち3人だけだ。
一時、SF作家を中心に人類の滅亡をテーマにした小説というのがよく書かれていたが、今やあまり見受けないような気がする。社会情勢、国際情勢は、今の方が危険なところもあり、リアリティ感があるような気がするのだが、こういうテーマが書きつくされたということなのだろうか?
核戦争の恐怖感って、今の時代共有されているんだろうか。マスコミや政治家たちの発言に全く感じられないのだが・・・。
しかし、この小説、筒井康隆だから許してもらえる表現も多々あり、今、この内容を発表しようとするとコンプライアンス的に不適切ということになるんだろうな。
現代語訳「霊長類南へ」というのが将来できるんだろうか、それはそれで恐ろしい。