紙の本
断腸亭日乗 下巻
2020/11/30 14:06
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
1937年から1959年の荷風の死去前日までの日記が収録されている。
1937年というと当然15年戦争は始まっているが、まだ偏奇館も残っている。『墨東綺譚』(さんずいのついた「すみ」はこのレビューでは使えないようなので、「墨」で代用)が出版され、荷風の母が亡くなっている。関東大震災の時には弟が中国にいたので、安否確認にもいったが、このときには弟が家にいたので、迎えが来ても母の元にはいかなかった。
その後太平洋戦争も始まり、なんとか食糧不足も凌いでいたが、東京大空襲によって偏奇館が蔵書と共に焼失、日記や草稿などを手にとって逃げるが、逃げ惑う老人と子どもを助けたり、焼け落ちる偏奇館を見ようと戻るなど、荷風のある種の豪胆さが垣間見える。
戦後は文化勲章やその年金をもらったり、外食や映画鑑賞、浅草へ行くなど、活発にその方面の活動も続けている。1950年代に入って、日記の文章が簡潔に、事実の列挙のみになるにつれ、荷風の死が近づいているようで、心に迫ってくるものがある。
全体を通して、荷風が嫌っているのは軍人や共産主義者、ラジオなど、荷風の個人生活に立ち入るものであり、単なる懐古主義者、反権威主義ではない。生活のために文化勲章ももらうし、戦後は映画も見る。尤も映画鑑賞は『墨東綺譚』冒頭を読んだ後だと意外だった。ただ、同様の指摘は川本三郎の『大正幻影』でもされている。
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悲惨な戦禍を淡々と力強く描写している自由主義者荷風の面目躍如。それにしても、最近TPPの議論で優れた日本の医療に外国人が入って質が下がるみたいな発現を聞く。日本人に優れた人がいることはそうだけど、日本人の全てが優れているわけではないし、外国人医療者の素晴らしさもたくさん観察している。とくにこの昭和初期、戦争前後の日本人には極めて極めて愚かな思想言動が多いと、断腸亭日乗を読んでいると強く感じられないだろうか。。。。まあ、TPPは利益相反がらみの賛否両論両極端、、、冷静な議論がほとんど不可能になってきているけど。
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昭和12年10月4日「また或人のはなしに、戦地において出征の兵卒中には精神錯乱し戦争とは何ぞやなど譫語を発するものも尠からず。それらの者は秘密に銃殺し表向は急病にかかり死亡せしものとなすなり。」自衛隊員がこうならないことを願う。昭和12年11月19日「戦争もお祭りさわぎの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。」集団的自衛権行使にならないことを願う。昭和22年5月3日「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし。」憲法改悪とならないことを願う。昭和25年6月26日「朝鮮南北両国開戦の報あり」非戦を願う
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下巻は1937年から死去前日の59年4月29日まで。
「今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし」(41年6月15日条)との覚悟から、軍部や官吏への批判を容赦なく書きつけると同時に、敗戦後も、「米人の作りし日本新憲法」を「笑ふべし」と一蹴するところに、荷風の一貫した個人主義がよく表れている。「良家の妻女」の竹槍訓練を「何やら猥褻なる小咄をきくやうなり」(43年2月19日)とバカにするのも、何とも荷風らしい。
「心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり」(41年正月1日)。
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日記文学は 共通テーマがないので、読みにくい。歴史的事実と組み合わせて 読むと 想像力が広がる。昭和を乱世と考えるようになった荷風の思考プロセスを理解したい
荷風が何を読み、何を書き、何が嫌いか よくわかる。読むたびに 新しい発見がありそう。天気を伝える言葉のバリエーションが多い
江藤淳「荷風散策」より
荷風自身に 「日乗」を作品にしようとする意図があった。人生を作品にしようとするほどの 美学的、哲学的な覚悟に支えられていた
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1917(大正6)年、荷風38歳の頃から書き始められ、79歳で亡くなる直前、1959(昭和34)年4月29日まで書き続けられた日記。
荷風はこれ以前の若い頃にも日記を書いており、この岩波文庫版(日記の一部を抜粋したもの)の上巻の巻末には渡米・渡仏した頃の「西遊日誌抄」が収められており、かなり情熱的・感情的な青春の日記としてなかなか興味深く、確かに、荷風の自己劇化的傾向もここに現れている。
明らかに荷風は後に刊行することを意識しながら日記を書いていたようで、この簿冊を大事にし、副本を作ったりもしている。この日記を「後に残したい」と明確に書いている箇所もあった。1945年の偏奇館が焼失した空襲の折にも、小説の執筆中の草稿と共に日記を抱えて逃げ出している。
誰々に会ったとかは記録されているが、会話の中身とか自分の感想についてはほとんど書かない。それでも、世間に対し冷笑的な批判をしばしば述べてはいる。荷風は同時代の東京の世相にとても批判的で、田舎から出て東京に移り住んだような人のことを「田舎者」とさげすんだりしているのは、ちょっとイヤミな感じだ。また、作家・菊池寛については何が気に入らないのかかなり軽蔑・憎悪しているようで、しばしば「悪口」のように書かれてある。一方、私が知らなかっただけだが、谷崎潤一郎とは結構交流があって仲が良い。どうやら、まだ無名だった頃の谷崎の初期小説を荷風が絶賛する批評文を雑誌に寄せ、そのおかげで谷崎の文壇デビューが早々に華々しさを得たようなのだ。その恩もあって谷崎は荷風を敬慕する姿勢を見せていたらしい。
いろいろと興味深い本書であるが、やはり、戦時の世相、軍部による統制の理不尽さについて冷徹に記録していくところが面白く、貴重な日記となっている。最初荷風は政府についてあまり批判的なことを書いたら後日咎められるかもしれないと案じて、いったん書いた箇所を切り抜いたりしていたが、途中からは臆することをやめ、果敢に軍部を批判していく。荷風の世相に対する批判はしばしば独断的な感じもあるが、この、軍国主義体制への批判は至って正当であるゆえに、力強い批判の文章が輝かしい。
1945年3月の空襲で居宅が焼け、しょっちゅう曝書をして愛していた蔵書をことどとく失って、やはりこの頃からの荷風は、その文学的源泉の豊かさを失っていったように思える。
晩年の日記はほとんど天気を書くだけの無意味なメモになっていくのが痛々しいが、荷風の書くこと=文学の創造的空間は、老いの中で枯れた空気の中に溶け込んでしまい、静かな呼吸へと収斂していったのではないかと思う。