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紙の本
アイデンティティ拡散の時代への移ろいの瞬間
2014/03/30 21:37
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投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
ソ連のある作家が、国内では出版できない原稿を西側で出版するのを願っているという。だがこの話の中心は、政府の思想弾圧の悲惨さでも、反体制運動家の苦悩でもない。こんな企てに情熱を持つほどロシア文学に傾倒する人間もそう多くない。そしてある日本人がこの作家に接触し、疑問と苦心の末に原稿を持ち帰ることに成功する。
ソ連の歴史の暗部と人間の本質を描いたというその作品は世界中でベストセラーとなる。それは文学の問題ではなく、冷戦期の政治抗争であり、メディアの大宣伝だった。表現の自由、真実の探求といった人間にとっての核となる部分について、その意味は失われることはないが、それらの概念を使う者のためのチープな意味が積み重なり、もはや本来の意味は見失いかねない第二次大戦後の世界が象徴的に現れている。かつてのプロレタリア文学など取り巻いていたような、表現者と国家の対立といった単純な形ではなく、どこが尻尾で頭かも分からない限りなくカオスな状況に、作家や支援者もうずめられていく。
ラストに驚きのどんでん返しも待ち受けているが、それはエンターテイメントとしてのサスペンス性を生み出すが、時代の中での作家の苦悩も増幅されて苛烈な印象を残す。
表題作の他、ウクライナ人の歴史の苦悩を描く「赤い広場の女」、奇妙な日本人旅行者「バルカンの星の下に」、メディアの寵児となった女性イラストレータへの「弔いのバラード」。
それから「天使の墓場」が、米軍の持ち込んだ核の事故の恐怖という作品。核の汚染も恐ろしいが、軍と政府による隠蔽、秘密のためにはいくらでもも国民を犠牲にするという展開が恐ろしい。さらにもっと恐ろしいのは、隠蔽の次に来る核被害であることを現代の僕らは知っている。この作品ではそこまでの想像力か枚数かが及んでいないが、組織は必ず自己防衛に走り、本来の目的を逸脱する以上、それは予測されることであったろう。これを予言と見ることができなかった痛恨は果てしなく大きい。
ソルジェニツィン『収容所列島』発表の数年前に書かれたこれらは、その頃の世界の事象を反映していたというだけでなく、社会と個人の関係がボーダレスに広がり、それは情報組織や傭兵などに限らない、一市民レベルの内面や生活においても転換期となっていたことをいち早く捉えていた。
その作家的直感こそが五木寛之の大きな才能であり、それゆえに彼にはこの現代にあっても注目せざるを得ない。
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