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イタロ・カルヴィーノが、自分の好きな作家に加えられてからそう日が経つわけではないし、彼の作品を全て読んでいる訳でもないのだが、この作家の持つ視線の確かさとでもいうようなものに惹かれる気持ちは作品を読む度に強くなるばかりだ。生前に出版されたエッセイとしてはこの「砂のコレクション」が最初で最後の作品となったようであるが、読み始めて直に思ったのは「パロマ−」との類似性だ。
以前「パロマ−」の読後に書いたことがあるが、カルヴィーノの視線には強さがある。光学の理解が深まる以前に、色彩というものは目から照射された光線からの反射によって生じるものであるとの理解があったらしいが(この本の中でも言及されている)、カルヴィーノのエッセイから感じるものとは、まさにこの近世光学のいうところの照射される視線であると言ってもいい。ところが、面白いことに、この本の中で最も控え目な視線を投げかけている一群「時の形−日本」としてまとめられているの章に含まれる文章が、実は本書の中で最も興味深い考察がなされているエッセイであるように思えるのだ。この一群にある視線とは、照射を伴うような能動的なものでは決してなくて、むしろ網膜に映るイメージを必死に追いかけようとするような受動的なものであるにも拘わらず。
日本を訪れたカルヴィーノが目にしたものから必死に意味を読み取ろうとする姿がこれら一群のエッセイにはある。文化的背景に不案内でありながら、カルヴィーノが探っていこうとするものの本質は、日本人である自分にとっても見損ねていた点や理解もある。それはむしろ日本人かどうかという視点を越えたところでカルヴィーノがものごとを捉えようとしているからだとも言える。もちろん、文化的背景の取り違えや、滑稽な解釈というものがないわけではない。それでもカルヴィーノの捉えようとしている概念は、余りに的確であるとさえ言えると思う。
一方で、西洋文化の様々な側面について触れたエッセイ群については、少しばかり学術的であるという印象が強い。「誰々がこう述べていたように」式の記述が、目につき(そして鼻にもつき)単純に楽しめない。もちろん、自分自身の西洋文化に対する知識の浅薄さにも、楽しめない原因の一端はあるのだが、これらからカルヴィーノ独自の視点を選り分けて自分の思考と伴に納め直すのは容易ではない。この夥しい記述を読んでいて思い出したのだが、ドン・デリーロのアンダーワールドで、イタリア系移民の主人公が、イタリア語で「ディエトロロジア」という言葉があると友人に語る場面がある。その言葉は、謎学、とでも言い換えられるような類いのもので、何故そうなるのかが解らないものばかりを飽くまでも探求するような、単純な論理性に基づいた学問とは毛色の異なる学術分野であるらしい。ここにイタリア人独自の自己矛盾を読み取ることは行き過ぎだろうか。例えば、カルヴィーノが本書で度々比較しているフランス人あるいはフランス文化との対比で考えてみよう。フランス文化の本質に精通している訳では決してないが、フランス人の面白さというのは解らないことを解らないまま突き進めるところにあるように思う。幻惑的というのだろうか。���え知っていても、知らないふりをし続けるエスプリ(時に、それがスノビッシュであるという印象にも繋がる)があると思う。一方、イタリア人は奔放で細かいことに気を使わないのかと思いきや、ディエトロロジアという言葉に見られるように、案外、論理的であることをよしとする気質があるのかも知れない。思えば、近世科学はラテン語と切っても切れない関係があるし、今でこそキリスト教の教えるところの道理は中世の古臭さを引きずった時代遅れの科学的理解であるような印象さえあるが、知識が全て教会内にあり、それを学術的に探求していたのが修道士達のみであった時代は案外長く、そして最近まで続いていたことを忘れてはならないのだろう。しかし、イタリア人にはどこかギリシア人的断定を下す能力に欠けているのではないだろうか。結果として幻想的なものまでも真面目に学問してしまう無邪気な探求心というものがイタリア人気質としてあるように思える。そして、カルヴィーノの西洋文化に言及する姿勢を見て、真っ先に思うのはそのどこかしら滑稽さが伴う気質なのだ。
一方、日本の文化について語るカルヴィーノは、とても慎重に、自分の中にある偏見や先入観に侵されないように見たものを語っていく。ここにある考えは、もちろん、カルヴィーノの人生の中で少しずつ培われて来たものであるに違いないが、この未知の文化との邂逅によって、初めて、意識に上り論理化されたものであるようにも思う。その一つずつ積み木を重ねていくような丁寧な考察が好もしいし、言及された本質の確からしさについても唸るしかない。カルヴィーノが古さというものについて語っている逸話が特に印象的だ。西洋における古さとは、素材の不変性に根ざしている、とカルヴィーノは語る。石に代表されるようなもの、あるいは乾燥した気候が許容する物質の変化の小ささが古さを裏打ちする、という訳だ。つまり「形」である。宗教的に偶像崇拝が至るところで問題化するのを例に持ち出すまでもなく、西洋においては形あるものがあって初めて存在の証明となる、という論理があるように思う。一方、日本における古さとは、物質としてのオリジナリティを必ずしも問われる必要がない、とカルヴィーノは的確に見抜いている。例えば錦帯橋のように何十年かごとに掛け替えられているものも伝統と位置づけ、ある意味で「古さ」という概念と入れかえ可能となっている。しかし、素材は全て変わり、設計も少しずつ変化しているのだ。それはものが朽ちるという世界観に根ざした考え方でもあるのと思うが、残すものはその橋を掛けることそのものの精神である、とカルヴィーノは見切る。つまり「形」のないものも信じる、という精神構造を見いだすのだ。カルヴィーノの見抜いたその考え方に自分も大いに共感する。しかし、そうそう、と大きくうなずいた後で、ふと、その論理自体が多分にキリスト教的でもあるということに気付く。そしてカルヴィーノの考えからわき道に外れてみたくなる。
日本人には、むしろ「看做す」という考え方があるのだと、自分は思う。新しいのだけれど、古いと看做す、のだ。それは、精神を残す、ということと必ずしも一致しないことを、強調しておきたい。例えば、盆栽には、その形そのものを見ているのではなくて、その箱庭的世界が拡大し投影された画を日本人は見ているのだと思う。カルヴィーノの指摘した視点は、職人の立場に立った時には完全に正しいと思うのだが、錦帯橋を眺める人にとっては必ずしも真実ではない。日本人だって、古くからオリジナルとして残っているものを有り難がらない訳ではない。端的な例は「漢委奴国王印」ではないだろうか。でも「三種の神器」について考えてみると、現存するものはオリジナルではあり得ないし(では、壇ノ浦に沈んだものがオリジナルか、という問題もあるだろうけれど)、それでもそれをオリジナルと看做すことにできるいい加減さが日本人的メンタリティとしてあるように思う。それは、この国の湿度が、どんなものでも直にくすんだ色彩に変えてしまうという環境に由来する感覚であるかも知れないし、あるいは、更に一歩踏み込んで考えてみて、人が作り出すものの恒久性というものを信じないことを、軸足に据えている感情に基づくものではないかと思い至る。それを、西洋的論理性で見た時に「精神」的なものを尊ぶように見えるのは解らないでもないし、わび・さび、というものを理屈で解き明かすと、存外そんなものかも知れない。しかし、自分の意図していないものを勝手に読み取られたような感じも残る。
もちろん、カルヴィーノはそう結論しながら、しょせん解らないものがある、ということに気付いている。解らないものがあるけれど、一方で普遍的な視点というものもあることを訴えているのだ。そこに自分は感化される。不偏なもの、それは言葉にでき、自分の考えの全てではないが、不定形のまま存在しているような考えすらも伝達可能なものに置き換える。その一見還元主義の極致のようなものの見方を提示しながら、そこから出てくる単純な結論に飛びつかないカルヴィーノの視点の確かさ。それを再確認することができたのが、この本の最大の収穫だった。