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トルーマン・カポーティによるクリスマス3部作のひとつ。
おばあちゃんと孫と一匹の犬。ささやかな、けれどかけがえのないクリスマス。
周りの愛情とそうでない感情の対比がなんとも秀逸に感じました。親戚たちには冷たくされ、でもならず者という噂のハハさんみたいに優しい人だっている。けれどやっぱり最後は・・・物悲しいですね。
読み終わってからじんわりとくるというか。子供に読ませてあげたい一冊・・・でしょうか。
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高知大学OPAC⇒ http://opac.iic.kochi-u.ac.jp/webopac/ctlsrh.do?isbn_issn=9784163122106
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最初のページで分かった。このお話は読んだことがあると。とても好きなお話だったと。自分がクリスマスの為にフルーツケーキを焼くようになって、それを友に贈るようになって、この愛おしい小品がもっと好きになった。こうして、読んだことを忘れた頃に、またいつか私の前に現れる物語なのだろうか。
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静かに輝く日の光のよう。オーブンから漂う芳しい香りがするような、温かい思い。何度でも読み返したい。悲しいことがあっても、それまでの幸せは失くならない。
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とても素晴らしい本。作者一番のお気に入りとのことで、何度も朗読会でよんでは”我が友”に再会していたのだろうな。くやしいけども、村上訳も素晴らしい。
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カポーティの作品の中で、もっとも愛された作品とも呼ばれるのが、この『クリスマスの思い出』という短編だそうです。この作品は『誕生日の子どもたち』という短編集にも収められていますので、ただ読んでみたい人は、そちらで読んでみてもかまわないと思います。しかし、この本は山本容子さんの銅版画で彩られた絵本というスタイルをとっていますし、1ページ1ページぜいたくに使って、文庫の短編集だと30pほどなのが、この本だと80pくらいに紙的にはボリュームアップしています。なので、金銭的にお得な文庫本をとるか、一冊の本としての完成度の高さがお得な本作をとるかはけっこうな迷いどころだったりします。僕はアホなので、どっちも買ってしまいましたが・・・。
誰もが持っている、心の瑞々しさがあります。そういうのは、子どもの頃につちかわれた柔らかい心の土壌だったりします。それが、大人になって、知らず知らずのうちに死角のようなところに押し込められ、わからなくなっていたりする。また、社会生活をしていくうえで、主に働いていくうえで、そういうのが合理的でなく、機能的ではないので、邪魔っけにされて、使われなくなった心の部分として、いつか出番を待っていたりします。そして、幼く、弱いものとして嫌悪されたりもします。
でも、そういったもののもつ純粋さ、美しさは偽物ではないはず。そういった心でしか見えなかったりできなかったりする、世界の美しさがあり、人の暖かさや情愛があり、生の本来の輝きがある。と、訳者の村上春樹さんの言葉も重ねて書いてみました。
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クリスマスを前に読んでみました。とてもピュアな物語であり、最後には切なさを感じました。思い出は美しくもあり、儚いもの・・・。山本容子さんの版画も素敵でした。毎年この時期に読んでみるのもいいかな。
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11月のある朝がやってくる。それは木の葉も落ち、鳥も消えてしまった、冬の訪れを知らせる朝。するとわが友は高らかにこう告げる。
「フルーツケーキの季節が来たよ!」
まるで自分のその一言によって、胸の踊る素晴らしいクリスマスの季節が到来するのだと言わんばかりに――。
7歳の僕・通称バディー、ぼくのすごく遠縁の、60歳を超えたおばあちゃんいとこ・我が友。そしてラット・テリアの老犬クイーニー。
僕たちはクリスマスまでに30個ものケーキを焼き、森の奥のとっておきの場所からモミの木を伐りだし、ツリーを飾り、プレゼントを用意するために大忙しの日々を送るのだ――。
無垢な少年、世間から浮いた、いつまでも童女のような老女、その飼い犬。弱者であり、貧しく、孤立した彼らはしかし、世界やいのちがどんなに輝かしいものかをよく知っていた。
愛に満ちたクリスマス、その時を迎える日々の美しい思い出とその終焉を描くあいらしくも哀しいイノセント・ストーリー。
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訳者である村上春樹はこの短編を「イノセント・ストーリー」と呼び、その最大の特徴は「悪意というものの不在」にあると評していた。なるほど確かに、という感じです。
しかし、それこそし⚫︎じろうとか、ぐりと⚫︎らとか、小児向けの物語ではなく〈わたし〉が読む物語だーーという文脈で向き合うと、この〈悪意の不在〉というものがきわめて厄介な働きをするように思います。それゆえに、この読書体験はなかなかスリリングだった。
裕福な家庭に厄介者として転がり込んでいる、腰の曲がったお婆さんと小さな小さな少年。クリスマス・ツリーの飾り付けのために日頃から綿埃を集め、クリスマス・ケーキを作るために小銭を秘密の場所に隠しているような、つましい暮らし。そこに〈不在であるはずの悪意〉を見出そうとするのは、他ならぬ自分なんですね。いつか意地悪な叔母さんがケーキをめちゃくちゃにしてしまうのではないか。いつか隣の家の子供に、お婆さんが拵えた手製の凧が取り上げられてしまうのではないか。不安をよそに、彼らにとってのクリスマスこの上なく穏やかに、幸福に、さらさらと流れていく。
この「イノセント・ストーリー」は〈悪意の不在〉という特質故に、自分の心を映し出す鏡として/あるいは、自分の心に巣食う悪意の総量をみるための秤として、とても印象に残った一冊でした。
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7歳の僕、ラットテリアのクィーニー、60歳を超えた遠縁のいとこの彼女との3人の日々。
11月のある朝、それは始まる。
僕らはベッドの下から1年間貯めてきたお金を出してきて、30個のフルーツケーキを作る。
森の奥の秘密の場所からもみの木を切り出してきて、ツリーを飾る。
そしてお互いに相手へのプレゼントを準備する。
淡々と語られるクリスマスの準備。
質素で慎ましい生活なのにとても豊かで幸せを感じる。
山本容子さんの絵も繊細でユーモラス、クリスマスの度に開きたい。
最後は想像通りの寂しさなんだけど、思い出がとても暖かくて読後もじんわりする。
脆くて儚いけれど、強くて強烈な思い出。
村上さまのあとがきは、本を読んですぐには読みたくなかったな。
別物のエッセイとして違うタイミングで読みたかった。
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村上春樹訳。これは英文で読んだ方が良さそうだ。山本容子さんの版画がたくさん掲載されててステキ。クリスマスプレゼントにも良さそうです。
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美しいリボンを飾って贈り物にしたいようなお話です。
先に「ヌレエフの犬」という本を読みました。オブローモフと名づけられた犬は、ニューヨークのトルーマン・カポーティのパーティに紛れ込んで、床で酔いつぶれたカーポーティと同じ皿でウイスキーを舐めていたのです。そしてヌレエフが気に入って彼の犬になったというお話でした。
トルーマンカポーティとヌレエフが交差した時があったということを知ったのですが、トルーマンカポーティは昔「冷血」というとても刺激的な本を読んで、彼は何か偏った嗜好のものを書く人かと勝手に思い込んでいました。
調べてみると、有名な「ティファニーで朝食を」の著者で、他にも美しい短編を残しているとのことでした。
中でも名作と言われているこの本を読んでみました。前おきが長いですが、あとがきで村上春樹さんが言い尽くされているように、とても暖かい、善意に溢れたとても感動的な物語でした。
親戚から疎まれ貧しい小屋で、老いた遠縁のいとこと犬のクイーニーと暮らしている7歳のバディーのお話(すでに思い出になっています)です。
毎年11月が来ると「フルーツケーキの季節が来たよ!」とわが友(いとこ)が高らかに叫んで、クリスマスの用意が始まるのです。貧しい貧しい中から節約して溜めた、中味は殆どコインの財布を持ってケーキの材料を買いに町に繰り出します。ペカンは農場の木の下で拾ってきます。必需品の高価ウイスキーは瓶に一本分けてもらいます。そして出来た31個のフルーツケーキは、毎年知り合ったひとたちや子供に送ります。大統領からもお礼の便りが届きます。
そして、クリスマス用のモミの木は背丈の三倍の高さと決まっています、それを切り出して2人で雪の上を曳いてきます。紙で作った飾りと古くなった電球で飾ります。交換するプレゼントは凧です。2人は草原に寝転んで高く舞う凧を眺めます。クイーニーには骨付き肉をプレゼントすると、いつも草原の土に埋めています。
こんなクリスマスの風景は、彼が大きくなって寄宿舎に入るまで続きます。無邪気な汚れを知らないような二人の日々が、クリスマスの出来事の中から伝わってきます。
カポーティの少年時代と重なっているそうですが、大人になった後もいつまでの心の隅にあった風景なのでしょう。まさに平凡な言葉ですが珠玉のような思い出、カポーティは荒れた晩年を過ごしたそうですが彼の心の中にいつもこんな幸せな思い出が灯っていたのかもしれません。
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60歳を超えた老婆を「わが友」と呼ぶ7歳の「僕」。この2人は「それこそ思い出せないくらい昔からずっと一緒に暮らしている。」
この不思議な関係は、だけど、裏にはこういうことが隠されている。
-僕が両親とはいっしょに暮らせていないこと。
-僕にとって友だちと呼べるのは同じ年代などには全くいなくて、この老婆だけなのだということ。
日々の喧騒のなかで暮らしている(暮らさざるを得ない)自分たちにとって、この作品のように、自分たちの生活からかけ離れたような物語を読むのは、無意味なのだろうか?
答はNO。確かにこの作品は「コロナの時代を予知していた」とかのあおり広告が付けられるような今風の内容ではないかもしれない。しかし例年のばか騒ぎのようなクリスマスでなかったこの時代こそ、静かに読めるこの作品を薦めたい。
この本は本編が75ページの短いストーリー。そして69ページで現れる、老婆が僕に語り継ごうとするかのような場面がとてもいい。とにかくそこまでは読み進めてほしい。
-彼女は長い人生が燃え尽きようとする直前まで、神様の姿を見るためには、死ななければならないと思っていた。
でもそれは間違いだった。
人は人生の最後の最後に、ぱっと悟るのだ。神様は前々から私たちの前にそのお姿を現していらっしゃったのだということを。
物ごとのあるがままの姿、それは私たちがいつも目にしていたもの、それがまさに神様のお姿だったのだと。
それがわかった今では、ここでぽっくりと死んでもかまわないと思う-
振り返って今の私たちはどうか?目の前の不幸に悪態をつき、呪い、誰も見たことのない来世ばかりを気にしている。
たしかに人間にとって本当の生きる喜びは目の前にある、ということを実感するのが難しいのは重々承知。
だけどこんな時だからこそ、この作品を読んで、ほんの一瞬だけでも“明かり”を目にしたような気になれたらいいのではないか。
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冬の暖炉みたいな、優しくてあたたかい空気。
こういうことはたぶん自分にはなかったのに、ノスタルジックな気持ちになるのはなぜなんだろう。
満たされるような、幸せな気持ちになれる。
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大人の友達がいるの、なんだかいいな。それはそうと読み始めて気がついた。読んだことあると思ったらティファニーで朝食をの文庫に収録されてる話だった。