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現にある宗教と宗教とが互いに磨き合うこと
http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20121223/p1
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北森 曾我量深先生は私が尊敬する仏教学者の一人ですが、「往生と成仏」という論文で次のようにいっておられます。
われわれはやはりキリスト教でも仏教でも、お互いに語り合うて、そうして別に仏教者がキリスト教にかわるとか、キリスト教が仏教にかわるとか、そういうことをしないでもですね、両方が互いに話し合い、両方が互いに磨いていくということが必要でなかろうかと、こう思うのでございます。(『中道』一九六七年一〇月号)
曾我先生はここで、「磨き合う」という表現を使っておられるんですが、さきほど中村先生がおっしゃったグローバルな宗教というようなものが、もし将来見通すことが許されるとすれば、現にある宗教と宗教とが互いに磨き合うことによって到達できるのではないでしょうか。
--中村元、北森嘉蔵「わたしのなかのブッダとキリスト」、『中村元対談集? 釈尊の心を語る』東京書籍、1991年、247-248頁。
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『中村元対談集? 釈尊の心を語る』(東京書籍)読んだ。この対談集には、「神の痛みの神学」で名高い、日本を代表する独創的な神学者・北森嘉蔵先生との対談が収録されている。
初出は、『季刊恒河』(秋冬号、学習研究社, 1983. 11)。両者ともに、仏教とキリスト教に徹底的に沈潜していくものの、その普遍的な眼差しを見てしまうと、もうどちらが基督者で佛教者なのか分からぬほど、卓越していて驚いてしまう。
この対談では、中村、北森両先生が、それぞれの宗教環境を含む生い立ちから学問・宗教との出会い、その核心の開陳と展望という構成になっている。
白眉は慈悲と悲。仏教の慈悲の思想、キリスト教の悲の思想(ここではまさに「神の痛みの神学」の“悲”)が語られるが、そこには宗学の狭量臭さは存在しない。
一点に集中しつつも、それだけで発想しない相互学習としての思想史の必要性へと議論は進むが、これは仏教学、神学だけに限定されない地平であろう。
北森先生は、尊敬する仏教学者の一人・曾我量深氏の言葉を紹介している。
「われわれはやはり、キリスト教でも仏教でも、お互いに語り合うて、そうして別に佛教者がキリスト教にかわるとか、キリスト教が仏教にかわるとか、そういうことをしないでもですね、両方が互いに磨いていくということが必要でなかろうか」。
中村先生は、それを受けて「古い表現では切磋琢磨なんていいますが、それは漠然と考えたものを、別の機縁を与えられてそこでパッと目が覚めて、もういっぺん反省してみて、深い構造的理解をもたらすということじゃないかと思うのです」と。
もちろん、それは狭義の仏教研究の域を逸脱するけれども、それでいい。
なぜなら、それは「人間の真理を探究するのですから」。
勿論、恣意的でOKだよと同義ではない。
しかし、宗学なりの枠組みを鸚鵡返ししていくだけでなく、真宗学がバイブルを使ってい���だろうし、クリスチャンが『スッタニパータ』を学ぶことによって、より自身を深く理解することは不可能ではない。
中村先生はかねてより、アカデミズムとしての仏教学とその始原としての宗学の訓詁注釈主義を批判してきた。
二千数百年もある仏教の歴史から見れば、日本の宗学だなんて、たかだか七百年(鎌倉仏教)でしょう、というわけで、まさに「伝言ゲーム」(植木雅俊)の最後のところだけで喧々囂々やってもはじまらない。
もちろん、独りよがりとか独り超越は避けるべきことは言うまでもないが、異なることと向き合うことによって、それ自身がより深く明らかになることのほうが多いのではあるまいか。