紙の本
数学から科学観の歴史をみるのだが、歴史の流れを大きく見せてくれて痛快。
2012/07/15 11:43
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投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
学術文庫でも20年前の出版で、それも単行本からの文庫化であるからあまり新しい本ではない。しかしとても新鮮な気持ちで読むことができる。単行本では「罫線のいらない数学入門」というタイトルだったが、本書でのタイトルの方がイメージは近いだろう。数学の発展を通して科学観の変遷を語る、科学の歴史の紹介であるからだ。
しかし「科学史」というにはエッセーのように著者の考えが濃くでているし、その分面白さも濃い。登場する科学者の性格などは小気味よくばっさりと著者の感覚で切られてしまう。それがかえって理解を助けてくるように思えるのも不思議ではある。数学の説明についても、対数を「桁の計算」という表現での独特の説明はなかなか教科書では味わえない面白さであった。
扱われるのは神学も科学も混沌としていた時代のヨーロッパが中心。確かに数学も魔術の中にあったような時代で、人間の考え方の変化が大きくおきるという意味では一番面白い時代かもしれない。そういう時代を振り返り、著者は「17世紀は人間の空想力が混沌から世界を作るための力を持っていた。」「やはり人間は自分と等身大の、日常の発想からしか出発できないのだろう。」と評する。そこには現代(といっても著者がこれを書いたのはずいぶん前になってしまったが)の科学の専門化への批評があるが、しかし「現代でも空想は可能」と希望は捨てていない。
著者のようなとらえ方はときに「おおざっぱ」「いいかげん」にも見えるかもしれないが、実は的確なイメージをあたえてくれているのではないだろうか。「木を見て森を見ず」のたとえもある。文庫版あとがきの村上陽一郎さんは「ともすれば木しか見ないところに、豊かな森を見て取り、その森を料理してみせた。」と表現している。たしかにそんな一冊である。
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16世紀までは「魔術」とか「錬金術」と呼ばれていた数学が、18世紀に今でいうところの「数学」として確立するまでの歴史について書かれた本。今でこそ、数学者が真実以外を主張することは許されないが、当時はホラ吹き学者が誤謬をまき散らす中で、一片の真理が拾い上げられてきた、というのが実態である。ケプラーは惑星の軌道が楕円であることを「発見」したことで有名であるが、本人は、惑星の軌道は「真円」であると死ぬまで「信じて」いた。彼の精緻な計算技術は、惑星の軌道が楕円であることを示していたが、占星術師としての彼の美意識は、あくまでも真円であることを要求していたのである。魔術から数学への一大変動期には、悲喜交々、さまざまなドラマが隠されていて興味深い。
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中世の数学と世界観の本。私には半分くらいしか理解できないけど、食えない博学じじいの話を聞いてるような楽しさがある。ラストが秀逸。
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冒頭部で、「数式を使わない数学の本」を書いてくれとお願いされてそれを上梓してくれるというのは文系諸氏からするとありがたいものではある。とはいえ、数式を用いない以上、それは数学の本でもなければ数学史の本でもなくなる。解説でも言われているが科学思想史を数学者を中心として綴った書物というのが妥当な説明になるのかもしれない。本著の価値はそれが数学者によって記されているというところだろう。一般的に科学の分野にいる人間は思想を嫌うであろう。彼らが思想を用いるときは現代科学に直に結びつくような思想を持つ人間ばかりなのだけれど、著者はむしろ中世的なスコラ神学なんかに興味を持っていたりするようでなんともまあ面白い人である。ウィキペディアによれば論文が二つしかないのに教授になっておられるようでますます意味不明な方である。語り口にときおり関西弁が混じったりもするし、わからない、や、疎いが頻発するのも学者としてどうかとは思うが、その謙虚さには好感が持てる。
時代としては中世から近代の始まりにかけてがメインに綴られている。人物的には主立って焦点が当てられているのは、ガリレイ、ケプラー、デカルト、パスカル、ニュートン、ライプニッツあたりだろうか。著者は時代の数学者を捉えるにあたって二項対立的に捉えるのが好きなようで、ガリレイとケプラー、デカルトとパスカル、ニュートンとライプニッツをそれぞれ対比させている。ちなみにイギリス自然学みたいなのはあんまりお好きではないようで、ロックを除いてホッブズやベーコンに対しては批判的な意見を述べられておる。そもそも、イギリス自然学ってなんやねん、みたいなの。著者は人物を理解するときにはイメージで捉えているらしく、ケプラーを緻密主義な理想主義者、ガリレイを大雑把なところもある現実主義者、デカルトをやはりちゃらんぽらんな合理主義者、パスカルを緻密主義な文学的気質者、ライプニッツを多産的理解不能人物、ニュートンを一極集中的な腺病質のような具合でそれぞれ表現し比較している。ここにそれぞれの数学者としての業績などが加わってくるからそこらに溢れているエッセィとは一線を画している。学術書的な雰囲気を匂わせつつも、自由に綴られた科学思想史は扱われている時代が魅力的であるだけにのめりこまされる。個人的にすごく印象に残っているのは、古代ギリシアでは有限に力点が置かれていたということや、砂(図形=分割可能)と石(分割不可能)の二項対立、数直線による無限分割回避(点が連続して線となる)、そしてなにより一般的な歴史史観を自らのイメージで覆す著者の度量だろうか?数学的な知識が薄れてしまったせいで所々理解しきれないところもあったように思われるが、それでも非情に愉しませてもらった一冊である。
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中世のヨーロッパにおいて、魔術の中にはのちの数学となるものも含まれていたという話だったのかな、全然覚えていません。
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小数や数直線など、小学生レベルのことの数学史的な位置づけ。数学本というより文化史という感じで、読みやすい。
数学的に難しいのは、logの説明のみ。logの感覚を説明していて面白いが、2節目は読み飛ばした。
著者独自の歴史の捉え方を語るところがところどころ気になる。
p.99「(彼は)ゴリゴリのセクトには向かなかったと想像できる」
「ゴリゴリ」は最近(2012)の流行語だと思ってたが、1980年のこの本で普通に使われている。
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「科学は宗教と矛盾する。」という俗論を弾劾するにはちょうどいい本。近代哲学や科学はやはりスコラ哲学から出ているし、まず肝心の宗教も決して一枚岩ではない。それもそのはず、人が支配しているのだから、あらゆる「思考」や「政治」があって当然のことだ。いままでの考え方を根底から覆される印象さえある。
題名からすると数学のみを扱っている印象だが、ガリレオの物理学、中世の体積と重さの考え方など、おおむね近代科学史を俯瞰することができる著である。語法や表記にすこし荒っぽさを覚えるが、とても読みやすい。
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めちゃめちゃ面白い。
残念ながら私の数学知識、歴史知識がないから、おもしろさは半減の半減、それでも面白い。
学が無いことでおもしろさを感じられないのが、とってもくやしい。
17世紀となれば、数学の専門家もいなければ、物理の専門家もいない、気になることはなんでもやった。
今では細分化して、専門的に、より専門的になっているけどね。
はっきりいって、高校数学、大学受験数学はとてもできた。
ただ、その意味は知らないものばかりで、
意味がわからないからこの本のおもしろさがよくわからない。
わからないままテクニックとして、数学をやっていたのです。
パズルを解くように。
この本を読んで、微分積分が実は面白いのじゃないかと。
テクニックでやっていたけど、なんで微分積分なんてものがあるのか?
そういうとこが実は面白い。
テクニックとしての数学を楽しむ人もいるだろうけど、
そもそも数学は生きてきたなかでの疑問を解決するためにうまれたものです。
その解答だけ学ぶよりも、その疑問も学んだ方が面白いよね!
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西洋思想の成り立ちを数学の観点から読み解いた良著。
これを読むと今まで読んできたものの視点が少し変わるかも!?
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ルネッサンス期、科学者、数学者、魔術師、錬金術師から占星術師まで渾然一体としていたんだ。
義務教育や高校の数学の意味も、数式いじくりまわすだけでなく、こういう事だったんだと再発見出来る一冊でした。
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ルネサンス期前後〜近代にかけてのヨーロッパを中心とした数学史をゆるく扱った本だが、第3章の対数計算が秀逸。対数は、掛け算・割り算の関係を足し算・引き算の関係に変換する装置という説明は頭では分かっていたつもりだったけれど、桁数を基準に設定(=常用対数)とした時の概算方法はかなり感動した。
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数学という枠組みができるのにも当然プロセスがある、今みたいなんじゃない数学の雰囲気があったってことがわかる。
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光文社の「カッパブックス」の一冊として刊行された本の文庫版です。
もとのタイトルが「計算のいらない数学入門」だったとのことですが、多少は数式が登場します。まったく数式を使わずに書かれた著者の『数学の歴史』(講談社学術文庫)の試みのほうに軍配をあげたいと思いますが、『数学の歴史』よりはもうすこし親しみやすい文章で、ルネサンスからデカルト、パスカル、ニュートン、ライプニッツの時代までの数学とその思想的・文化的意義について解説がなされており、おもしろく読むことができました。
数学が苦手な読者にも、数学の文化史のおもしろさが伝わる本だと思います。
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石と砂が、点とそれが連なっていくことで線が出来るイメージの起点となった。直線の誕生が、終わらない果てを作り、その中にいくらでもどのようにでも存在しうる点を内包することで「無限」という発想を登場させた。枠で縁取る、舞台を認識することで空間が生まれる。位置としての入れ物の空間と、位置が瞬間によって変移していくという運動の働きは時間という器の中で存在を新たにしていく。空っぽの空間、空っぽの時間。舞台が出来上がることでその内の無限性が同時に表れ、次にはその内部の一つ一つの点を捉えるというところから、記号としての位置の表示という方法が生まれる。変数ができ、数直線が表され、式という形が取られはじめる。位置と時間が示され、それに運動が相まって、速さや運動自体の量が定義される。物質の量、運動の量、それぞれをかけ合わせることで運動の特徴を表示することが出来るようになり、数学というものが体系となっていく。
あたかもこの身の回りのあらゆるものと連関していると感じられる実在するものたちを超えて、独立して関係なく成り立っているという概念(世界観)をはじめて捉えられるようになる。それは簡単に言ってしまえば抽象化という方法なのだろう。でも、そうやって観念的なだけではない認識としての世界が立ち上がり、その俎上において世界が更新されていく。いま僕たちが当たり前に受け止めている基本となる認識は、歴史という連なりの中で、哲学する人たちによって、さまざまな地点から飛躍し更新し、構造が定められた。それは世界を広げていくという人間らしい行動の希求の働きだったのだろう。
概念の誕生、それぞれの更新と拡張によって、数学的世界の認識はいまぼくたちが獲得しているものとなった。それは、これまでのどの時点よりも先端に表れたものと云うことはできるのだろうが、それをもって、確かなただひとつの答えに向かっている途上でのより確かな世界像を捉えているいまだと思い込んでしまうのはきっと違うのだろうと思う。ただただ一端でしかないのだ。デカルトもパスカルもニュートンもライプニッツも、あらゆることを想像し発想し世界を膨らませて世界を捉えようとしていた。沢山の誤謬や勘違いや形にならないものを手にしながら、その内の幾つかだけが哲学的に数学的に形を為して、人間が抱える世界像を更新することに働いただけなのだ。きっと、いま確立しているものだけが必要なのではなく、それからこぼれ落ちるように表れては消えていった様々な認識の煌めきがあって、そうやって存在しうる発想の無限性や自由性こそが、何よりも思考すること、思考し続けることの楽しさを僕たちに与えるものではないだろうか。
'そこでは、重さと体積を混同する子どもを嘲笑することはできない。おとなだって、魂の底に子どもの心を持ち、中世人の意識を持っているはずだ。すべてのものが、数量化され、秩序付けられた世界、それは人間の意識にとっては、案外に不安定なのかもしれない。
それに、現代の秩序から、たとえばデカルトの世界を嘲笑することは、さらに愚かなことである。<世界>が、高校の教科書にあるようにだけ把握されることが���正しいとはだれも保証できない。事実、現代の物理学者だって、デカルトの<渦>の世界から、なにかの発想を見いだそうとするという'
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数学の発展には、それを取り巻く文化と時代背景があり、錬金術師や魔術と呼ばれていたものから濾過され進化したものだ、という話。
「数学は言語である」という言葉があるが、まさしくその通りで、その時代その地域の思想と観念に結びついて形作られたのだなと理解することができる。
無限の概念、異種どうしの積と商など、今では当たり前のように存在している感覚が、当時のパラダイムシフトによって発生したのだという知見は目から鱗だった。
ただ、正直なところ世界史が(かなり)(ものすごく)苦手な私には、当時の政治と数学者の関係に関して何を言っているかさっぱり分からなかった。
数学と世界史、両方ともそれなりに興味のある人でないと理解が難しい書籍かもしれない。