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「独我論」からウィトゲンシュタインを中心に「他者」へと目を向けなおすことを説く本。章ごとに短く区切ってあるためテンポ良く読み進められる。
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あれほど面白く読んだのに、何書いてあったか殆ど忘れた。確か言語の「体系」の否定だったか…面白かった事は覚えているのでオススメします。
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≪他者≫とは共通の規則を持たないもの。
他者の出現の意味を考えることは、無効なのでしょうか。
探究せねばならぬのでしょう。
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この本は、世の中の男子(あるいは経済社会)の、思考回路(考える筋道)を学ぶのにいい、と思って大学生のとき読みました。けれども、正直、実社会ではあまり役立たなかったような・・・。
論理的思考のトレーニングによい。
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コミュニケーションとは何か。
「語る」=「聴く」という関係ではなく、「教える」・「学ぶ」という関係において柄谷氏はコミュニケーションを捉えようとします。
本書はウィトゲンシュタインやマルクスといった思想家を引用しつつ展開されていきます。
そこで氏が「探究」するのは、お互いにおいてすでに了解された規則体系内でなされるコミュニケーションではなく、他者とのコミュニケーション、つまり共同体と共同体の間において「命がけの飛躍」によってなされる「交換」としてのコミュニケーションです。
「考える」とはどういうことかを、教えてくれる一冊ではないでしょうか。
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久しぶりに再読した。
前に読んだ時はわからなかったことがなんとなくわかるような気がしたのでよかった。
ところで、この本は、同じ構造をいろいろな場面で、言語・貨幣・キリストで繰り返しているだけなんじゃないのだろうか。
いや、大事なことだから繰り返したということなんだろうけれども。
おもしろいかといえば、おもしろいです。
といっても、ウィトゲンシュタインを全然知らないので、ウィトゲンシュタインを理解できただとか、そういうおもしろさじゃなくて、「こういう事考えるのっておもしろいよなー」というおもしろさです。
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学生の時に一度読んで、歯が立たないなあと思って一度あきらめた。一年ぐらい置いてから読んだら、わりとするすると「面白いなあ」と思いながら読み終えることができた。今でもあの時の読書体験は不思議だったなあと思う。一生懸命本を読んでいたとはいえ、それほど成長した感じはなかったのになぜだろう。ある日急に自転車に乗れた感じというか。
ただ、それからだいぶ経ってしまい、内容もほとんど忘れてしまった。ヴィトゲンシュタインのことが書いてあったような気がするな、とか、教える/教えられるみたいなことが書いてあったような気がする、というレベルである。
トランスクリティークを最近じっくり読んだので、その目からこの本はどういう風に映るのだろうか、とまた違った関心がこの本に対して向いている。
いずれまた読み返したい。
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主観-客観問題についての思想書みたいな感じでしょうか。
多くの哲学者が登場しているので、ある程度の知識が無いと読みづらいんじゃないでしょうか。
悟った感じや上からの目線が無いので割と素直に考えられましたね。
他人とは何か、もう少し踏み切った意見も知りたいなと感じましたが。
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柄谷は他者と《他者》を区別し、前者を自己との対称性に基づく他者、後者を自己との非対称性に基づく他者と定義する。柄谷によれば、内省から出発する従来の哲学は自己と他者の対称性を前提とする「話す‐聞く」モデルを暗黙のうちに採用しているが、そこで見出される他者は自己と同じ言語ゲームに属している他者であり、結局のところ他者はもうひとつの自己にすぎなくなる。その点で従来の哲学はモノローグ的な独我論におちいっている。
それに対して柄谷は、自己と他者の非対称性を前提とする「教える‐学ぶ」モデルに依拠することで《他者》、すなわち他者の他者性を回復させようと試みる。この《他者》は自己と同じ言語ゲームを共有しない他者であり、自己の外部に位置する他者である。このモデルにおいては「教える」自己と「学ぶ」他者のあいだに根本的な非対称性(「命がけの飛躍」)が措定され、そこではじめて非対称的な自己と他者とのあいだの対話(イロニー)について考察することが可能となる。
柄谷はこうした独我論から対話へのモデル転換の契機をデカルト、キルケゴール、マルクス、ウィトゲンシュタインのなかに見出す。その論理的切り口と接合方法は鮮やかで、現在、独我論や他者といった問題を考えようとするなら、この著作で提起された視点を避けて通ることはできない。
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「彼が斥けたいのは、私自身の『痛み』の確実な経験から、『他者の痛み』を推論するという考え方なのだ。『他者の痛み』は、論理的な証明の問題ではありえない。彼が私的言語を斥けるのは、それが他者の問題を自己の『内的状態』から出発して推論的に考えるようにさせてしまうからである」(p.226)私たちが普段考える他者の声は、実のところは自分の声である。自分自身も含めてわかり得ないものをさもわかっているような口をきく行為に些細ではあるが、違和感を持っていた私の心理状態を非常に明瞭にしてくれた一冊。また、マルクスの古典経済学派批判を用いて《他者》の他者性を論じた説明はとても面白く、納得させられた。
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すごく興奮しながら読んだ。難しかったことが分かるようになることって、素晴らしい!まぁ理解出来てるかは、これから分かるようになりますw
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連想に裏打ちされた放恣な論理展開と飛躍。理論書としての体裁は確かに逸脱しているのかもしれない。
しかし、ウィトゲンシュタイン、それを援用したクリプキの言説に依拠しつつ、マルクスをカントを召還し「他者」とのコミュニケーションの場面に出来する「暗闇の中の根拠なき跳躍」を描く。「他者」を「他者」として歓待すること。ここに倫理がある。
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最近、研修のなかで聞いた話に「大きく分けて2種類の人間がいる」というものがある。すなわち、「イメージで物事を捉えるタイプ」と「理詰めで、文章的に、物事を捉えるタイプ」。当然、これらのタイプは互いに互いのことを「合わない」と感じる傾向があるようだが、決して「敵同士」ではない。「お互いを補完する形で協力しましょう」というのが結論であった。ちなみに、結婚生活を長引かせるコツも、タイプの違いを意識し、「許す気持ち」が大切なんだそうな(笑)。
これ自体、考えてみたら簡単な話なのだけれど、僕にとっては目から鱗であった。つまるところ、僕自身にはこの程度の考えすら抜け落ちていたということである(25年間も!)。知らず知らずに「俺が俺が」になってしまったことは反省しなければならないし、実際この考えを聞いたとき、少し救われた気持ちになれた。その意味で、その研修には感謝をしているし、僕にとって忘れられない研修となるだろう。
さて、『探求Ⅰ』である。柄谷さんは本書について「《他者》あるいは《外部》に関する探求である」としている。「第一章」の題に表れているとおり、本書の出発点は「他者とはなにか」ということなのだ。柄谷さんはウィトゲンシュタインの考えを踏襲する形で、「他者」を「共通の規則(コード)をもたない者」だと定義する。たとえば、「言葉を教える」ということで考えると、「他者」とは「教師―生徒」の間柄ではない。「私―外国人・子供」の間柄こそが「他者」である。従来、論じられてきた哲学にはこのような「他者」が欠落しているらしい。これを出発点に、柄谷さんによる「《他者》あるいは《外部》」論が炸裂することとなる。
ところで、そのような高尚な論を捕まえて大変失礼な展開をするが、これは冒頭で述べた(俗なる)結婚生活論ともつながってくるのではないだろうか。「タイプの違い」とは、ある意味では「規則(コード)」の違いということもできる。もちろん、「共通する規則(コード)」を多分に持つ夫婦関係は、厳密にいえば柄谷さんのいう「他者」には該当しない。しかし、「私―外国人・子供」にも多からぬ「共通する規則(コード)」があるだろうこと――それは「人を殺してはいけない」という倫理観などである――を考えると、結局はその割合の問題であって、多かれ少なかれAとBとの関係には「他者性」が含まれていると考えることができる。もっとも、柄谷さんは「私―外国人・子供」の関係と夫婦関係とを、「向かい合わせ」の関係と「隣り合わせ」の関係という言葉を使って、区別しているのであるが。
いずれにせよ、本書にある「他者」論は「向かい合わせ」の関係にのみ応用の効く理論ではない。「隣り合わせ」の関係にだって転用は可能であろう。その意味では、本書を使って、俗なコミュニケーション論を構成することも可能である。いわば、実生活への応用が容易な一冊と捉えることもできるということである。いわゆる「実学」的な要素を多分に孕んでいる。
【目次】
第一章 他者とはなにか
第二章 話す主体
第三章 命がけの飛躍
第四章 世界の境界
第五章 他者と分裂病
第六�� 売る立場
第七章 蓄積と信用――他者からの逃走
第八章 教えることと語ること
第九章 家族的類似性
第十章 キルケゴールとウィトゲンシュタイン
第十一章 無限としての他者
第十二章 対話とイロニー
あとがき
「学術文庫版」へのあとがき
危機の探求者――『探求Ⅰ』を読む―― 野家啓一
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柄谷さんがデビュー時から一貫して拘り続けている倫理的問題と存在論的問題のズレ。この「くいちがい」に関する問題が、実は他者や外部の問題であった、つまりくいちがいを見ることは独我論から抜け出そうとする試みに他ならなかった、ということ。わたしは柄谷さんの本を読みながらくいちがい、について考えていたが、本書を読んでくいちがいと他者について柄谷さんがどういう答えを出したのか、自分なりに納得したつもり。そして同質の言語ゲームを共有しない他者を、という柄谷さんの議論はまったき他者に対する歓待を説くデリダと完全に一致する。彼等の類似性及び差異についてより考察出来るように勉強します。で、このまったき他者との不可能なコミュニケーションを想定することは、メッセージが届くだろうと想定することを拒むので、一種の諦観に繋がるようにも感じられたのだけど、どうなんだろう。彼の思考をもっと精密に追わなければならない。二巻も読みます。
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[ 内容 ]
<Ⅰ>
本書は〈他者〉あるいは〈外部〉に関する探究である。
著者自身を含むこれまでの思考に対する「態度の変更」を意味すると同時に、知の領域に転回をせまる意欲作。
<Ⅱ>
『探究1』で、独我論とは私にいえることが万人に妥当するかのように想定されているような思考であると指摘した著者は、『探究2』では「この私」を単独性として見る。
単独性としての個体という問題は、もはや認識論的な構えの中では考察しえない。
固有名や超越論的コギト、さらに世界宗教に至る各レベルにおいて、個(特殊性)―類(一般性)という回路に閉じこめられた既成の思考への全面的批判を展開する。
[ 目次 ]
<Ⅰ>
第1章 他者とはなにか
第2章 話す主体
第3章 命がけの飛躍
第4章 世界の境界
第5章 他者と分裂病
第6章 売る立場
第7章 蓄積と信用―他者からの逃走
第8章 教えることと語ること
第9章 家族的類似性
第10章 キルケゴールとウィトゲンシュタイン
第11章 無限としての他者
第12章 対話とイロニー
<Ⅱ>
第1部 固有名をめぐって(単独性と特殊性;固有名と歴史;名と言語;可能性と現実性;関係の偶然性)
第2部 超越論的動機をめぐって(精神の場所;神の証明;観念と表象;スピノザの幾何学;無限と歴史;受動性と意志;自然権;超越論的自己;超越論的動機)
第3部 世界宗教をめぐって(内在性と超越性;ユダヤ的なもの;思想の外部性;精神分析の他者;交通空間;無限と無限定;贈与と交換)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]