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最初から相当意味わかんないけど中盤物凄い爆弾があって俺はこういうの大好きだなって思った、あんまり理解できてるとは思えないけどね。
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メキシコの作家、フアン・ルルフォの作品です。ラテンアメリカ文学の先駆けと評価されています。
ラテンアメリカ文学の物語世界は現実・非現実や、過去・現在・未来の非境界性に特徴があるのですが、この作品では生・死すら区別が曖昧になっています。200ページくらいなのでご一読あれ。
「この町はいろんなこだまでいっぱいだよ。壁の穴や、石の下にそんな音がこもってるのかと思っちゃうよ。歩いていると、誰かに付けられているような気がするし、きしり音や笑い声が聞こえたりするんだ。それは古くてくたびれたような笑い声さ。声も長い間に擦り切れてきたって感じでね。そういうのが聞こえるんだよ。いつか聞こえなくなる日が来ればいいけどね。」
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散文的で登場人物の名前が覚えにくい。
読み終わって、構成うんぬんな作品というより、読了感や余韻を楽しむ方が正しい気がした。
マジックリアリズム特有の死者と交わりなど当時読んだらもっと衝撃的だったと思う。時間が経った時もう一度読み直す作品。
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死者が埋葬され土と石に帰るのなら、私たちは堆積した死者の上に生きているのではないか。彼らの記憶も積み重なり、それは時間の進行という枠組みを超えて断片的に交差する。本書が南米文学の起源であると同時に到達点だと言えるのは、決して循環する構造が故だけではない。土地と血縁、そして革命と血生臭いモチーフが用いられているのにも関わらず、それらが全て断片的な構成として提示されるからこそ幻想的な魅力を帯びてくる。死者の記憶に耳を傾け続けることが生者の努めだとするならば、本書はまるでレクイエムそのものなのだと言えるだろう。
(2013/10/08追記)
再読。積み重なる死者の記憶が印象的な故に初読時はレクイエムの様だと感じたが、実際に死の瞬間というのは驚くほど描かれない。「気分じゃないよ、アナ。人間が悪いんだ」言葉は簡潔かつ明瞭なのに、時にドスを効かせて読者を刺しにかかっている。荒地の寂寥感に潜んでいたのは、生きる事にも死ぬ事にも興味はないとでも言いたげな虚無感であった、死者が集う街・コマラは地獄の釜から浮かび上がる蜃気楼か、それとも登る事の叶わぬ煉獄の丘か―否、どうでもよいのだ、そんなことは。最も緻密に作り上げられた、生きることそのものに対する暴力。
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断片的に語られている物語。この節では誰が主人公なのか、いつのことを話してるのか、私には難しくて捉えられず、物語では読まないと決めていた解説を読むハメに。こういう書き方をするのはわかりづらいな、とは思ったけど「コンパクトなテキストのなかに膨大な時間と空間を閉じ込める方法」としては納得がいった。もう少し経ってから、また読んで見たい作品
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ささ‐めき【私=語】
ささめくこと。ひそひそ話。ささやき。また、男女のむつごと。
「貴妃の―、再び唐帝の思ひにかへる」〈海道記〉
初めてこんな言葉を知ったが、これほど的確にこの小説を表す一言はない。
ささやく。ひそめく。
まずは翻訳の文体の素晴らしさ、語のセレクトの素晴らしさ。
少ない文字数から滾々と湧く抒情。
次に構成のしかけ。
ただシャッフルしているのではない、ひとつの言説が連想を呼び過去を掘り起し広がり深くなる。
最後に語られる内容。
極悪な奴なのにスサナへの思いが、たまらなく切ない。
すべてを手に入れようとしてそれだけ手に入らず。
これだけの男の行き詰まりは街の行き詰まりを呼び廃墟へ。
cf 中上の浜村龍造
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1955年発表。メキシコの小説家、フアン・ルルフォ著。父ペドロ・パラモを探しに母の故郷コマラを訪れた主人公は、死者達のささめきに呑まれていく。七十の断片で構成され、時系列が激しく前後し、死者の会話が入り乱れる。
不思議な小説だった。まずストーリーは、はっきり言って一回読んだだけではよく分からない。解説と照らし合わせながらもう一度読み返してみると大体の内容は掴める。しかしむしろ、この小説はストーリーではない部分に核がある気がする。淡々とした断片の配置が生み出す浮遊感、まるで当然のことのように交わされる死者との会話、簡潔で不可思議な詩的表現などから醸される雰囲気。円環的なストーリーのせいでもあるのだろう。たどたどしくて不安定というか、切ないというより寂しげというか、まさに幽霊的な感じがする。
ラテンアメリカの小説・架空の町という設定・前衛的手法という点でガルシア=マルケスの「百年の孤独」と比較されることもあるようだが、コマラが死者の町ということだけあって、「ペドロ・パラモ」はだいぶ静的で淡々としている印象受ける。
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奥深い、底知れぬ物語。
死んだ男をめぐる噂話が、死んだ人間たちの間で語られ、死んだペドロ・パラモの人物像がうすぼんやりと形作られていく。伝え聞きの集合体として物語が建設されており、それらを細胞に、町の盛衰が語られる。鮮やかな小説。
ガルシア=マルケスに「百年の孤独」を書かせた小説という、ある意味で究極の評価を得ているようだが、そういう文学史的注釈を抜きにして面白い。
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すごく不可思議な小説で、構成が最初良くわからず、物語世界に入っていくまでに時間がかかりました。
解説を先に読めばよかったかも知れない。
途中からどんどん惹きこまれていって、死者が語るのも気にならず、登場人物それぞれの話しぶりや人柄もわかってきて、勢いがつきました。
土地勘がないので、そのあたりの自然、たとえば蒸し暑さや風の音を想像するのも難しいのだけれど、映像が目に浮かぶような感じで、なんだか違う世界に連れて行ってもらえたような。
描写が詳しいわけでもないのに、映画的な作品に思えました。
ラテンアメリカ文学の多くは、独自のカトリック信仰が底辺に流れているので、その部分を理解できないと物語の表層だけをなぞることになりそう。
人と人との問題以前に、神と人との問題があって、神父さんが出てくるからとかそういうことじゃなく、聖書はもちろん、「告解」とか、カトリック的考え方を知らずに深い理解はできない感じ。
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死者の町コマラ。ペドロ・パラモはとにかく女好きで強欲でけちで、嘘つき。子供も何人くらいいるのか分からない。生者と思ってたひとが死者だったり、前の章で脇役やったりしたひとが次の章で語り手になったりどんどん人が入り交じる感じが面白い。
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死人たちが会話し、現在未来が出てこない過去だけのお話。舞台はメキシコに革命が起きるあたりかな。なんとも不思議な話だが、面白くて一気に読んでしまった。神父の描かれ方を見ていると、教会あるいはカトリックに対する批判なども含まれているのかも。
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きっと、登場人物の相関図みたいなものを作って読めば、その面白さを味わうことができるのかもしれないが、わざわざそういうことまでして小説を読もうとは思わない。
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生と死の境目が取り払われた迷路のような世界。死の床で母親が言い残した通り、父の村へ行った。そこで出会った相手は、じつは死者だった。死者に気づかわれたり、気づかったり。当の語り手も途中で死んでしまい、隣の墓の住人を相手に話していたりもする。人物にスポットがあたって展開していくというよりは、土地の記憶のような話。そう思えば、生者も死者も区別なく行き交っている感じもよくわかる。
岩波文庫の解説によると、ファン・ルルフォ(1918-86)はメキシコ、ハリスコ州アプルコという小さな町に生まれて、1920年代に暮らしたこの町が原風景になっているそうだ。当時はまだメキシコ革命の混乱が続いていた時期で、政府と教会が激しく対立し、暴力と破壊がこの時代の特徴らしい。
寡作な作家で短編集『燃える平原』(杉山晃訳 書肆風の薔薇 1990)と二冊しか作品がない。短編集を先に読み、世界になじんでから『ペドロ・パラモ』の世界に入るというのも手かもしれない。短編も独特の世界が描かれている。
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「たくさん悪いことをしたこの地上からあの男を連れていってくださった神様に感謝しよう。いま天国にいるかもしれないが、ま、そんなことは問題じゃない。」
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ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった作品らしく、岩波文庫のなったときに即買いましたが、自分にはあまりその良さがわかりませんでした。