紙の本
「諸学の女王」から「コンパの幹事」へ
2007/05/11 23:08
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Living Yellow - この投稿者のレビュー一覧を見る
「脱構築」という言葉に引きつけられ、でも悩まされる、というか、いろんな「現代思想用語」に振り回され、「この著者、結局いったい何が言いたいんだよお!」と怒鳴りたくなるような気分になったことのある人にこそお勧めの1冊。
分厚い・高い。装丁も地味。使っている用語もそんなに分かりやすい用語というわけではない。しかし、この本には「諸機械」とか「ゆらぎ」とか「コーラ」とか著者自身にしか分からないじゃねえの?というようなマジックワードは一切使われていないはずだ。ちゃんと調べれば分かる言葉(言語哲学系が多いが)ばかりだ。文体にも凝ったレトリックはないが親しみやすい語り口。むろん翻訳が良いということもあるが、原著者がとにかく読者に分かってもらおうと丁寧に書いたという事実が、まず根本にある。
テーマは「哲学が一番偉い学問だって?そんなわけないっすよ」の身も蓋もない一言に圧縮できる。もちろん哲学に意味がないと言っているわけではない。哲学が物事の真のありようを映し出す(独占する)鏡であるという考え方を、「哲学の黒歴史」をたどって、丁寧に論破していく。そしてこれからの哲学を、「単一の真実に到達するための探求・対話」の学問ではなく、いろんな事象・学問・人々と出あい、刺激しあい、ときにはけんかもしながらも、一緒に生きていく方法の学として蘇らせようとしている。
「諸学の女王としての哲学」ではなく「コンパの幹事としての哲学」へ。
原著は1979年、アメリカでの刊行だが邦訳はその14年後。野家啓一氏が中心になっているのだが、あのニューアカデミズムブームの時こそ、出版されるにふさわしい解毒剤だった。「脱構築」という言葉自体が一番偉い呪文だったあのころ。
でも今になって読んでも、良かったと心底思う。
ただ心理学に関する言及は、コンピューター科学と脳科学のこの30年近くの間の進歩でさすがに無理が生じている。
とはいえ骨組みはしっかりしているので、当分読むに耐えます。
デューイとヴィトゲンシュタインとハイデッガーを同じ戦線に送り込むという緻密な力技には本当にやられました。
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西洋哲学を鏡のような本質という概念で鋭く分析した著作で、最後にあらわれる声という概念が意味深だと思う。
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認識論の核とされている、自然の像を映し出す鏡としての人間の心概念を反駁する。
この認識論はデカルト以来の基礎であった。
基礎付けを否定し、新たなパラダイムの模索を提案する。
一つの異常科学は、デリダの脱構築の戦略であった。
ローティは独自に解釈学を新たな理論として提唱している。
そのなかでは各学問は並列であり、万学の母としての哲学を位置づけることはたくらみとされてはいけない。
論壇哲学の解体。
職業としての哲学に批判的。
脱構築
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近現代の哲学は自然を映すための鏡という視覚的メタファーによって展開されてきた。
ローティはこの主張を軸に哲学の脱構築を測ろうとする。
鏡が意味する所は対象を正確に表す像という対応関係のことで、この対象/像-関係というメタファーが真理や主観、客観などの二元論を可能にしてきたと考えるわけだ。
西洋近代の文化を方向付けてきたこの視覚的メタファーを完成させた立役者として著者は、デカルト、ロック、カントの三名を挙げている。
デカルトが主観的確実性の根拠として、「意識」を描きだし、
ロックが意識が経験する観念の中に感覚をも含ませ、
カントが理性をアプリオリな原則によって定められた超越論的認識システムとして限界づけた。以降、哲学の主要問題は存在論から認識論へとシフトしていく。
哲学は知識の正当性を基礎づけることが使命とされ、あらゆる学の最終的裁定者としてみなされるようになっていく。
対象との一致、つまり真理性の意識とはどのような領域にあっても、最終的には対話によって合理的な一致点に到達可能であると考えるパラダイムのことだ。この共役可能性のパラダイムはソクラテスの対話篇を著したプラトンから続く哲学の通奏低音をなしている。
多数の個別的なものを集約する真理、時代を超越する普遍性を目指し対話が行われていく。それは過去から未来まで連綿と続く対話だ。だからこそ進歩がある。
そんな合理性の名の下に共役可能であるとみなしてきた西洋の認識論に対して、
ローティは共役不可能性を対峙させる。
「われわれは共役可能である」という認識の下、行われてきたのが「対話」だとすれば、
共役不可能性を受け入れた後、成しえるのは「会話」だと考える。
「会話」とは話し合いにおいて共役可能な合理的真理を目指そうとはしない。普遍性に向かって高まっていくことはしない。ただ違うもの同士がお互いの不一致を維持しながら、むしろその不一致を楽しみながらなされる。
その過程をローティは「ある知人に慣れ親しんでいくように」と語っている。
ここには後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」が示していた、ゲームを実践することによってルールと戦い方をマスターしていくように言語も使用することによって、特定領域の言語ゲームに慣れ親しんでいくというメタファーの響きがある。
「会話」と「対話」との差異はソクラテスとプラトンとの差異でもあるように思う。
初期のソクラテス対話篇のいくつかの対話は開かれた形で終わっている。
『リュシス』では友愛についての問いが、『メノン』では徳についての問いが、議論した末、議論する前よりも謎を孕んだものとなり対話が終わる。
問いに答えを出すことを目指しているようでいて、議論そのものを楽しんでいるようなのだ。古代ギリシアにはエリスティケー(問答競技)と呼ばれるスポーツ化した議論を楽しむ趣味があったらしい。初期ソクラテスはこのエリスティケ―に興じているような趣があるのだ。
それもプラトンが亡きソクラテスを想起しながら自らの議論を発展させるために、純粋な話し相手として創造したのが初期ソクラテスだったと考えるとうなずけることでもある。
中期から後期の対話篇の中のソクラテスはイデア論のスポークスマンに徹していく。
予め真理(イデア論)を知ったソクラテスがその真理の実有としてのイデアを各テーマの中に見出していこうとするスタイルに変質していくのだ。最終的に議論はソクラテスの長広舌で終わる(『国家』、『ゴルギアス』など)。その長広舌はミュートス(物語)であって、神話的、宗教的な響きを持っている。ここに至っては聴衆に説教を行う司祭のような趣さえある。
話はイデアを見出すための対話でしかなくなり、開かれた話のための話ではなくなってしまう。
初期の対話篇を通じて自分なりの思想を練り上げたプラトンが己の哲学を語らせるためだけにソクラテスという容れ物を使っているかのようなのだ。
初期対話篇のソクラテスが様々な人との話のための話を好む、ある意味俗で多様性を愛する猥雑さを持っていたのだとすれば、中後期のソクラテスは対話を経て最終的に真なる一を見出そうとするプラトン的な純潔を体現するようになっている。
想起の中のソクラテスと完全にプラトン化したソクラテスとの差異。
このソクラテスとプラトンとの差異が「会話」と「対話」の差異であり、この差異の間に哲学という物語が展開してきたと解釈してみたくなる。
真理を見出すためじゃない、目の前の相手と話すことそのものを楽しむ。そこでは自然の鏡としての認識など求められてはいない、必要なのは解釈だ。解釈だとしら知識ではなく想像力が重要となる。
各自の解釈を提示し合って、気になればつっこんで話をふくらませるのもいいし、全く別の解釈を提示してもいい。相手の解釈を再解釈してもいい。
求められるのは開かれた会話だ。それはスタンスの問題だとも言える。
自分はこう思うが、それは一解釈であって、とりあえず相手の解釈に耳を傾けてみないことには話が続かないといった、、、多様な視点からの解釈がぽんぽん飛び出してる会話という場を歓待するそんなスタイルだ。
「話好きのおっさんソクラテスに帰れ」とわたしは解釈したわけだ。