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ある人にこの本をすすめられ、このような言葉を教えてもらいました。
『人生に期待するのではなく、人生が自分に期待している』
辛いことや苦しいことがあるのは、人生が自分に期待しているから。
嫌なことがあっても、それは未来の自分へ繋がる経験になると前向きに考えられるようになりました。
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人の存在を徹底して肯定し、筆者の収容所での壮絶な体験を通して、
人の自立と主体性について深い示唆を与えてくれる名著。
自分が自分を否定しない限り、何人もそれを侵すことはできない
という厳かなメッセージが響きます。
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アウシュヴィッツを生き延びた男は実に静かで穏やかだった。彼は地獄で何を見て、絶望の果てに何を見出したのか? 本書にはその一端が述べられている。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100623/p4
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あるカウンセラーに薦められて読みました。人生に行き詰ったと感じた時に、是非読んで欲しいです。繰り返し読み、タイトル通りイエスと思えるようになりました。
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生きる意味とは何か?
そう考える人はぜひ手に取ってみて下さい。
直接的に意味はこれだ!とはとらえられないかもしれません。
でも,必ずひっかかるものがあると思います。
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夜と霧の著者の作品
人生に幸せを求めてはならない。幸せは結果だ。
自分はそう言えるくらい真剣に生きているか。
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自分の人生が、これからどうなるのか不安で仕方がない。再度手にとって読んだ。そもそも、人生に期待をするのではなく、人生の苦難に対して自分が何をできるか、人生が私達に何を期待しているか、なのだと。どんな苦難があっても、意味のある人生にすることができる。そのためには、自分の持ち場で今を生きるということなのだと思う。未来に不安を募らせるよりも、今に身を置いて、今生きていることに集中すること。それが人生にイエスということなのだと思う。ただ、それが今の自分にはとても難しい。
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これは読まねば…!(2010.8.23)
読み終わった(2010.9.10)。
想像していたのとちょっと違っていた。
精神分析医のフランクルが、戦争終了後間もないうちに彼が行った講演をまとめたものであるが、平易な言葉で「生きることの意味」を問いかけた哲学書といっていいだろう。
あの強制収容所を生き抜いてきた氏であるからこそ、その言葉は非常に重いし、またこのもとになった講演が戦後間もない時期(フランクル氏自身、解放されて間がない時期)であることに驚かされた。
人間はどんな極限の中にあっても、人間らしさを失わずに命をつなぐことができる強い力を持っているのだということを知らされた、何かにくじけそうになった時、勇気をくれる本。
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こういう哲学的な本を読むことはあまりないので内容を噛み砕くのに時間がかかりました。
「生きること、人生ってなんだろう?」
その明確な答えは、ありません。
なぜなら、
「人生それ自体が何かであるのではなく、人生は何かをする機会だから」
多方向からの考えで、全体としてどうとらえるか?
捕らえ方次第だなって思いました。
弱いときに、どういう心の持ち方をするか・・・
そのときに、その人の人生が見えると言っています。
外面的な成功と内面的な成功の話も、捕らえ方次第ですね。
考えが深まりました。人生、まだまだ、これから!!!
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この本には驚きました。
第二次世界大戦中、ドイツでユダヤ人強制収容所に収監。夢も希望も持てない極限状況から生還したその人は言う。
「幸せは目的ではない。結果だ。
われわれが人生の意味を問うているのではない。
人生が私にわれわれに問うているのだ」
生きる目的は生きること。
これが実存主義っていうものの本質だったんだなあ。
ほかのだれかが言ったら、うなづけないかもしれない考えも、この人に言われるとぐうの音も出ない。
そんな言い方は絶対にしないと思うけど、
「強制収容所でもそうだったよ」
と言われたら、その検証結果にはうなづかざるをえない。
驚いたなあ。
世の中にはたいした人がいるもんだ。
『夜と霧』も読んでみようかなあ。
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死とは何か、生きる意義とは何か
を説いた本。
かなり内向きな本なので、鵜呑みにしないように読んだ。
印象に残った箇所は、安楽死についての章と、障害を持つ子をもつ母の手紙の紹介。
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全ては、一人ひとりの人間にかかっている。
人生は何かをする機会だ。
創造性を発揮し、言葉でなく「行動」によって
生きる意味を実現するかどうかにかかっている。
生きる意味のないプロパガンダには、別のプロパガンダを開始する。
生き方を助けるものは「責任」。責任を引き受けること。
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以下メモです。
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タゴール(インドの詩人、小説家、哲学者)Rabindranath Tagore
私は眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働くーーすると、ごらん、
義務はよろこびだった。
人間は「楽しみのために生きているのではない」からです。
困難に対してどのような態度をとるかということのうちに、その人本来のものが現れ、また、意味のある人生が実現されるのです。私たちは、スポーツマン精神というほんとうに人間らしい精神も忘れてはなりません。スポーツ選手がすることといえば、困難によって成長するために困難を造りだすことにほかならないではありませんか。
もちろん、ふつうは、いまある困難のほかに困難を造りだす意味はありません。ふつうは、不幸に苦悩する意味があるのは、その不幸が運命であって、回避できないばあいだけです。
ですから、私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められないような事態はない」とゲーテはいっています。それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです。どちらの場合でも、私たちは、運命によって、不幸によって精神的に成長できます。
「私は人生にまだなにかを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
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僕にはこんな高尚な考えが理解できませ~ん
何か道を迷った時、心に闇が生じたとき、病を患った時・・・
この作品に心の隙間を埋めてもらえるのかもしれないな
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解説が良い。本文の方は論理が飛躍しすぎててすぐに納得できない部分が多い。
世界は全く無意味なのか。それとも世界の全ては「超意味をもつ(意味を超えている)」としかいえないほど意味を持つのか。
前者のニヒリズムは、無にとらわれつつそれを説く自己を有としているところが傲慢だ。自身の実存が意味を与える機能を持つ唯一のもので、唯一の意味保有者であるという傲慢。
後者の考えはもはや信仰に属する事柄で、ただ信じるしかないのだけれど、そうすることで僕らの日常が日常を越えた永遠の世界(超世界)と通じる。超世界に自己をゆだねることによって、真の自己実現が成就され、意味実現が成就される。らしい。
どちらが正しいのか分からないのなら、後者を信じてみようか。