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もともと本に書き込みをするのは嫌なのだが、これは線だらけ。
そして書き込みをした唯一の本である。
十代の一番多感な時期にカフカと出会ってしまった青年の回顧録。
多分に思い出のなかにあるものとして、そして結末を知っているものとしての感情は差し引いたとしても、マックス・ブロートのフィルターを通してしかカフカを知らなかった多くの人々にとって、ここには彼のもう一つの肉声が確かにある。
彼の職場へ訪ねて会話をしたくだりなどは、どうしてこのような普通の一役人があのような物語を書くのだろう?という疑問を大きくしたり、小さくしたり。
そして十代の青年が物語の解釈・感想をかの作家と交わすのだ。
(カフカ自身の日記にもヤノーホの訪問について触れてある箇所がいくつかあり、照合していくと興味深い)
私自身、この本に出会ったのが十代の終わりだったが、とにかく読みふけった。そして今もたまに読み返すのだが、線引き部分が妙に照れくさい時もあれば、別の部分に感銘を受けることもある。
「こころ」の先生と私のような関係?
しかし、カフカは家族・友人・婚約者など近づこうとする人に警戒心を与えず遠ざける手法をどのように身につけたのか。
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遠くの的を射るためには、的よりも上に矢を放たなければいけない……こういう言葉で、演劇が現実よりも過剰に振舞うことの本質を語っている。ここでの対象は演劇だが、もちろん、演劇に限らずすべての表現に当てはまる指摘だ。とうぜん、アニメにも。というか、アニメほど、このカフカの言葉を真正面から生きているジャンルもないような気がする。(いま、記憶で書いているので、詳細で記憶違いがあるかもしれません)
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何用の牢獄?
「カフカとの対話」を少し進めました。カフカが出版された自作の本(流刑地にて)を見て狼狽するところなどありましたが、頻出するのは誰しも自分の中に牢獄を持っているという概念。ウェーバーの社会の檻が個人化してきたものでしょうか。そしてその牢獄の中に好んで入ることによって人々は暮らしている、と。それは人間の本来の生き方とは違うのだと。
それを求めて或いは憧れてカフカは「なぐり書き」を書くのですが、それはいくら求めてもたどり着かないユートピアなのではないか、と…
では、今日も「家畜の群れ」の中に入ってきます…
(2012 05/30)
カフカの絵
今日はほんの数ページ。そこではカフカが絵を描く姿が出てくる。池内紀氏のカフカのブックカバーにあるアレですね。昨日、カフカの自作の本に対する態度のことをちょこっと話しましたが、絵に対してはその態度がもっと先鋭化していたらしい。
でも、この本に書かれていること、どこまで「ほんと」なのかな。こんなはっきりいろいろ言う人なのかなあ。それはそれで自分の勝手な想像…まあ、ここではヤノーホ版カフカを楽しめばいいんだけど…
(2012 05/31)
カフカにとって冒険とは?
冒険とは持続であり、生に身を挺することであり、見かけはなんの苦もなく一日一日と過ごすこと、にほかなりません。
(p79)
これはヤノーホの知り合いが自殺した話をカフカにした時の言葉。カフカにとって自殺することはなんの力もいらないことらしい(「判決」の主人公のように)。でも、生そのものに牢獄を抱えているカフカや私達にとっては、生きることが最大の冒険である。ということみたい。ほとんどの人にとってはむしろ逆に思えるところだけど。
その他、プラハの町歩きと盗賊の切断された手が残っている教会の話や、労働者の集会(デモ)に遭遇したカフカの話、表現主義的な詩の本を前にしたカフカ・・・など、興味あるところはたくさん。
やっと100ページ。
(2012 06/02)
直線の人生と自由
悲劇にいたる過程は、悲劇の結末よりも無惨です。
(p114)
ヤノーホの子供時代の回想(貨物列車に飛び乗り石炭を盗む子供たち)からの対話。石炭を取りに行こうとして車輪にひかれる少年は、その瞬間の前から既にひかれている、とカフカは言う。悲劇にいたる過程は、あらゆる人生に共通な「原罪」そのものである、と後になってわかってくる。
宇宙と地球のあらゆる現象は、天体のように円周を描いている。つまり永劫の回帰です。人間だけが、具体的な人間という生物だけが、生誕と死との間の直線距離を突っ走るのです。
(p127)
その円環の宇宙秩序を乱す人間の生こそが「原罪」なのだ、とカフカは言う。原罪は落下なのだと。ここでも「判決」の主人公を思い出すけど、では、カフカは全く人生に対して否定的なのかといえば、そうでもない。人間の自由とはそこから生まれるものである、と彼は考えている。人間は死すべきものであるからこそ、自由を与えられる。この場合の自由は直���的な、孤独・個人的な自由である・・・たぶん、他の生きものは「死」なるものを考えたことも、感じたこともないのだろう。たぶん・・・
(2012 06/03)
共震の能力
ヤノーホの父親の友人の趣味のバイオリン工房?の話。カフカは今現在聞こえない音域の音も、これから聞こえてくるかもしれない、という。様々な音に囲まれて、自らも共震する身体の細胞…別のところでカフカが言っているように、ここでのカフカの議論が今やっと自己組織化とかの理論に結実しているのかもしれない…
(2012 06/04)
錯乱した世界の…
今日は2つの引用文を。
根拠の分からぬ罪悪感ほど烈しく魂のなかに定着するものはありません。
(p158)
精神分析や発達心理学のダブルスタンダード問題といった面、それからこの言葉をキーワードとしてそれを裏返したものが「変身」であり「審判」であるといった面など。
世界の評価と自分の評価との間がもううまく噛み合わなくなっているのです。われわれが住んでいるのはめちゃめちゃに破壊された世界ではなく錯乱した世界です。すべてがもろい帆船の索具のようにぎしぎしと軋んでいます。
(p182)
ふむ、これは現代社会論の一つの理論として使えそうだ。ものと意味の間も、ものとものの間も、人と人の間も…錯乱すればそれだけ情報も増える…
錯乱した世界の…
(2012 06/06)
近道は夢
私たちにとってそもそもどこかに、まっすぐな道などというものがあるのでしょうか。近道とは夢にすぎない。それは迷いの道にすぎぬことが多いのです。
(p209)
カフカはプラハの狭い路地の由来まで知っていた、という。そんな彼ならでは?の言葉。瞬間と持続するものの認識過程を少し考えてみると、ひょっとしたら道というもの自体虚構かも。
しかし人間の大多数は、超個人的な負託の意識なしに生活します。そしてここに悲惨の核心があるのだと思われます
(p232)
自分も大多数の側だなあ…
なんかそういう負託?みたいなの掴んでいると強い…とは思うけど…
カフカの作品で、そういう負託を掴んでいる登場人物っているのかなあ…
(2012 06/10)
カフカと音楽
えと、おはようございます。
またちょびっとな「カフカとの対話」ですが、今日はカフカが音楽をどう捉えているかのところ。彼はどうやら自分を「非音楽的な人間」と思っているらしい。その意味は(当たっているか自信ないけど…)ものごとを流れとして把握できなくて、切れ切れになってしまう(と、本人は思い込んでいる?)というところ。
うーむ、カフカの小説って非音楽的?とも言えるし、でもそうではない気も…
(2012 06/11)
カフカの語り手は語るのか
語り手はその物語についてなにも言うことができないのです。物語るか、さもなくば沈黙するか、これがすべてです。彼の世界がその内部において高鳴りはじめるか、さもなくば沈黙のなかに沈み果てるか。私の世界は響きを消しました。私は燃えつきたのです。
(p269)
全知全能の作家が全体見取り図を持って登場人物��配置と運命を決めるのとは違って、20世紀の小説は登場人物に語らせ行動するタイプが多い…が、ある種抽象的なカフカ作品でもそうなのか…
でも、一番気になるのは最後の部分…
(2012 06/13)
進むほど遠のく…
人類が、朦朧として形を失った、したかって名を失った群衆と化するのは、形を付与するところの掟から脱落することにあるのです。しかしそんなことになれば、もはや上だとか下だとかいうものはない。生活は単なる生存まで平板化します。
(p303)
大衆はせき込み、走り、時代のなかを疾駆して行く。どこへ行くのか。どこから彼らは来るのか。誰も知らないのです。それは進めば進むほど、目的に到達できなくなる。そして無益にその力を使い果たすのです。
(p305)
掟の話という作品があるということ、それから「目的」とは何かということ…などなど気になります。
・・・人間社会の「熱死」ですか・・・確かにそんな感じになるような気が・・・人間というものの宿命があちこち(特に未知の場所)に動くことであり、その動く本性が現実逃避から来ているのだとすれば、その動きが最大化した時、世界がどこも同じで平板化する・・・というのは実に皮肉な結果かも。それが、「上も下もない」「単なる生存」「目的に到達できない」と表現されているのでは。
6月中に読み終えられるか、心配です。
(2012 06/16)
カフカが出掛ける時
と、このペースだといつ読み終わるかわからなくなってきたので、「カフカとの対話」を今日読み終えることにしました。
まずは、カフカがサナトリウムに出発する時の会話から。
「未来とはすべて私のここにあるのです。変わるということは、隠れた傷があらわになるということにすぎないのです」
(p312)
では、どうしてサナトリウムへ?というヤノーホ青年の質問に対しては、
「すべて被告というものは、判決の延期を希って努力するものです」
(p313)
と返す。この辺カフカの「審判」やブッツァーティなど連想する。それにしてもカフカって思いのほかに?洒落たこと言いますね。まあ、被告とかいう発想は法律事務所勤務という境遇がそうさせるのでしょうけど。
次もそんな軽妙洒脱(苦い味が混じるのが、本当の洒脱・・・)な表現を。
「昔の王朝時代の首都を一周しましょう。上品なそぞろ歩きは、ふつう葡萄酒やコニャックを一杯引っかけてから始めるものですが、私たちはどうも二人とも、それほど控えめな麻酔剤の消費者ではありません。私たちには、もっと複雑な麻酔が必要なのです。だからアンドレへ行きましょう」
(p325)
アンドレというのはプラハの本屋。だから「複雑な麻酔」というのは言うまでもなく(って、言ってるけど(笑))本のこと。自身は様々な悩みに囲まれていたには違いないけど、対する相手には気を使ってもてなす。これがカフカという人間だったらしい。
で、そぞろ歩きから帰ってきて、この頃両親の不和に悩まされていたヤノーホにカフカが語るところから。
今日では大部分の人が、感情と創造力の片輪です。
(p329)
創造力の基礎は、他人の立場にたって物事を考えること。
最後にカフカが出掛けた(そう死へと)時、ヤノーホはその日が、父親を亡く(自殺)してから21日目だったことを知り、その21という数字が自分の現年齢とわかって驚く、というシーンでこの「対話」本編は終わります。その後のヤノーホの足取りもなかなか興味深いのですが、出版が第二次世界大戦後(1951年)であったこと、そして半分くらい?が追加された「増補版」が1968年であったこと、を歴史的事実として挙げておくだけにしますです。
でも、いつの日か、カフカがそぞろ歩きから帰ってきそうな気がする・・・
(2012 06/17)
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年下の友人による対話の記録。これが本当なのかどうかはわからない。イエスを語る弟子はこのようではなかったのだろうかと思わせるまるで福音書のようなテキストだった。聖人視のようなところがある。なので、きっとカフカ本人は慌てるような気がする。ただ、書かれてあることは舞台が現代なので、より受け取りやすい。書かれた経緯についての話があるかもしれないけれどその中身から考えさせられることはヤノーホにとってのカフカだとしても読むべきところがあるように思う。シュタイナーについての言及などもあり面白かった。
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これはノンフィクションとされているが、訳者が語っていたようにフィクションも含まれているのかもしれない。別冊「カフカの恋人たち」では彼の悲壮感が顕になっていたが、若きヤノーホに対しては微笑を加えながら諭している場面が多々ある。カフカの言葉に触れる貴重な一冊。
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カフカという作家は実によくわからない。奇天烈なイマジネーションを発散/噴出させた小説からはなかなか見えにくい「素の顔」があるように思う。このヤノーホによる仕事は、そんなカフカをずっと身近な存在(私たちにとっての「人生の達人」あるいは「教師」)のように見せる/魅せるところがある。今回読み返して、私は彼が何よりも言葉の力を信じていたことに気付かされる。だからこそ罵詈雑言を語る人間を一蹴し、言葉を粗末に扱う風習が長く続くことはないと信じ切ったのだろう。今、言葉は本当に粗末に扱われている。カフカならどう呟いたのか