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内容はもちろん良いのですが。本のかなりの分量を占める中村元さんの脚注を読むと、常に読む人を想像して書いたであろう誠実な姿勢が伝わってきて感銘を受けます。脚注をひたすら読んでしまいました。
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仏教の始祖である、ブッダの教えの中で最も古いものらしい。ブッダの言葉を詩の形式にしたものを、さらに翻訳している。
詩の形式になっているところが、面白い。昔は文字の文化というよりも口伝だったのだろうか。ここから、お経になっていったのだろう。
お経って詩なのか、そういう意味ではキリスト経にも讃美歌があって、繰り返し唱えるためには、詩にして韻を踏むと覚えやすいという効果があるのだろう。
内容は繰り返しの部分が多いが、生活を正して、欲や執着を排除し生活せよということに尽きる。
完全に欲や執着を排除するのは難しいが、日々イライラすることが多いので、役に立つ部分もありそう。
但し、修行者が何も生産せず、施しで生きることを良しとしている点はちょっと参道しかねる。労働によって、糧を得て、それで生活するのが、健全だと思う。
自身への戒めとして、粗食を旨とし、荒々しい言葉や他人を苦しめること、争論を好むのを慎もうと思う。
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ちょっと大変だったけど精霊さんなどの話もあってよかった。
お釈迦様のお考えになった一端が感じられてよかった。
学者さんのお書きになられた本なので学術的なところが信仰している人にはぴんとこないかもしれませんがきっと伝わるものだと感じます。
がんばりましょう!
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朝、コーヒーをいれながらぱらぱらと読んでいるだけで、背筋が伸びる。
むだのない、力強いことば。
ことばの発しているエネルギーの質が違う感じ。
見た目よりも、ずっと分かりやすいことばでつづられていて、
おすすめです。
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原始仏教の言葉を集めたもの。『法句経』とは異なり、ガウダマとバラモン・学生・夜叉(精霊)たちとの対話があって、大変印象的。とりわけ、人生を最期を悟った賢者ピンギアがガウダマに帰依するところは感動的だ。空、執着、解脱、地獄、縁起、出家など仏教の基本的概念は入っている。漢訳では『阿含経』や『義足経』などに入っているそうだ。
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カテゴリの中に新たに「仏教」を追加した。
本から
五蓋 ― 貪欲、瞋り、心の沈むこと、心のそわそわすること、疑い
眼ある人 ― 一般に仏の異名
諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、知見を具えて、
諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母体に
宿ることがないであろう。
この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは
安楽をもたらす。実に真実が味の中での美味である。智慧に
よって生きるのが最上の生活である。
愛欲にともあって起こる、清く見える外形を捨てて考えよ。
(身は)不浄であると心に観じて、心をよく一つに統一せよ。
汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。
汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は
恐怖といわれる。何時の第七の軍隊は疑惑であり、汝の
第八の軍隊はみせかけと強情である。
善い人々は最上の善い説を説く。これが第一である。理法を
語れ、非法を語るな。これが第二である。好ましからぬことばを
語るな。これが第三である。真実を語れ、虚妄を語るな。
これが第四である。
自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれたことばなのである。
若い人も壮年の人も愚者も賢者も、すべて死に屈伏してしまう。
すべての者は必ず死に至る。かれらは死に捉えられてあの世に
去っていくが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。
見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、
人は1人づつ屠所へ引かれる牛のように連れ去られる。
このように世間の人々は死と老いといによって害われる。
されば賢者は、世のありさまを知って、悲しまない。汝は来た人の
道をしらず。また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両親を
見ないで、いたずらに悲泣する。迷妄にとらわれ自己を害している
意図が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、
賢者もそうするがよかろう。泣き悲しむことによっては心の平安は
得られない。ただますますかれには苦しみが生じ、身体がやつれる
だけである。みずから自己を害いながら、身はやせて醜くなる。
そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。泣き悲しむのは
無益である。憂いを捨てない人はますます苦悩を受けることになる。
亡くなった人のことを哭くならば、憂いに捕われてしまったのだ。
また自分のつくった業にしたがって死んで行く人々を見よ。
かれら生あるものどもは死に捕えられて、ここに慄えおののいている。
ひとびとがいろいろと念願しても、結果は意図とは異なったものとなる。
期待に背くこと、このとおりである。世のありさまを見よ。
たとい人が百年生きようとも、或いはそれ以上生きようとも、
終いには親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。
だから尊敬さ���べき人のことばを聞いて、亡くなった死者を見ては、
「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」と悟って、悲しみを
嘆き去れ。
世に名とし姓とし附せられているものは、通称にすぎない。
(人の生まれた)その時々に附せられて、かりに設けられて
伝えられているのである。
人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を語って、その斧によって自分を断つのである。
害心なく清くして汚点のない人を憎むかの愚者には、必ず
悪がもどってくる。風に逆らって微細な塵を散らすようなものである。
独り坐すことと道の人に奉仕することとを学べ。聖者の道は
独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。
世間における種々なるかたちのあらゆる苦しみは生存の素因に
もとづいて生起する。実に知らないで生存の素因をつくる愚鈍者は
くりかえし苦しみを受ける。それ故に知り明らめて苦しみの生ずる
原因を観察し、素因をつくるな。
われは(昔さとりを開こうとした時に)愛執と嫌悪と貪欲(という三人の
魔女)を見ても、かれらと性の交わりを行いたいという欲望さえも
起こらなかった。大小便に満ちたこの女がそもそも何ものだろう。
わたしはそれに足で触れることさえも欲しない。
―安らぎを固執することもなく。
世の中における種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。
愛欲と憂いとの両者を捨て去ること。沈んだ気持ちを除くこと。
後悔をやめること。
ゴータマ・ブッダの説法 前約428年-383年
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仏陀が大きな教団を作る前に説いた人生の道標。
人は生まれによってバラモンとなるのでなく、行為によってバラモンとなるのである。
理法に従って道を歩む「信仰」(saddha)が大切とされる。
チュンダに語った四種の修行者の話でソクラテスやイエスの言ってたことと本質的には一致するのではないかと思いました。
「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。
この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ
みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。
善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──かれは<道を汚す者>である。 」
輪廻の思想や、仏陀に問いかけをする神神、惑わす悪魔など、文章から見ると壮大な背後世界を全く肯定しているような気もするが…。
中村元スゲー
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何も拘らなくなったら気が楽になっていいよ。
仏教のうちで最も古い経典のスッタニパータの現代語訳。漢訳は部分的にしかされていないのでパーリ語からの翻訳。
煩悩を捨てよ。煩悩を捨てよという事も捨てよ。
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ブッダのことばースッタニパータ
p17- 「犀の角」のようにただ独り歩め。
「田を耕すバーラドヴァージャ」
農夫「あなたが田を耕すのをみたことがない」
ブッダ「わたしにとっては、信仰が種子である。苦行が雨である。智慧がわが軛と鋤である。はじることが鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである。
身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって[牛の]軛を離すことである。
努力がわが〈軛をかけた牛〉であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。
この耕作はこのようになされ、甘露の果実をもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる」p24
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきこと。リスト[慈しみ]p37
「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る」p42
[聖者]
世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、ー諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。p49
楠正成「七度び人間と生まれて朝敵を滅ぼさむ」p302
深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであることーこれがこよなき幸せである。p58
ヴェーダ(真理の知識)
強情をなくし謙虚な態度で、時に応じて師のもとに行け。ものごとと真理と自制と清らかな行いとを心に憶い、かつ実行せよ。p69
ラーフラ(羅睺羅)ー釈尊唯一の息子。p71
ウポーサタ(斎戒)p83
(釈尊はなぜ出家したのか)
「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが、出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。p85
〈メモ・素朴な疑問〉
みんなが仏陀に帰依して、出家したら、托鉢などできなくなる。
このパラドックス。
【竜】p111
世間のうちにあっていかなる罪悪もつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱している人ーこのような人はまさにその故に〈竜〉と呼ばれる。
サーヴァッティー市のジェータ林、〈孤独な人々に食を給する長者の園〉p142
「接触にとらわれ、生存の流れにおし流され、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。
しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している」p162
「従属するものは、たじろぐ」「従属することのない者は、たじろがない」p168
物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。p169
智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他��と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。p180
「『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかにやることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」p186
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釈尊本人の教えに最も近い聖典。パーリ語から翻訳されたもので、分かりづらい部分は多いが、素朴で分かりやすい部分も多い。結局は自分次第ということ。何度も読み返したい。
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究極の無関心と悟りとの違いをお坊さんに聞こうと思う。
573節〜
594節〜がブッダのことばをよくあらわしている。
修行者は サイの角のようにただ独り歩むべきもの
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「実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を撹乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ一人歩め。」Tha blue herbに同名の曲がある。自らの意思を研ぎ澄まし道を切り拓く人たちにこそ必要な最古の極めて実際的哲学者のことば。人生の必読書。
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仏教書のうちで最も古い聖典の訳ということで興味を持って読んでみました。
一つ一つは短文ですが、注釈も含めるとなかなか読み応えがあります。
ただ、正直なところ9割方理解できませんでした。ともかく、形ばかりは最後まで「文字」を目で追いましたが、そもそも「仏教」思想についての基礎知識すらないレベルですから、その根源思想、それも詩の形式で記されたものが分かるはずもありません。
気になるフレーズの欠片でも、記憶に残ればと思います。
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現存する仏典のうち、最古といわれる『スッタニパータ』の日本語訳(原典はパーリ語)。
最古ゆえ、ゴータマ・ブッダその人に最も肉薄している仏典といえる。
この世の苦しみの源、煩悩から離れて心の平安を得るということ、空の思想、涅槃に至る方法などを易しい言葉で繰り返し説く。
群れるよりも孤独に沈思せよ、と説く姿勢は、教典や教団=宗教を否定するものであり、むしろニーチェの思想に近いものを感じる。
ブッダの教えが「仏教」として高度に発達するより前に書かれているので、難解な理論は登場しない。
同時に、日本仏教がブッダの教えからいかに変質した「仏教」であるかを実感する。
過剰なまでの訳注のおかげで解説書いらず。
本文を読んで「?」と思った箇所はたいてい訳注が解決してくれた。
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数多い仏教書おうちで最も古い聖典といわれているのがこの「スッタニパータ」であります。
現在の仏教とは少し違う原始仏教のことを知りたくて、もっともブッダの発言に近いといわれているこの本が前々から読みたいなぁ~って思ってたんだけど、難しそうだなぁ~って思ってなかなか手をつけれないでいた。
きっと難しいんだろうと思い、気合を入れてエイヤーっ!っと読み始めたら、これがなかなか読みやすい。わかりやすい訳のおかげなんだけど、読みやすいし、これがおもしろいかった。
個人的に最も感銘を受けたのが「蛇の章 八、慈しみ」の中にあるこんな言葉です。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生きるものは、幸せであれ。
この万物に向けられたた慈しみの目。いやー、すばらしい。この心は大切にしなければなりません。