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投稿者:七無齋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
小説風に書かれた長崎原爆の現実。最初は被害者の目線、そして科学者からの目線、医者としての展開となっている。宗教色はほとんどなく独特の熾天使立っている。
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最近よく耳にする本。自らも被爆した著者が、原爆を「神の摂理」と捉えている、ということらしい。ぜひしっかり読んでみたい。
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長崎原爆の体験を通じた報告書、ということらしい。著者は医師で原爆投下直後の被災地で救護活動を行っており、“医師の視点で見た原爆投下直後の状況”というのがまた新鮮で臨場感がある。
読後の感想は、著者とその周囲の学ぶ意欲には本当に驚嘆した。原爆投下後の状況で、あの爆弾はなんだったのかと夜通し議論したり、一人一人の犠牲者が今後の医学の進歩のためのよいサンプルなのだといい奮い立たせる場面。不謹慎と感じる人は感じるかもしれないが、大学も焼け落ち何もかもを失った彼らがまた一から研究を立て直そうとする姿には、感動すら覚えた。
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長崎に原爆投下された直後の被爆地の悲惨な惨状が書かれています。平和を祈り、今日も長崎の鐘は鳴り響きます。
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医師で放射能の専門家(レントゲン技師)であった著者が被爆し、後遺症と戦いながら生きてゆくドキュメンターリー。
被爆時の激しい風の描写が、まるでそこにいるように感じられる程、生々しく恐ろしい。
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『かっと光り、どっと潰れた。』
被爆体験者である医師が、自身の経験をもとに戦争の悲惨さを訴える。とにかく、描写がこれでもかというくらいに生々しい。主体を限定せず、キャラクタに全く重み付けを行っていない点も、原爆の突発性と無慈悲さを表現するのに一役買っている。どんな人間でも、本書を読めば、戦争について何かしらの心証を抱くはず。それが必ずしも綺麗な感情じゃないにしても。何も思わなかったとすれば、それは字が読めないか、あるいは、空前の空腹でそれどころではない人だろう。
医者の観点から見た原子爆弾というのは、実は中々なかったように思える。仮に自分が医師だったとして、かかる事態に直面して、救護の意思以外に著者の抱いたような感情を抱くことができるだろうか。否、できないから志さなかったのだろう。
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長崎の原爆で九死に一生を得た医師の手記。建物の下敷きになったまま炎が迫り、最期に歌をうたって死んで行った学生とか、死に様の話はただ不幸なだけじゃなく、読みいってしまった。
原爆が起きた直後に、お互いに助け合い、冗談も言い合い、自分の命の危険を知りつつも他の人を助けようとした人の強さに脱帽。特に、戦争に負け、すべてを焼かれた人たちがどうして、無気力状態からたくましく立ち直れたのか、学びたいと思うほど。
原発事故を起こした今読むと、また違った感想もあり、放射能って意外とあっても大丈夫なものかもと思ったり。当時の長崎には、75年住めないという噂が流れたらしいけど、そろが本当ならまだ住めないはず。今、広島や長崎の原爆の話は毎年報道されるのに、どれくらいの放射能が残存しているのか、とか今も残るかもしれない影響については誰も検証しないのはちょっと怖いと思った。
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「この子を残して」に続き、青空文庫で読んだ。
原爆投下の瞬間からはじまり、自ら被爆しながら直後の混乱のなかの救護活動、医師ならではの被爆者たちの克明な症状変化の実態、そして無条件降伏の詔勅、そして‥。
これは、高貴な精神の、慟哭の記録である。
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描写が生々しい。
どれだけ恐ろしい惨状だったか 伝わってくる。
様々の方の落下当時の様子、結果が書かれていて
勿論無事だった時、または亡くなった時。
本という形をとうしても、恐怖が伝わってきました。
この本、永井さんの本は後世に残していくべき本であると思う。
戦争は絶対あってはならない、原子爆弾また水素爆弾等
そのような兵器は必要ない と思う。
被爆者の体験というのは、世代交代が進む中で
本当に大事な事だと思う。
10代の私達の次は おそらく戦争の体験を生の形で聞くことは
ほぼ不可能でしょう。
だからこそ、このような本が大事だと思う。
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本書は戦争小説ではなく、戦争”記録”のような印象です。
当時は出版にあたってアメリカ国防総省の許可が必要だったそうで、その所為か内容は医学書寄り。
そういう意味でもとても勉強になります。
機会がありましたら、是非長崎にあります永井博士の如己堂に足を運んでみて下さい。
宗教関係なく、彼の人柄と復興への貢献には本当に頭が下がります。
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学生は?清木先生は足許へ眼を転じ、いきなり氷水をぶっかけられたかのように、全身の凍るのを感じた。この物体のようにころがされているのが私の学生なのか?いや私はさっき壕の中で背中をやられたっきり、まだ意識を回復していないだ。悪夢だ、悪夢だ。こんな悲惨な事実が、たとい戦争とはいえあり得るはずがない。先生は腿をつねってみた。自分の脈を握ってみた。どうしても自分の肉体は目醒めているらしかった。これが悪夢でないとしたら一体何だろう。悪夢以上に悪い夢に違いない。(pp.30-1)
何もかも大失敗だ。脚をもがれた蚊のように、爪を取られた蟹にも似て、私たちはこれから徒手空拳のこの幾万と数知れぬ負傷者の前に立たされる。全くの原始医学だ。この知識と、この愛と、この腕で、ただそれだけで生命を救わねばならぬのである。私は悄然と階段を登り、再び玄関前の広場に突っ立って、全般の指揮をとることにした。(pp.48-9)
私はむっくり起きなおり、豆ちゃんに今の使いの人を呼び返してくるように頼んだ。心機は一転した。一人の尊い生命をこそ助けねばならぬ。国は敗れた。しかし傷者は生きている。戦争はすんだ。しかし、医療救護隊の仕事は残っている。日本は滅んだ。しかし医学は存在している。私らの仕事はこれからではないか。国家の興亡とは関係のない個人の生死こそ私らの本務である。敵味方の区別は本来赤十字にはないのである。日本が個人の生命をあまりに簡単に粗末に取り扱ったから、こんなみじめな目にあったのではないか。個人の生命を尊重し、ここに私の立場をつくる一つの礎石があるまいか?(p.105)
義経の戦には絵があります。乃木大将には詩があります。しかし原子爆弾のどこに美がありましたろう。あの日あの時、この地にひろげられた地獄の姿というものを、君たちが一目でも見なさったなら、きっと戦争をもう一度やるなどという馬鹿馬鹿しい気を起こさぬに違いない。(中略)無数の人間があんの変哲もなくただピカドンと潰されてしまうのです。美談もなく、詩歌もなく、絵にもならず、文学にもならず、研究にもならず、ただローラーで蟻の行列を圧し潰すように、そこら一帯地均されるだけのことです。(p.132)
「カーン、カーン、カーン」澄みきった音が平和を祝福してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことを禁ぜられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘となることがないように、世界の終わりのその日の朝まで平和の響きを伝えるように、「カーン、カーン、カーン」とまた鳴る。人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがある故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ。戦争をやめよ。ただ愛の掟に従って相互に協商せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえと。鐘はまだ鳴っている。(pp.148-9)
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医師の書いた原爆記です。医学的、物理科学的な考察で書いています。当然、原爆の悲惨さも描かれていて核兵器の恐ろしさも感じます。
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長崎への原爆投下当時、爆心地からわずか700メートルの場所にあった長崎医科大学で教鞭をとっていた永井隆博士。自らも被爆しながらも生き残った者たちと懸命に被爆者の救出、介護にあたる模様を記録した本。医者としての冷静に傷や病気を観察した模様も描かれており、医療記録としても貴重だと思われる。
涙が出てくるような感動的な話はない。どちらかというと何が起こったのかもわからないまま混乱し、狼狽する描写が続く。なにか相当な破壊力をもった爆弾にやられたらしいことはわかったが、状況を把握できないながらも、けが人の救助、火災からの避難と、なすべきことに邁進する。あたりに転がる無数の遺体。そこには教え子の顔も、同僚の顔もあり、悲しみがこみ上げてくるが、そんなことに気を取られる前に、ひとつでも救える命を救うという医師としての使命感で突き進んでいく。
原爆の話というと悲哀、痛み、憎しみ、虚無感漂うものが多いが、この『長崎の鐘』には医療従事者たちの勇壮な姿が見える。例えとしてふさわしいかわからないが、米ドラマの『ER』みたいだ。
この本、先にレポを書いた『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』のなかで、気になったことがあったので読んだ。それは永井博士の「原爆は神の御摂理」という思想だ。
とんでもない思想だ、という意見は当時も今もある。自分もそう思った。なんでそんなこと言ったのだろうと気になった。
本の中では、ある信者の問いかけに対して、この言葉は語られていた。
原爆により妻子を失ったある復員兵の問いかけ。たぶんキリスト教徒の土地である浦上に原爆が落ちて、諏訪祭神を祀る市内中心地の犠牲者が比較的少なかったという事実を受けてのこと。
「誰に会うてもこういうですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった。生き残ったものは神様から特別なお恵みをいただいたんじゃと。それじゃ私の家内と子どもは悪者でしたか!」
それに対する答えとして語られたのが「原子爆弾は神のみ摂理」だった。
神は罪深き人間の行いを嘆き多くの罰を与えた。日本以外でも多くの大聖堂が焼かれ、キリスト教徒が殺された。それでも神は許されなかった。浦上の地でも長いこと迫害が続いた、しかしとうとう原子爆弾を最後に神は罰をあたえることを止めた。
原爆で死没した人々は汚れなき羔(こひつじ)として神に捧げられたのだ。(だから天使に囲まれて昇天した) 生き残った被爆者たちには神がまだ試練をあたえているのだ。我々(被爆者)は天国への入学試験に落ちた落第生だ。
この考えはあくまで同じキリスト教を信じる同志に対して語られた宗教観であって、あくまでも魂を救うための説教なのだ。だから別に責められるべきものでもないと思う。この考え方で信者が絶望の淵から立ち直り、前を向けるならそれでいい。いうなれば救済のための方便だ。全世界に向けて普遍的なメッセージを発したわけでなはい。
問題なのは、この考えを戦争の正当性に当てようとする邪な考え方だ。
文面から察するに永井博士も原爆を否定している。原爆の悲劇は浦上が最後でいいと願っている。そもそも宗教人なんだから、だいたいのことは神のみぞ知るなのだ。
だからまだ根強い、原爆が必要悪だったという考えに同調する必要はないし、被爆国の日本人としては、そのような邪な考えを絶対悪として断罪すべきであることに変わりはない。
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被爆して一年も経たずして書かれた生々しく悲惨な戦争の記憶。それでも前向きに人生を捉えようとする永井隆博士の志に感銘をうけました。
今こそ改めて読むべき名著だと思います。