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この本が書かれたのは1930年。ソ連はスターリン独裁時代、イタリアは、ムッソリーニ独裁時代。前年の29年のNY株式暴落をきっかけとした世界恐慌のまっただ中に書かれた本。
世界経済の混乱、失業者の増大。ティーパーティ運動に見られる反知性主義的大衆行動の活発化など、遠い過去と思っていた1930年代に、現在の状況が似通ってきているだけに、20世紀代表する著作と言われる本書と向き合うことは十分に価値がある。
「凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知の上で、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする。」ことを現在の状況(大衆による支配)であるとし、「社会は貴族的である限りにおいて社会であり、非貴族化されるだけで社会でなくなる。」
とする貴族主義的な立場で書かれている。
内容に関して語ろうとすると相当の準備が必要なので置くとします。それにしても、オルテガは、信玄と信長なら信玄が好きなんだろうな、きっと。(負けちゃうけどね・・・)
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僕の大衆批判の基礎を提供してくれた名著
★5つにしても良いのだが解決策や代案を提示していないので★4つにしました
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この本は1930年に書かれました。一読していただければわかりますが、本物の「知性」がもつ射程距離がいかに長いかということを実感することができます。
この本は人間を「大衆」と「貴族」に分けているので、昔は「貴族主義への懐古」みたいなゆるいくくりで論じられたことがあるそうですが、とんでもない。実際には、現代の人間野中にある二つの側面を「大衆」と「貴族」という風に分けて論じてみせたのです。
「...今日の大衆人の本質を明らかにするためには、大衆人を、彼のなかで混在している二つの純粋な形態、すなわち普通の大衆と真に高貴な人つまり努力する人とに分け、それを対比しなければならなかったのである。」
2010年現在の日本で広く読まれる価値があると思います。
内田樹さんが昔のブログでよく引用されてるんですけど、お好きなのは、
「自由主義は敵と共存する決意を、しかも弱い敵とさえ共存する決意を表明しているのだ。」
「私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、つねに自分に打ち克ち、みずから課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生である。」
あたりです。
でも、僕は、「第12章『専門主義』の野蛮性」も必読と思います。
「ところで、あるものの発展はその成立とは別物であり、異なった条件に服している。したがって、実験科学の集合名刺である物理学の成立は、総合への努力を必要とした。この総合への努力がニュートンおよび彼の同時代人の仕事であった。しかし物理学の発展は、総合とは反対の正確を持った動きを引き起こした。科学を進歩させるために、科学者の専門化が必要とされたのである。ただしそれは、科学者の専門化であって科学そのものの専門化ではない。科学は専門分科的なものではないのだ。もし専門分科的なものであれば、真の科学ではなくなってしまうだろう。」
ここなんて「科学」を「医学」と読み替えれば、「総合する臨床医」を目指す医者ならみんなハタと膝を打つ内容でしょう。
アンダーライン引きまくり。
現在を生きる我々全員に一読の価値があります。
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今の日本に生きる人びとこそ本書を読むべきである。「慢心しきったお坊ちゃん」の時代、それもかなり後期に我々は生きているといえよう。ここから脱却する手軽な処方箋は、残念ながら簡単にはみつからない。“多くの”平均人が、先人の実績から始まった経過を丁寧に見直した上で、生の計画を立てる必要がある。人として自覚する、と換言してしまうとあまりにも当然過ぎる帰結か。
まず歴史的・文明史的経緯として、「大衆の反逆と支配の歴史」の中で生を受けていると理解する必要がある。その上で、「残酷な大衆支配」とかかわるかが大切だろう。
49頁のオルテガの言説を借りれば、「自ら今までのすべての時代の上にあり、今までに知られているすべての頂点を超えるものだと感じている」と表した今日は、今の日本に恐ろしいほど当てはまる。さらに、「他のあらゆる時代に優り自分自身に劣る時代」や、「自分自身の運命に確信のもてない時代」、「自分の力に誇りをもちながら、同時にその力を恐れている時代」、「いっさいの事象を征服しながらも、自分を完全に掌握していない時代、自分自身のあまりの豊かさの中に自分の姿を見失ってしまったように感じている時代」(P.60)といった記述についても重く受け止めざるをえない。こうした「優越感と不安感」(同)や「未開性と野蛮性」(P.161)は、大方の人が実感しているはずだ。
今の為政者は、大衆の一代表者だ。彼らは強力な権力を有しているが、具体的な将来像を描いている政党や政治家の数は乏しい。それに寄りかかり、政治的その日暮らしをエンジョイすらしている大衆がいる。理由としては、大衆の「社会的権力の活動が、その時々の軋轢をかわすことに限られて」、未来像が対象とされていないからとのことだ。日本でも国民は政治家に信を問われて答えるのみが通例となってしまった。それ以外の時間は、「夢中で飛び跳ねている」(P.193)と思わざるを得ない。むなしい。
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再読。これも結構お気に入り。
ガセットなりの大衆の定義に基づいて、いかに大衆が社会を支配していくかの分析は素直に頷ける。
それはあくまで心的事実でしかなくて、だとしたら「少数であることによって多数の不在を強調する」くらいしか出来ることはなさそうだ。と勝手に結論。
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オルテガの言葉は直球であるものも多く、刺激をもらった。
また驚くべきほど現在にも適応している言葉が多い作品。ただ現在の社会には適していないこともあるわけで、その明確な区別が自分にはつけることができなかったので、自分の力のなさも痛感した。
次は『エリートの反逆』を読んでみようと思う。
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大学の先生に勧められた本ですが、読んで衝撃でしたね。
まさしく私は大衆だし、今の日本の状況を言われているような錯覚に陥りました。
ずっと昔に書かれた本のはずなのに。
私がいま持っている権利っていったい何なんだろう。
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大学の時に読み残した本を消化しようキャンペーン第2弾。
1930年に刊行された大衆社会論の書。
オルテガのいう「大衆」とは「庶民」ではなく、
「生の増大」と「時代の高さ」の中から誕生してきた存在であり、
その特徴は
『凡俗な人間が、おのれが凡俗であることことを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにある』
そしてこの特徴は、
「凡俗である」ところから抜きん出ようとするものを糾弾する圧力へとつながりうる。
この点が、日本社会に非常によく当てはまり、日本社会に対する警告の書として読まれる背景になっている。
まぁ自分がこの本を手にとったのもその文脈について考えてみたかったからなんですが、
(買ってから何年も経ってるからよく覚えてないけど)
実際読んでみると、単純に日本社会論に結びつけた読み方だけするのもつまらない気もしました。
オルテガが見ているのはあくまで(広く言ったとしても)ヨーロッパ社会であり、
そこから敷衍しての「文明社会」。
こっちもちゃんと考えるべきですね。
◯文明と人間の性質の関係
◯文明社会を指導するべきエリートとは
ここら辺は、あんまり考えたことのないテーマだったので面白かった。
特に文明と人間の関係という点は、そこから関連して久々に歴史方面に思考が流れて行きました。
また、もともとこの本を手にとった流れと関連したところでは、
漠然と日本社会というより、
特に昨今のメディア、特にソーシャルメディアを始めとするインターネット言論との関連で考えると面白かった。
例えば(自分の頭が向かっていったのは)
もろもろの「炎上」現象やら、
教育関連では「いじめ」や「学校裏サイト」
政治家の失言・スキャンダルへを必要以上に攻撃するなにがしか(その何がしかが何なのかって話)
ノマドワーク等の働き方、その亜種として「意識高い」「クリエイティブ」
などなど
今更だったけど、かえって今読めて良かったかなぁ。面白い本でした。
ただ、第2部がまったくもってちんぷんかんぷんでした。
世界史的常識が完全に抜け落ちてることを思い出し(世界史未履修)、
歴史を学ばねばと感じたのは、ここら辺にも理由があります。
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オルテガと言えばこの本。彼の言う大衆とは、「凡俗な人間が、自分が凡俗であることを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとする」人間のこと。
現代社会は、この大衆という「慢心しきったお坊ちゃん」が支配する時代であるとか。彼らは「喫茶店の会話から得られた結論を実社会に強制する」ことに、何の違和感も抱かない。つまり、自分たちの凡庸さを社会全体に暴力的に押しつける一方で、いかなる卓越性も決して認めない。
おそらくこういう態度は、日常生活で誰しも覚えのあることではないか。あらゆる問題について、どこかで聞きかじった意見をそのままリピートしながら口出しして憚らない態度。他人の「上から目線」を疎ましく思う態度。自分が「例外者」になることを避けようとして、「凡庸」であることに徹しようとする態度…。
……と、こう列挙してみると、かくいう自分がまさにその「大衆」であることをつくづく痛感。
自戒を込めて、本書を推奨。
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1935年の作だが、現代日本を予言したかのような破格の名著だと思う。
大衆を批判しまくる書かと思いきや、それは最初と最後だけで、途中は「生とは」「社会とは」「国家とは」みたいな話が多かった。
いや、何にせよ多くの人に読んでみてほしい。
あとスペインの哲学者って珍しいよね、スペ語選択を哲学分野で生かす可能性に初めて触れた。
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第一次世界大戦後のヨーロッパに向けて書かれた本なのに、現代の日本に向けて書かれたとしか思えない、大衆批判の書。自らに対して特別な資質を持ってない平均人と感じる大衆は、だからこそ平均的な考え方をしない人を締め出そうとする同調圧力を発し、生の計画を持つことなく自らの生存を可能にするものへの恩を忘れている。そんな大衆を「慢心しきったお坊ちゃん」と称し、その成立基盤を十九世紀の自由主義的デモクラシーと科学的実験、そして産業主義にあるのだと分析する。特に、科学の専門化が進む事で、専門外に対する無知を公言する人が増大したことが現代の大衆人の気質に繋がるのだという指摘は興味深い。過去のいかなるものにも規範たりえる可能性を認めようとしない、そんな時代に生まれた中で「時代に対する責任」を果たしていくにはどうすべきなのだろうか。死者が、規範たりえなくなってしまい、完全に完全に死んでしまう前に。
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オルテガ曰く大衆とは『凡俗な人間が、自分が凡俗であることを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆるところで押し通そうとする』人間である。
そして大衆は、国家というものが、人間の創造物であるという自覚を持っておらず、また、彼らは国家の中に一つの匿名の権力を見るのであり、国家を自分のものと信じ込んでしまう。
その結果、重大な困難や問題が生じたとき大衆人は、国家がそれに対し責任をとり、巨大な権力を直接行使し、解決をはかるよう要求をする。
第一次世界大戦後のヨーロッパに向けて書かれた本であるが、今の日本にも有益な書だと思う。
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1930年の出版、新聞執筆を集めたもので、草案は20年代のもの、アメリカはいわゆる「狂騒の20年」で資本主義を謳歌し、ロシアではNEPのもと五カ年計画の「ヘラクレス的偉業」が開始、中国では第一次国共合作、日本では大正デモクラシーの後、1929年、世界恐慌である。オルテガはこのような世界情勢のなかで『大衆の反逆』を書いた。彼のいう「大衆」とは愚かであることに疑問を持たず徹底的に怠惰で権利のみを要求する「人類史が生みだした甘やかされた子供」である。問題はこうした「大衆」がヨーロッパの支配の座に登ったということである。彼らは「知性に頭をさげず」、あらゆる偉大な者を攻撃、青年ぶって「新しい倫理」のもと不道徳を密輸する。この本は妥協なき大衆批判の書であり、「だれでもこういうところがあるよね」という風に「大衆」を安心させたりはしない。その大衆批判は痛烈で読者に真剣に自分の生き方を反省させるものだ。オルテガのヨーロッパ社会の処方箋としては、「新しい時代」に惑わされず、ヨーロッパの歴史が生みだした最良の理念を再建し、国民国家のなかで怠惰に暮らしている者を「偉大な事業」に参加させ、国民国家を超えた超国民国家をヨーロッパに建設するしかないとしている。大衆の精神構造を鋭く指摘した書であるが、それだけではない。もっと重要なものは「大衆」を通して反面として語られる「いかに生きるべきか」という「哲学」である。最後の国民国家論は大変興味ぶかい。オルテガによれば、国民国家とは「共同で事業をなす」「未来にむかう」「生の計画」である。地勢・言語・歴史などは国家の本質ではないのだ。言われてみれば、当然のことだろう。ECやEUの構想や、現代の政治的混迷、国家ではなく社会の頽廃といったものを考えるのに非常に有益な書である。ただし、ヨーロッパ中心史観は否めない「ヨーロッパが支配しなくなったら世界はどうなるか」と、ヨーロッパの理念による世界経営を信じ切っている点には問題があるように思う。しかし、自由・民主といったヨーロッパ発の「生の計画」を破棄して、他に何があるのかと言われると、安易に「東洋の理想」を強調することはできない。とにかく、理念の重要性を強調しており、科学や文明が経済的下部構造で決まるということに反対し、発展の条件と本質的力の混同に再三注意をうながしている。カエサルこそ「明晰な頭脳」の持ち主であったなど、歴史の話も多く、ヨーロッパの教養人がどういうものか分かる。若い学生が人生を考えるには最適の書であると思う。
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有名な“大衆批判”の書。
大衆を批判できる者は、当然「自分は大衆の一人ではない」と自覚していなければならないはずだ。 どんな上から目線やねん……と“大衆根性”丸出しで読み始めたら、早々にねじまがった根性を叩き直されるような一文に遭遇。
(以下、引用)
『一般に「選ばれた少数者」について語る場合、悪意からこの言葉の意味を歪曲してしまうのが普通である。つまり人々は、選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである、ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求をもたない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である』(pp17-18)
ギャフン!
「エリート・貴族擁護」と批判されることもあったようだが、著者はむしろ「大衆を脱却して精神的貴族になろう」と読者に鼓舞しているのであり、本書の批判の矛先は(いわゆる社会階層上の)エリート・貴族にも向けられている。
ニーチェの超人思想に近いものを感じる。あくまで「個人の在り方」であった超人思想を社会論的に発展させた感じかな。異なるところは「他者・社会とのかかわり合い」を大前提としているところか。
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レポート本。
翻訳本がニガテな私。とても読みにくい。
工業化、自由民主主義、科学技術の発展と細分化により、空虚な生を生きる「大衆」という「心理的事実」ができた。彼らは、昔とちがい、豊かな生活を最初からあるものとして享受し、自由に対する感謝もせず、義務も放棄し、権利のみを主張するが、明確な将来のヴィジョンを持っているわけではない。こうして道徳的頽廃がおこり、「新しいモラル」と呼ばれる不道徳的観念が世にはびこっている。
衆議院議員選挙を控えた今、大衆と日本国民に共通項はあると思う。