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[ 内容 ]
古来から、日本人の生き方を支配してきた「世間」という枠組。
兼好、西鶴、漱石らが描こうとしたその本質とは。
西洋の「社会」と「個人」を追究してきた歴史家の視点から問い直す。
[ 目次 ]
第1章 「世間」はどのように捉えられてきたのか
第2章 隠者兼好の「世間」
第3章 真宗教団における「世間」―親鸞とその弟子達
第4章 「色」と「金」の世の中―西鶴への視座
第5章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか―明治以降の「世間」と「個人」
第6章 荷風と光晴のヨーロッパ
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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阿部謹也連読。
最近ソーシャルメディアが騒がれているので、ソーシャルとは何かを自分なりに考える為に再読した。
世間とsocietyの違いが「実名」と「匿名」の違いに繋がるのではないかという、自分なりの気づきがあった。
だが、何よりも読んでて感じたのは、著者の「孤独」。別に著者の気持ちが書かれているわけではないが、金子光晴の引用は、著者の気持ちを代弁しているようで、響いてきた。考えすぎかもしれないけど。
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日本人特有の人付き合い、世間について、兼好、親鸞、西鶴、漱石、荷風らの著作から、その時代においての世間という言葉の概念の変遷を考察している。
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昔からあるようでなかった、日本特有の人間関係「世間」について考察した本。
近代西洋の自由で平等な「個人」を前提とする「社会」が普遍的で抽象的なのに対し、日本独特の「世間」は具体的、その外にいる者に対し排他的、長幼の序・互酬の原理が根付いている、情理や感性と関係が深い、無情、世知辛い、ままならないものと捉えられていた、といった特徴を持っている。
そんな「世間」の共通項は万葉の時代から続いているとされる。そして、第一章以降で、日本の奈良~平安時代、鎌倉時代、江戸時代、明治時代において、「世間」がどう捉えられていたかが述べられている。
良い意味で情緒的、悪い意味で閉鎖的な「ムラ的」であるとされる日本だが、人々が世知辛さを感じながらも、そんなムラ的な「世間」が続いたのは、彼らが「世間」に生活の指針を与えていたからなのだと思った。
我々は世間をなくすのではなく、世間とどう向き合っていくかを考えていく必要があるのだろう。なかなか面白く読めた。
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日本人特有の「世間」を考察した本。
歌、仏教、漱石、藤村などから様々な時代の「世間」を捉えている文章は面白い。
色々あって大学のゼミで読んだ本だったけれど、文芸思潮や社会学をかじるのには良いかも。
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”ソーシャル”、”世間”、”空気”などのワードを漁っていたところ、この教科書にも掲載されているような阿部さんの「世間」とは何かに行き着いた。
本書は古典的な書籍から「世間」に関する記述を引用し、その時代時代に応じての「世間」とは何かを客観的に捉えようとした大変興味深い内容だった。
個人的な興味としては歴史的な内容(古典系)は少し省き、明治以降(特に漱石)を中心に読んでみた。
前の鴻上さんの書籍でも指摘がされていたのだが、
社会=Societyには前提として個人=Individualがあるという点があったのだが、日本の場合、組織・社会という単位がメインなので、なかなか社会の定義が難しいという点は興味深かった。
複雑系の社会とはいえ、構成要因は昔も今も変わらず、私たち人間であるために、こういった書籍は時系列を経てもなお色あせることなく、その時代に応じて新たな側面で切り開けることもある。
社会と世間では社会学の分野ではあるが、この境界については様々な分野、またアニメなどでもテーマとして取り上げられることがあるので、一読する価値はあるのではないだろうか。
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古来から、日本人の生き方を支配してきた「世間」という枠組。兼好、西鶴、漱石らが描こうとしたその本質とは。西洋の「社会」と「個人」を追究してきた歴史家の視点から問い直す。
目次情報
第1章 「世間」はどのように捉えられてきたのか
第2章 隠者兼好の「世間」
第3章 真宗教団における「世間」―親鸞とその弟子達
第4章 「色」と「金」の世の中―西鶴への視座
第5章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか―明治以降の「世間」
と「個人」
第6章 荷風と光晴のヨーロッパ
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日本独特の「世間」にクローズアップし、仏教や歌、文芸でどのようによって世間がどう捉えられているかについて語られている。
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ソーシャルネットワークを理解する目的で読んでみた。序章の「親が子供に世間について教えればよいのだが、親自身世間を対象化して教えることができない。何故なら親は自分の経験から自分が関わった世界を知っているにすぎず、そこに普遍的な観点を持ち込むことができないからである」が印象に残った。古典の章は、私には難しすぎたが、夏目漱石と永井荷風の章は面白く読めました。
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わずらわしいと感じる人とのつながりの中に世間があり、個人よりも強い世間。その世間に嫌気が差した先人たちから、世間の姿を捉えてみようとする本。
今の日本もそうだけど、欧米の個人の人間関係があってこその社会と、個人を押し殺して優先する世間は全く違うというのは納得した。
昔も今も世間が嫌いな人はいるんだね。自分の心を代弁してくれてるのかと思った。私は隠居するほどの勇気はないけど。
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世間とは人と人の関係の環。信仰の基盤のない日本人にとって世間の基準が個人の価値判断の基準となる。世間は、時に権威的で、排他的で、差別的な存在であり、どんな世間に属しているかが問題になる。日本独特の世間と概念がいつ頃から生まれたのか、万葉集から始まり、大鏡、吉田兼好、夏目漱石、永井荷風などの作品から世間というものについて考察を加えた。吉田兼好と夏目漱石は第3者的な立場から世間というものを批判的にみた「徒然草」、「坊っちゃん」、「吾輩は猫である」は多くの人の共感を得る作品となっている。
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独立した個人の集合体である『社会』ではなく、他人との横並びの繋がりによる『世間』に縛られて、未だその呪縛が解けない日本人。
そこから生ずる無常、生きづらさを、その時代毎の文学から読み解き
歴史・背景を追った一冊。
しかし。。 吉田兼好にしろ、井原西鶴にしろ、夏目漱石にしても
どうも著者の『世間論』の読み解き方に対して、腑に落ちない。
合わなかったと言う事に尽きる。
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世間と社会(society)は別のもの。個人の尊厳がまずありその集合体としての「社会」に対し、「世間」は他人との関わり合いの中での行動基準で、そこに個人は存在しない。ということが言いたいわけだか、説明はまわりくどいし展開は論理的じゃない。
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アウトロー気取りの文学好きにオススメかもしれない。この世の中の生きづらさについて、この本と一緒に考えると。結構溜飲が下がったりもする。でも結局生きづらいことには変わりないんだけどね。
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ちかごろ、群衆論の本を中心に読書していたけれど、
ひるがえって日本の群衆論は?
と思ったときにこの本に出会うことができました。
古代から現代までの日本文学における『世間』、『世』、『うき世』などの言葉の使われ方を考察し、日本人の人間関係を浮き彫りにする着眼点は見事です。
社会/個人という軸を発展した西洋と異なり、世間が人の思考や行動を規定してきた日本。
ニュースなんかを見ていても、マスコミは社会的というより、世間を肩代わりしてようにも思えます。
本書の井原西鶴の章では、好色というのは当時、子に恵まれることから奨励される徳だったと述べられていました。現代ではもちろん、スケベとののしられてしまうわけでして・・・。我々がいかに無意識に世間のモノの見方で判断しているかの好例だと思います。
『世間』を対象化しえた個性が軒並み『隠者』型であるのも興味深いです。夏目漱石は学生時代一生懸命読んだ作家のひとりですが、欧米ではあまり評価されていないよう。彼が『世間』という日本独自の問題を扱っているため、西洋の価値観では理解しづらいのかもしれません。
もちろん、内容は素晴らしいですが、金子光晴を知ることができたのもうれしいです。こんな強靭な精神力をもった詩人が日本にいたのか・・・。
次の読書にもつながる一冊でした。