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コレ高校生くらいに買ったような気がする笑 いま大学まで終えてやっと読み通したけど、やっぱよくわかってないと思う笑
「世間とは何か」と言う問いを、日本の文芸作品での使われ方を集めて考える。って企画かと思ったけど…。「世間」という言葉をまず決めて、それを軸に文芸批評を行った。という企画に見えるな。素人目線だけど。
いちおう作業仮説として世間とは…と定義するけど、それがされることはないし。「世間」とは関係のなさそうな文章をとりだして解説されるから読みにくい。
作者の「世間」に対する問題意識ははっきり伝わった。曖昧で非科学的で個人の尊厳を蔑ろにするようなダブルスタンダードとしての世間。現代社会に残るプレモダン要素としての世間。学生時代にちゃんと読めてたらもっとこのことについて勉強したかったなぁ。
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遠慮してしまいます。
なんだか申し訳なくなってしまうのです。
「もっとこうしたほうがいいのに」「なんでああしないのか」「こうすればきっとうまくいく」……。
色々なことが頭をよぎります。
でも、それを口にすることはありません。
だって、そうしてしまえば「調和」が乱れてしまうから。
「調和」は日本人の美徳とされ、日本人の特徴の一つともされる。真偽のほどは確かではないが、日本人ほど「世間」を気にする民族はいないとかなんとか。では、その『「世間」とは何か』……? これをきっちりと説明できる人が、どれほどいるだろうか。
日本人は「世間」を気にする一方で、「世間」に無頓着であった。「世間」が「何」なのか、よく知らないままにそれを恐れ、「調和」させようとする。本書は――言うまでもなく「世間」から「名著」として評価されているが――「世間」の正体に迫ろうとする、言わば試験的な一冊である。
【目次】
はじめに
序 章 「世間」とは何か
第一章 「世間」はどのように捉えられてきたのか
第二章 隠者兼好の「世間」
第三章 真宗教団における「世間」―親鸞とその弟子達
第四章 「色」と「金」の世の中―西鶴への視座
第五章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか―明治以降の「世間」と「個人」
第六章 荷風と光晴のヨーロッパ
主要引用・参考文献
おわりに
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日本社会の特有概念である「世間」について、日本の古典や文学作品から読み解いている。教養として読むのもおすすめ。特に最近読んだ『我輩は猫である』の解釈は面白かった。兼好『徒然草』井原西鶴『好色一代男』を読みたいリストに追加。
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読み終わって、今こそ「世間」を「世界」というものに拡張すべき時に至っているのではないかと思った。
ここ最近、フライングタイガースとか第二次大戦前から大戦中、朝鮮戦争まで戦争について調べている。だが、もちろん。ソフトにflight jacket。いたってファッショナブルな営為である。
そんなこんなも含めての世間について考察したわけだが、詩人の金子光晴が関東大震災の後、日本人が戦争に近づいているのを微妙に感じ取っていたと看破していたらしいという記述があったのには驚いた。
まるで、今の忌野清志郎である。地震のあとには戦争がやって来る。そのままではないか?
なんか、時期だったのだなぁ…
しかも、世間は、個人の脳の中にある。ということを確信してしまうような内容だった。いいのか悪いのか…でもまぁ、わたしはまだ生きている。
Mahalo
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世間とはよく聞く言葉であれど世の中とか、社会とかといった言葉とはニュアンスが違い『自分が関わっている比較的小さな人間関係の環』と説く。
夏目漱石の『坊ちゃん』、吉田兼好の『徒然草』等を時代背景と共に参照しながらの解説が面白い。いずれもまだ読んだ事はないけど…。
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1995年刊。著者は元一橋大学学長。◆西洋中世史専門家が、日本社会の団体的規範を、西洋的な「社会」概念とは異質な「世間」と見、その概念の内実、歴史的変遷を文学作品から解読。吉田兼好、親鸞、顕如、井原西鶴、夏目漱石を基軸に。◇本書の真のテーマは、日本・西欧での個人に対する団体・集団による拘束の差異、その根拠開示にあるのだろうが、本書は日本の変遷の大略に止まり、いわば前篇の趣き。「社会と対抗関係にある個人の人間的価値を尊重する姿勢が日本に自生せず、現代も西欧とは異質」との命題を解読するまでは至っていないか。
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20数年ぶりに再読。発売当時はかなり話題になったような。年齢を重ねて本書の意味する所がよく理解できたような気もするし、ネット革命によって世間も変質してきたのかなという気もする。著者は歴史学者なので、読み物としては面白いのだが、この手の話題の場合はやはり社会学的な視点が必要であり、その現代性の欠如が社会史の難しさであるとも感じた。
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とてもわかりやすい「世間」の解説本。「世間」について疑問を投げかける一方で、「世間」がなくなったら日本人は生きていけないという一面があることをも指摘する。
しかし、岡本公三の父親が息子に極刑を望んだのは、自分に対する世間の名誉を優先しているからという理由は「?」だった。それは単純すぎる。そうじゃないかもしれないよな。もし極刑に値する事件を息子が起こしたなら、(もちろん何から何までとことん聞いた上で、そこに一抹でも息子に情状酌量の余地があるもの以外ならば)きっと私が親なら極刑を望むだろう。
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歴史的名著ということではあるが、正直1~4章はほぼ斜め読みしてしまった。
まず、社会学的分析ではなく、文学からの分析であること。この方法に慣れておらず、もっぱら社会学的な分析を期待してこの本を読むと、かなりの違和感があると思う。
ただ、やはり歴史的名著と呼ばれるだけあって、「世間」というものを考察しようとしたのはそれだけで歴史的な出来事だと思う。
おそらくポイントなのは、「社会」ではなく「世間」なんだというところなんだろうな。日本人は本当に複雑怪奇。
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20年来の積読、というか見当たらなかったので、買い直しました。内容はすっかり忘れてるが読んだ覚えある『ハーメルンの笛吹き男』はあったのですが。本書では、いまでも日本人を支配している「世間」がいかに生まれて発展してきたか、文学作品などを中心に追っています。読み終えての最初の感想は、取り上げられている人物はいずれも「世間」との距離感を意識しており、やはり世間を対象化して観察するには隠者にならないといけないのでしょうかね、という事。かといって、その取り上げ方も決して欧米の個人主義礼賛ではなく、そこは相対化しながら各人物の受け止め方を中心に、しかも文学作品を通して描いているのが解釈のオープンさを感じて良かったと思います。もし著者がもう少し長く生きてたら、このSNS で展開される世間をどう思ったでしょうかね。
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【由来】
・クラーク亭横の古本屋
【期待したもの】
・まぁ、前からタイトルに惹かれて読みたかった本だし、前に図書館で借りて期限切れになった時、ちょっと読みにくくて難しそうだったので。
【要約】
・
【ノート】
・
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日本歴代の文学・思想から「世間」とは何かを探る。
面白いのは西欧の歴史研究者である阿部先生が、日本の「世間」をテーマにすること。例えば漱石や荷風のように一旦海外での生活をして日本文化の相対化をしたのだろうか。また著者は学長まで勤めており、専攻分野の割りに(偏見?)実務的な世界、すなわち「世間」とも決して疎遠ではなさそうに思える(勝手な想像ですが)。
挙げられた事例の中では、真宗の一種の合理主義に関心がある。他は特殊な一個人の思想とも言えるが、真宗はまさにある文化の層を形成しているから。中井久夫もなにか一向宗地域の特異性を指摘していた記憶が。。。
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文学を通じて世間という物を分析
世間という言葉は「世の中」とほぼ同義で用いられているが、その実態はかなり狭いもので、社会と等値できるものではない。
自分が関わりをもつ人々の関係の世界と、今後関わりをもつ可能性がある人々の関係の世界に過ぎないのである。
自分が見たことも聞いたこともない人々のことはまったく入っていないのである。世間や世の中という場合、必ず何らかの形で自己の評価や感慨が吐露されていたのである。
これは日本独自のもの
世間には、形をもつものと形をもたないものがある。
形をもつ世間とは、同窓会や会社等。
形をもたない世間とは、隣近所や、年賀状を交換したり贈答を行う人の関係をさす。
世間には厳しい掟がある
1.葬祭への参加に示される、二つの原理がある。一つは長幼の序であり、もう一つは贈与・互酬の原理
2. 世間の名誉を汚さないこと。この背景には「ケガレ」が関係している
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約20年振りに再読。当時の私のオツムでは理解、消化、吸収できなかったことが少しはできるようになった感はある。自分が身を置く世間の掟、長幼の序と贈与・互酬関係は。生きづらさを感じたこともあり、それこそ隔世というか、その環から避けてきた、背けてきたこともあるし、何を血迷ったのか再度、その環に飛び込んだことも...。世間は変わりつつある。それは地域コミュニティの崩壊という当然の帰結なのだろう。
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学問研究の場も含めて、日本社会のありようを大きく規定している「世間」という思考と行動の枠組みについて考察している本です。
本書では、兼好法師や親鸞、井原西鶴などのテクストを通じて、日本社会における「世間」という枠組みがどのようにして形成され、またこれらの人びとが「世間」に対してどのように向きあってきたのかということを論じています。そのうえで、夏目漱石や永井荷風、井上光晴といった近代以降の作家たちを例にとりあげ、西洋近代の文明と学問を導入した日本に生きる彼らが、なおも人びとの考え方を規定しつづけてきた「世間」ととヨーロッパ文化との矛盾のはざまで格闘してきたことが明らかにされています。
本書をはじめとして、著者は多くの著作で「世間」について考察をおこなっていますが、その嚆矢となった一冊ということで、著者の基本的な問題意識がかなり率直に語られています。もっとも本書では著者の「世間」のとらえかたが十全に語られているとはいえず、まだ問題の外堀をめぐっているという印象です。山本七平の「空気」論ほど融通無碍な議論ではないものの、無手勝流の日本文化論に見えてしまうところも否定できないように思います。
ひとまずは、こうした日本特有の社会的なありようを克服されるべき前近代的遺物としてしか見ようとしなかった大塚久雄や川島武宜らの立場とは一線を画しているということができるでしょう。丸山眞男のばあいには単純な啓蒙主義と割り切ることができないところがあり、著者の議論にかさなるところも多いように思われますが、学問論という視座から「世間」という問題に切り込んでいるところに著者の「世間」論の大きな特色があるといってよいと思います。