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「自分が原因になりたい。だから人に言われてもやる気が起きない。
失敗した時に能力がないとされないように、大事なことの直前にやるべきことをやらなかったり、身体の故障が発生する。
悪い仲間に入るのは、勉強ができないのが当たり前の状況を自分の周りにつくるため。
自分に能力があるという仮説を守り抜きたい。
わかるということは、わかっていること同士が結びつくこと。」
子どもができたらもう一度読み直したい
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わかるってどんなことか知りたくないですか?
知るってこととどう違うのかってね。
私は知りたいなって思っていて、読んでみた。
わかるとは
1)知っていたこと同士に何かしら共通のつながりがあって、
「あっ!同じことだ!」ってわかること
それと
2)手ごたえを実感すること
なんだとわかった!
気に入っている一説です。
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私たちは別段、何かを無理に「経験させられる」までもなく、
「生きている」ということだけでさまざまな経験をしているのです。
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そういう中で、自然に「うまいやり方」を工夫していますし、
世界を順序だててみるという、「ミカタ」を身につけているのです。
ただ、通常はそうしたこおはいちいち意識しておらず、
むしろ、「コトを成し遂げる」コトに夢中になっているのです。
また、それに「夢中になる」からこそ、「ものごとの関係がよく見える」のであり、
「こうやると、うまくいく」やり方を工夫していくのです。
・・・・
ただ、私たちが、なにかこれまでとは一見異なる新しい経験をするとき、
「これはいったい何だろう」とか、
「どう対処したらいいのか」とか、
ともかく「わからない」状況にいったん追い込まれます。
そのときに、あれこれ試してみる中で、
「なんだ、これはアノことと結局は一緒じゃないか」ということが「わかる」のです。
そのとき、私たちは、かつて「実践」して、「アノ世界のことは、私に任せてください」といえるまでになっていた、その「アノこと」の意味がわかると同時に、今ここで行き詰っていた「コノこと」も同時にわかるのです。
それを、私たちは「なっとくする」ことといいます。
そればかりか、「アノこと」と「コノこと」が同じことだとわかったとき、そこには「新しいこと」が開かれ、
これまでとは異なる「別の世界」が見えてくる、というわけです。
・・・・・
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っと、私はどんどんと引き込まれていく一冊です。
本当に「わかる」ということは
生きていることを喜ぶことのようにおもうのです。
あなたのことをもっとわかりたい・・・って思うときが
もしかして、ずっと昔にあったりして、
そのときの私はとてつもないエネルギーの塊だった・・・
なんてね (^^)
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「双原因性」は、自分の教育観を説明するときに使えそう! 教師も世界の事がわかりたくて、問い続けていれば、生徒も着いてくるはずだと確認。自信が持てた。
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基本的には教育者目線から『わかる』ということの大切さ、おもしろさを書いている。ただ教育者でなくとも得るものはあった。
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教育の本だが、情報サービスに役立つと聞いて。相手の知りたいことを把握し、納得できる説明をするためには、相手がすでにわかっている事と結びつけて、わかるようにする。また、共に知識を再発見し、わかちあう必要がある。情報提供に好奇心旺盛な人が向いていると言われる所以がよくわかった。
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「わかるということ」について考えたことがあるだろうか?
インターネットで検索すれば、あらゆる事は解決する世の中かもしれない。しかし、それが本当に「わかった」と言えるのだろうか。そんな事を改めて考えさせられた一冊だった。
「わかる」ということは、もっともっと複雑なことである。私にとって収穫が大きかったのは、本当にわかるということは、あらゆる知識と知識が繋がった時に起きる可能性があるということである。大学教授の話は、聞いたその時は分からないことが多々ある。しかし、ある時「あ!この前言っていたことは、そういうことだったのか。」と繋がる瞬間があるのだ。私にとって、本当に「わかる」ということを改めて考えさせられた一冊だった。
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学ぶ編より平易。A君の例がリアル。参加への展開がちょっと弱いかな。
・原因が自分でないと
・先生の目でできない。
・双原因性感覚
・学習困難児のぐちゃぐちゃ
・学校で学ばなければならないこと。自己選択、価値判断、知識吸収
・学問とは、本当だとされていることを学ぶのでなく、何が本当なのか問うこと
・分かるとは参加
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教育段階にかかわらず「わかる」ことのプロセスに変わりはないことがわかった。自分が知るべきことと、世の中で知るべきことのタテとヨコの関係は、常に持っていたい視座となった。いくつかの項目を自分で動かす、ということは非常に重要。そこから新しい可能性を探り出すことができるという。
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『「学ぶ」ということの意味』と姉妹書。
学ぶということを広義に捉えていて、文体も分かりやすい。
この「わかる」ことの意味に立脚して学校がどうあるべきか、著者の主張が最終章にまとめられているが、学校関係者に限らず、教育に関心のある方に広く読んでもらいたい1冊。
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正解が言えたからと言って分かったとは言えない。人は正解に反するような事例と出会い、悩み、他者と対話をしながら追究する作業をすることを通して、「納得」するのであり、絶えず「わかり直していく」のである。そして、教師自身も正解の保持者・伝達者ではなく、「わかろう」「わかり直そう」とする文化的実践の参加者である点は、生徒と全く変わらない。著者はこのように考えます。
この本を見ていると、「わかる」ということの意味が実に奥深いものであり、ある意味で正解がないこと、絶えず追究し続けて行かないといけない事だということが分かります。同時に、教師は何でも知ったような顔をしなくていいのだと思わされる。教師自身が真の納得を求めて、追究者になってこそ、皆が追究できるのだと思わされます。
著者は特定の尺度から「できる・できない」を断定する評価観を批判します。それは、学校以外のどこかで生徒にも必ず得意分野があって、「学校の○○のテスト問題が解けない」という現実は、単にその得意分野とテスト問題を繋げて考えられていないからに過ぎない、という立場だからです。分かるという作業は、現実世界のAの出来事と学校で学ぶBのことが同じ問題であるということに「わかり直す」ことである。それは大人も同じである。そんな感じです。
最後に、この本のゆったりとした学び観の背景には、やはり生涯学習的な発想が基盤にあるように感じました。人間は一生学び続ける。そうだとしたら、学校は何をするべきか?細かな知識を伝達して、出来た・出来ないを測る(査定する)より、わかることがいかに難しいか、わかろうとすることが以下の楽しいかを実感することが大切ではないか。そしてそれは人生においても同じではないか。
著者自身が納得を求めて考えていることがよく伝わってくる本でした。おすすめです。
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「知る」、「わかる」、「できる」…同じように使ってしまいがちだけど違う。「できる」は出てこなかったけど。「わからなくても、できる」ことはあり得る。
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「「学べない人間」というのは、決して「わかろうとしない」人間なのではありません。むしろ、なんとかして「わかろう」とするのですが、どこかに「ひっかかり」ができてしまい、そのために「わかろうとしない」ふりをしてしまうことになったのです。」
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タイトル以上の内容で、自分にとってとても良い内容だったので文句なく星5つです。僭越ながら、自分が普段考えていること、経験していることと合致することが多くまさに納得、この本を読んで「わかった!」となりました。
「小さな世界を拡大する」
これは子どもたちとプログラミングをやっていて実感します。小学生でも三角関数を使って動きを作る子がいますが、それは三角関数を知っているのではなく「sinを使うとふわふわ動く」ということを知っているだけなのです。その子らは高校一年生になって三角関数を習った時に納得するかもしれません。
「わかるということは、わかっていること同士が結びつく」
インスピレーションにも言えることだと感じています。インスピレーション(ひらめき)というのは何もないところに突然やってこない。頭の中に溜め込んだガラクタみたいなものが、ある日ガタガタと音を立てて合体してできるもの。そんなイメージを持っているのですが、もしかするとそれが「わかった」瞬間なのだと思います。
先生と子どもは一緒に文化や知識に参加する存在で、先生は子どもに対して援助する存在であるという考え方もとても納得できます。
自分が子どもたちと関わる経験の中で得たものがみごとに言語化されていて納得の連続でした。
40年以上前の本ですが、それはまったく関係ありません。子どもたちの関わるすべての大人(関わらない人は少ないと思うのですが)に読んでもらいたい本です。