紙の本
反面教師としての瀬島龍三
2007/09/13 08:41
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:良泉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
9月4日、瀬島龍三氏が亡くなった。95歳の大往生であった。
ついに最後まで、この人の口から、あの戦争に関する自身の反省の言葉は聞かれなかった。故人に対し失礼とは思うが、非常に残念と言わざるを得ない。
瀬島氏はあの戦争において大本営参謀であった。大本営参謀と言えば、日本軍の作戦の総元締めである。当時の軍にあって最高のエリートであり、特権階級であった。その大本営参謀にあって、直接的にガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦などを担当した瀬島氏である。
無念の涙とともに戦場で死んでいった多くの兵士達の悲痛な叫びは、ついにこの人の心に届くことはなかった。死んでいった多くの軍人だけでなく、残されたその家族にもいやおうなく押し付けられた多大な不幸は、ついにこの人の感覚を刺激することはなかった。
「国威の進出は満州国まででよかった。万里の長城の先へ行ったのが失敗でしたね」
「あの戦争が自存自衛の戦争だったという考えは変わっていません。」
朝日新聞の追悼記事に載った瀬島氏の晩年の言葉である。この人にとって、あの敗戦はあくまで作戦上に失敗であって、決して間違ったものではなかった。
戦後、ソ連によりシベリアに11年間も抑留されていたことを同情的に見る見方もあるようだが、それも違う。過酷な労働と生活環境を強いられ、多くの死者を出したシベリア抑留においてでさえ、彼は特別待遇であった。
結局、彼は戦争が引き起こす悲劇や絶望を、自身の事として身に染み付ける場所を持たなかった。そして、権力を持つ者は必ず腐敗するという例えのまま、自身の戦争犯罪を真正面に見据える心を持つことはなかった。
彼の日本という国及び国民に対する罪責はさらに続く。
シベリアから帰国後、数々の誘いの中から、彼は伊藤忠商事を選び財界にデビューする。それからの彼の暗躍が、後に彼を「政財界の黒衣役」と呼ばしめるものとなる。その彼の活躍の舞台は主に「戦後賠償費」「軍用機商戦」の世界であった。日本国が支払う海外への戦後賠償金、このひも付き部分の受注に暗躍した。また日本再軍備後、どんどんふくれあがる防衛費、防衛庁の受注を受けるために暗躍した。どちらも原資は国民ひとりひとりの税金である。これに「裏金」やら「リベート」をからませた。これによって無駄にふくらんだ税金の支出ははかりしれない。
本人から反省の弁を聞くこともうない。しかし、国民ひとりひとりが真実を学び、第二、第三の瀬島氏を出さないような社会に変えていくことは可能である。
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瀬島龍三 大本営参謀 陸軍中佐 シベリア抑留11年 伊藤忠 インドシナ賠償ビジネス 山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公壱岐正中佐のモデル
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太平洋戦争が終わってから60年以上が経過して、当時のことを知っている生き証人が少なってきています。戦時中の出来事は死ぬまで秘密にしようと思っていた人達の一部は、将来同じ過ちを繰り返してはいけないとの思いから、意を決して真実を語ったようで、この本の中でその一部が取り上げられています。
この本の発刊が1996年、取材はその数年前と考えると、その頃が生き証人からのインタビューとしては最後のチャンスだったのかもしれません。
我々が死ることのできる、残っている歴史は権力者の都合の良い内容しか残っていないので、この本に書かれている証言は真の歴史を垣間見ることのできる数少ないチャンスなのかもしれません。
以下は気になったポイントです。
・戦時中の日本軍のインドネシア占領支配に対する賠償問題は、1957年11月、岸首相とインドネシア初代大統領のスカルノ会談で、総額803億円を日本側が支払うことで決着、ただし12年間に毎年2000万ドル相当の現物支給、インドネシア政府が日本企業に注文し、代金支払いを日本政府保証(p12)
・インドネシアでの西イリアン紛争は、1962年8月、オランダの全面譲歩で妥結、本格戦争は回避された(p23)
・児玉氏は、中国上海で海軍物資調達の児玉機関をつくり、アヘン密売により巨利を得て、自由党(自民党の前身)設立資金に提供した(p30)
・アジア諸国への謝罪と賠償、それは日本が避けて通れない道であった、韓国やインドネシア等への巨額賠償は、日本製品購入が条件の「ひもつき」であった、賠償は日本経済進出の足掛かりであった(p56)
・ポツダム宣言における戦後賠償は、現物(工業設備)と決められた、一次世界大戦後にドイツから取り立てた巨額現金賠償がナチス台頭を許したから(p56)
・陸軍士官学校卒のエリート500人のうち1割が陸軍大学校に進学、その1割の5,6人の成績優秀者が卒業時に天皇陛下から軍刀を貰い、参謀本部作戦課に集まる(p62)
・太平洋戦争前の時点では、日本の年間消費量の7、8割を米国から石油を輸入していた(p82)
・1945年夏、自らの命を絶った軍人、軍属は560人以上に上った(p103)
・天皇の命令である「大本営命令」は、作戦課が原案を作成、作戦部長、参謀総長の決裁を経て、最終的に天皇の裁可で発令、統帥権独立の建前から、内閣・議会は直接関与できず、天皇が原案拒否することもまずない(p107)
・対米戦で参謀本部は、細菌兵器を使えなかったが、中国戦線では、40~42年に揚子江南側などで上空からペスト菌やコレラ菌をばらまいた(p135)
・1945年8月のソ連参戦時、満州各地に住んでいた民間人約155万人の1割強、17.6万人が帰国を果たせずに死亡した(p146)
・スターリンの思惑一つで始まったシベリア抑留をした日本人は57.5万人、そのうち5.5万人が死亡した(p180)
・収容所では、旧軍の階級制度が生きていた、作業分隊100人の隊長(大尉)は作業にでない��、当番兵らと収容棟奥の本部にいた、その下の小隊長(少尉)は現場の監視係であった(p184)
・シベリア抑留を経験した元関東軍兵士(河野氏)によれば、瀬島氏は、1946年のハバロフスク収容所にいたとき、作業に出ることはなく、兵隊とは別の建物のきれいな部屋に住んでいた(p269)
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参謀として、先の戦争で多くの兵士たちを死に至らしめた責任というものを、彼らはどう感じていたのだろう?というのが、この本を読みながらずっと感じていた疑問である。
彼らの中には、戦時中「作戦の神様」などと讃えられた者もいたそうだが、戦後は潜伏しながらぬけぬけと生き残ったばかりでなく、あろうことか国会議員に選出された者もいるという。
参謀というのは、頭脳明晰、成績優秀の選ばれたエリートたちばかりであったというが、兵士一人一人のかけがえのない命を、まるでモノのように扱える人のことなのだろうか。
戦後の混乱に乗じて、国家の賠償予算の利権に群がり、それまでの人脈を駆使して抜け駆けを図って、商社の幹部に昇り詰めた元参謀もいる。彼らは、「恥を知る」という言葉を知らなかったのだろうか。